共産党情報局(コミンフォルム) – 世界史用語集

「共産党情報局(コミンフォルム)」は、第二次世界大戦後の1947年に結成され、ソ連と東欧の共産党、そして当初は西欧の主要共産党(フランス・イタリア)を束ねて情報交換と方針調整を行った国際機関です。平たく言えば、1943年に解散したコミンテルン(第三インターナショナル)の“後継的な連絡センター”として、冷戦初期に各党の足並みをそろえる役割を担った組織です。軍事的・超国家的な権限をもつ司令塔ではなく、宣伝・宣言・連絡の色合いが強い点が特徴です。マーシャル・プランへの反対、人民民主主義路線の擁護、西欧での統一戦線戦術の整理、そしてユーゴスラヴィアのチトー政権との決裂(1948年)などが主要トピックでした。1956年、スターリン批判と脱スターリン化の波の中で解散し、その機能は各国党や二国間関係、経済面ではコメコン(CMEA)へと散っていきます。以下では、成立の背景と性格、組織と活動、主要事件と路線、解散と遺産を、理解しやすい順で整理します。

スポンサーリンク

成立の背景と性格――「インターナショナル」ではなく「連絡局」

1947年9月、ポーランドのシュクラルスカ・ポレンバで会議が開かれ、ソ連共産党(ボリシェヴィキ)、ユーゴスラヴィア共産党、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、ポーランド、チェコスロヴァキア、イタリア、フランスの9党が「共産党情報局(Communist Information Bureau)」の設立を決定しました。戦時中に解散したコミンテルンの空白を埋め、冷戦の緊張が高まる中で各党の情報共有と宣伝の統一を図るのが目的でした。

この時期、アメリカはトルーマン・ドクトリン(反共支援)とマーシャル・プラン(欧州復興支援)を打ち出し、西欧社会民主主義勢力との連携を強めていました。ソ連側は、東欧に成立した「人民民主主義」政権群の連帯を固めつつ、西欧の有力共産党が政権参加や強力な野党として影響力を保つことを期待しました。コミンフォルムは、こうした政治地図の転換点で、〈世界党の再建〉ではなく〈各党の足並み調整〉に照準を合わせた「連絡局」でした。名称が示すように、インターナショナル(国際本部)ではなく「インフォメーション・ビューロー(情報局)」であったことが、その性格を物語ります。

初期本部はベオグラード(ユーゴスラヴィア)に置かれましたが、1948年にユーゴが除名されると、ブカレスト(ルーマニア)へ移されました。公刊機関紙として『永続する平和のために、人民民主主義のために!』が発行され、各国語版で路線文書や論説が広く流通しました。

組織と活動――宣伝・声明・連絡の三本柱

コミンフォルムの構造は、世界大会や常設の「党中央委員会」に相当するような重層機構ではありません。各党代表による会議と、比較的小規模な事務局(セクレタリアート)で構成され、定期・臨時の会合で共同声明・決議を採択しました。決定は法的拘束力を持たないものの、ソ連共産党の重みと政治的現実から、東欧諸党にとっては事実上の強い拘束力を持ちました。

活動の中心は三つです。第一に、宣伝・イデオロギー面での統一です。対外的には「二つの陣営」論(平和・民主主義の陣営=ソ連・人民民主主義諸国と、帝国主義・反動の陣営=米英を中心とする資本主義世界)の図式を提示し、マーシャル・プランを欧州分断と対ソ包囲の道具として批判しました。第二に、各国の政治局面に即した戦術の調整です。西欧では、フランス・イタリア共産党に対して、1947年の政変を機に政府からの離脱・労働運動と大衆闘争への軸足移動を促し、ストライキや社会運動を通じた「人民戦線的」影響力の回復を志向しました。第三に、東欧諸国の社会主義化(「人民民主主義」から計画経済・国有化・単一政党支配への移行)を政治的・イデオロギー的に支えることでした。

経済・軍事の具体的統合はコミンフォルムの任務外で、経済は1949年創設の経済相互援助会議(コメコン)が、軍事はのちのワルシャワ条約機構(1955年)が担います。したがって、コミンフォルムは政治宣伝と党組織のラインで「雰囲気と方向」をつくる役割に特化していました。

主要事件と路線――マーシャル・プラン批判、ユーゴ除名、東欧の体制化

結成の直後から、コミンフォルムはマーシャル・プランに対する総反攻を展開しました。各国共産党は議会・労組・街頭で反対運動を組織し、西欧での政権参加戦術から反対勢力形成へと舵を切ります。フランス・イタリアでは、1947年に共産党が連立政府から排除されると、物価高・失業・復員兵問題に焦点を当てた広範な社会運動に関与しました。西欧での即時的な政権奪取は現実的ではありませんでしたが、〈冷戦の国内化〉の中で影響力の維持が図られました。

コミンフォルム史の最大の転機は、1948年のユーゴスラヴィア除名(いわゆるチトー=スターリン分裂)です。ユーゴは戦時抵抗運動の自力解放を背景に、復興と社会主義建設で独自路線(地方自主管理など)を模索していました。ソ連は対外政策や経済協定での食い違い、党組織の自立志向を問題視し、コミンフォルム会議でユーゴ党を「民族主義的逸脱」と批判、除名に踏み切ります。これにより本部はベオグラードからブカレストに移され、東欧の各党は「スターリン・モデル」への整列を一層迫られました。ユーゴは以後、非同盟運動の先駆けとして独自の国際的立場を築いていきます。

東欧では、1947~48年にかけて〈人民民主主義〉の段階から社会主義体制への移行が加速します。単一政党化(または人民戦線の名を保った一党支配)、主要産業の国有化、農業の集団化、治安機関の整備が進み、反対派や教会・民族主義勢力への弾圧が強まりました。コミンフォルムは、こうした過程を理論的に正当化し、各党指導部の引き締め(党内粛清や「トロツキスト・民族主義」批判)を後押ししました。文化・学問面ではジダーノフ主義に象徴されるイデオロギー統制が行われ、芸術・文学・学術研究に「社会主義リアリズム」や階級的基準が求められました。

対外的には、ベルリン封鎖(1948–49年)やNATO結成(1949年)など冷戦の緊張が高まる中で、コミンフォルムは「平和擁護運動」や「反大西洋同盟」キャンペーンを展開しました。世界平和擁護会議などの周辺団体が組織され、署名運動や国際会議を通じて核兵器禁止・再軍備反対などの世論形成が試みられました。

西欧共産党との関係――「国民的道」とのせめぎ合い

フランス共産党(PCF)とイタリア共産党(PCI)は、戦後直後に抵抗運動の威信と大衆支持を背景に大きな議席を獲得し、政権の一角を担いました。コミンフォルム結成後は、マーシャル・プランに反対して政府から離脱し、以後は議会・自治体・労組を拠点に「人民戦線的」な社会運動へ軸足を移します。しかし、両党には「国民的道(各国の国民的条件に基づく社会主義への道)」を探る志向が根強く、ソ連・東欧のモデルをそのまま移植することには慎重でした。このせめぎ合いは、1950年代以降の西欧共産主義(ユーロコミュニズム)や、反スターリン化の受け止め方の違いへとつながっていきます。

一方で、冷戦下の国内政治では、共産党に対する監視・排除・プロパガンダが強まり、ストライキの政治化や文化界の分断も進みました。コミンフォルムは西欧社会の自由主義的・キリスト教民主主義的ヘゲモニーに対抗しようとしましたが、東欧モデルへの警戒感と、ソ連外交の変動(とくに独ソ不可侵の記憶と戦後の対外姿勢)が重しとなりました。

解散と遺産――1956年の終焉、その後に残ったもの

1953年のスターリン死後、ソ連指導部内の権力再編と「平和共存」路線への模索が進みます。1956年、フルシチョフ第一書記が第20回党大会でスターリンの個人崇拝と抑圧を批判すると、東欧で「雪解け」の動きが高まりました(ポーランド十月、ハンガリー蜂起)。こうした状況の中、コミンフォルムは存在意義を失い、同年5月に正式解散します。以後、各国党は二国間関係と独自路線の比重を増し、国際連帯は〈会議〉と〈声明〉の緩やかな枠組みに後退します。

コミンフォルムの遺産は、第一に「冷戦初期における東欧体制化の政治的潤滑油」としての役割にあります。宣伝・理論の統一、キャンペーンの統合、党内統治の標準化は、短期間に各国を同型化するのに寄与しました。第二に、西欧共産党への影響と限界です。社会運動の動員や文化戦線の形成に一定の成果を残した一方、ソ連中心の論理が各国の条件に十分適合せず、長期的には「国民的道」の確立へと反発を促す結果にもなりました。第三に、ユーゴとの決裂が示した〈多極化〉の可能性です。非同盟運動や第三世界の自立路線は、コミンフォルム的なブロック統制からはみ出す力学を体現しました。

総じて、コミンフォルムは「世界革命の総司令部」ではなく、「冷戦のはじまりに、社会主義陣営と各国共産党の政治的テンポを合わせるためのメトロノーム」のような存在でした。その役割は短命でしたが、マーシャル・プラン批判、ユーゴ除名、平和運動の国際化、東欧の体制化という節目に刻印を残し、その後の国際共産主義運動の多様化と分岐の基調を準備しました。コミンテルンからコミンフォルムへ、そして各国党の自立と相互関係へ――20世紀の左翼国際運動は、集中から分散への長い転換をたどったのです。