新羅 – 世界史用語集

新羅(しらぎ/しんら)は、朝鮮半島の南東部を中心に発展し、のちに半島の大部分を統一した古代国家です。朝鮮の古代史を語るときは、高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅の三国が並び立った「三国時代」が有名ですが、新羅は最終的に唐(中国)との同盟を利用しながら競争相手を倒し、7世紀後半に統一国家の形を作り上げたことで特に重要視されます。統一後の新羅は、朝鮮半島で初めて大きな範囲を一つの王権でまとめた国家として位置づけられ、東アジア国際関係や文化交流の中でも大きな役割を果たしました。

新羅の歴史には二つの顔があります。ひとつは三国の一角として生き残りをかけて戦った時代の新羅で、もうひとつは百済・高句麗を滅ぼした後、唐とも対立しながら独自の統一国家を維持した「統一新羅」の時代です。前者では軍事・外交の駆け引きが中心になり、後者では統治制度の整備や、仏教文化の花開きが目立ちます。だから新羅という用語は、単に国名として覚えるだけでなく、「いつの新羅を指しているのか」を意識すると理解がぐっと深まります。

また、日本史との関わりでも新羅はしばしば登場します。倭(日本)と百済の関係、白村江(はくすきのえ)の戦い、唐・新羅による半島再編の影響などを通じて、日本列島側の政治や防衛体制にも大きな刺激を与えました。さらに新羅は海上交易の拠点としても力を持ち、東アジアの人と物が動くネットワークの中で存在感を示します。こうした点から、新羅は朝鮮半島内部の歴史にとどまらず、東アジア全体の流れの中で理解される国家だといえます。

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成立と三国時代の新羅:周縁から中心へ

新羅の起源は、古代の小国群(辰韓など)から発展したと説明されることが多く、伝承では朴(パク)氏の建国神話などが語られます。初期の新羅は、朝鮮半島南東部の比較的限られた範囲を拠点とし、北方の高句麗や西南の百済に比べると、早い段階では“周縁の勢力”という印象を持たれがちでした。しかし、地理的には日本列島や中国大陸とつながる海域にも近く、内陸の交通路にも関わる位置にあったため、周辺勢力との連携や交易を通じて次第に力を蓄えていきます。

三国が並び立つ時代は、単に軍事的に戦うだけでなく、外交で有利な立場を作ることが重要でした。新羅は高句麗と百済の圧力を受けながら、時にはどちらかと結び、時には対抗勢力を利用するという形で生き延びます。ここで大きな意味を持ったのが、中国王朝との関係です。朝鮮半島の諸国は、冊封的な国際秩序の中で朝貢や外交関係を結び、権威や技術、文化を取り入れながら国家を整えていきました。新羅もまた中国との交流を通じて制度や文化を吸収し、国内の統治基盤を強めていきます。

国内制度として特徴的なのが「骨品制(こっぴんせい)」と呼ばれる身分秩序です。王族や貴族を中心に身分が段階づけられ、官職への就任や婚姻などに影響を与えました。骨品制は王権を支える貴族層を組織化する仕組みであり、同時に社会の上昇を制限する枠にもなります。新羅が統一へ向かう過程では、こうした貴族秩序と王権の関係が国家運営の重要な土台になっていきます。

統一への道:唐との同盟と百済・高句麗の滅亡

新羅が朝鮮半島の主導権を握る決定的な局面は、7世紀の唐(中国)との同盟です。当時、東アジアでは隋・唐の統一王朝が強い影響力を持ち、周辺地域でも勢力再編が進みました。新羅は百済・高句麗との競争を単独で決着させるのが難しいと判断し、唐の軍事力を取り込むことで状況を一気に変えようとします。

660年、唐と新羅は連合して百済を滅ぼします。百済は倭(日本)とも関係が深く、百済復興運動を支援する倭と唐・新羅が戦ったのが663年の白村江の戦いです。この戦いで倭側が大敗したことは、日本列島側の政権が防衛体制を強化し、大陸との関係を見直すきっかけにもなりました。新羅にとっては、百済滅亡後の秩序形成において重要な局面であり、半島南西部の勢力を組み替える過程でもありました。

続いて668年、唐と新羅は高句麗を滅ぼします。これにより三国時代は大きく終結へ向かいますが、ここで問題になるのが唐の意図です。唐は単に新羅を助けたわけではなく、半島に直接支配機構(都護府など)を置き、影響力を強めようとします。つまり新羅は「同盟で勝った」一方で、「強大な同盟相手が半島を支配しようとする」という新しい難題に直面します。

新羅はこの唐の支配拡大に抵抗し、670年代以降、唐と軍事的に対立する局面を迎えます。最終的に新羅は半島南部から中部にかけての支配を確立し、唐は勢力を後退させます。この結果、新羅が半島の広い範囲を統治する体制が整い、一般に「統一新羅」と呼ばれる時代が始まります。ただし、北方には高句麗遺民などを基盤に渤海(ぼっかい)が成立し、朝鮮半島と満洲を含む地域の勢力図は「新羅と渤海の並立」という形を取ることになります。したがって「統一」といっても半島全域を完全に一体化したというより、半島の主要部を新羅がまとめた、と理解するのが現実に近いです。

統一新羅の社会と文化:仏教国家としての成熟

統一新羅の時代には、国家統治の枠組みが整えられ、文化が大きく花開きます。政治面では、唐の制度や文化の影響を受けながらも、新羅独自の貴族秩序の中で行政が運営されました。官僚制度や地方統治の整備が進む一方、骨品制に代表される貴族的な序列が政治の中枢を占め続けます。王権が強い時期もあれば、貴族が実権を握って王権が揺らぐ時期もあり、統一新羅は安定と緊張の両方を含む政治史を持ちます。

文化面で特に目立つのが仏教です。新羅は早くから仏教を受容し、統一後には国家の精神的基盤として仏教が強く位置づけられます。慶州(キョンジュ)を中心に、寺院建築、仏像彫刻、石塔などが発展し、現在でも世界遺産級の文化遺産が多く残ります。たとえば石窟庵(ソックラム)や仏国寺(プルグクサ)は、統一新羅文化の象徴としてしばしば取り上げられます。こうした文化は唐との交流や、海上交易を通じた広いネットワークの中で形成されました。

また、新羅は「海の道」にも強かったとされます。東シナ海・黄海・日本海に広がる海上交易の中で、新羅商人の活動は知られ、港湾や交易拠点を通じて物資と情報が動きました。新羅が単に半島内で完結する国家ではなく、東アジアの交流圏の一角として動いていたことを示す要素です。こうした交易は、文化だけでなく政治や外交にも影響を与え、周辺諸国との関係を立体的にします。

一方、社会構造には緊張も残りました。貴族中心の秩序が固定化し、地方の負担や農民層の不満が蓄積すると、統一新羅の末期には反乱や地方勢力の自立が目立つようになります。こうして10世紀頃にかけて、後三国時代へ移行し、最終的には高麗(こうらい)が半島統一を果たしていきます。新羅はその前段階として、古代朝鮮の国家形成と文化成熟の重要な節目を示す存在です。

東アジア史の中の新羅:日本・唐・渤海との関係

新羅は、周辺諸国との関係の中で姿を変えながら発展しました。唐とは、同盟による勝利と、その後の対立という複雑な関係を経験し、結果として独自の統一国家として立つことになります。これは、強大な帝国と結びつきながらも、その支配を受け入れずに自立を守るという、東アジア史の中でも重要な政治過程です。

日本との関係では、百済をめぐる対立が大きな焦点になります。白村江の戦いは、日本史側では「対外危機と中央集権化の加速」と結びつけて語られ、新羅側から見れば「半島秩序の再編の中で対抗勢力を押し返した局面」として位置づけられます。その後も両者は交流と緊張を繰り返し、交易や外交使節の往来も続きました。

さらに北方には渤海が成立し、新羅は渤海との関係を含めて地域秩序を考える必要がありました。新羅と渤海の並立は、東北アジアにおける勢力の多元性を示し、「半島=一国家」という単純な図式では理解できない状況を作ります。こうした国際環境の中で、新羅は南の統一国家としての性格を強め、文化的にも国際的にも成熟していきました。

このように新羅は、三国時代の競争を勝ち抜き、唐との同盟と対立を経て統一新羅を形成し、仏教文化を花開かせながら東アジア交流圏の一角を担った国家です。国名として覚えるだけでなく、「統一に至る外交戦略」「連邦ではなく貴族秩序に支えられた統治」「唐・日本・渤海との関係」といった流れで捉えると、新羅という用語の輪郭がよりはっきりします。