「業(カルマ)」は、行為とその結果が因果的に結び付くというインド思想の中核概念です。もともと〈する・為す〉を意味する語から出発し、身体・言葉・心の働きが、当人の経験や来世の境涯を形成すると考えられました。単なる“運の良し悪し”ではなく、動機・意図・習慣としての行為が連鎖して人格と世界を作るという発想が土台にあります。古代インドでは、バラモン教・ヒンドゥー教・仏教・ジャイナ教など諸宗教がそれぞれ独自に理論化し、輪廻からの解脱(モークシャ/ニルヴァーナ)をめざす実践と結びつきました。近代以降も、東アジアの「因果応報」や民間信仰、日常語の「業が深い」といった表現にまで浸透しています。本稿では、起源と基本構造、主要諸宗教における相違、東アジアへの受容、倫理と自由意志の問題、現代的誤解と用法を解説します。
起源と基本構造:行為・意図・結果の連鎖
「カルマ」はサンスクリット語で「行為」を表す karman に由来します。ヴェーダ時代には祭式(ヤジュニャ)を適切に行うことが宇宙秩序(リタ)と共鳴し、現世利益や天界往生をもたらすと理解されました。やがてウパニシャッド期になると、外的祭式よりも内的な知(ブラフマン―アートマンの洞察)と倫理的行為が重視され、個人の行為が来世の生まれ(輪廻)を条件づけるという思想が前面に現れます。ここで「業(行為)→果(結果)」の法則性が個人の生の継起へ拡張され、〈自己形成の因果〉としてのカルマ論が成立しました。
カルマの分析では、(1)行為の主体(誰が行うのか)、(2)行為の性質(善・不善・無記など)、(3)動機=意図(心のあり方)、(4)熟す時機(今生/来生/さらに後)、(5)果(楽受・苦受・境遇・傾向性)といった要素が検討されます。重要なのは、行為が単発で消えるのではなく「潜勢」として心相続に保存され、条件が整うと結果として現れるという時間的な構造です。これにより、人は瞬間瞬間の選択で未来の自分を形作っていると捉えられます。
また、カルマは個人に閉じた仕組みだけではありません。家族・共同体・社会制度といった環境要因(他者の行為・構造の暴力)も結果の形成に影響します。諸伝統は、個の責任と構造的条件の双方をどう折り合わせるかを論じてきました。たとえば「共業(ぐうごう)」という概念は、同じ条件を共有する集団の行為傾向が、共同の結果(戦乱・飢饉・繁栄)を招くという見方を表します。
諸宗教における展開:ヒンドゥー教・仏教・ジャイナ教・アージーヴィカ
ヒンドゥー教(バラモン教)では、カルマはダルマ(法・秩序)と不可分です。各人は生まれ・年齢段階・職分に応じた務め(ヴァルナとアーシュラマの倫理)を果たすことで善業を積みます。他方、『バガヴァッド・ギーター』は〈行為しつつ執着せず〉という「ニシュカーマ・カルマ」を説き、結果への欲望を離れた義務の遂行が解脱の道とします。ここでは〈行為の放棄〉ではなく〈行為への執着の放棄〉が強調され、信仰(バクティ)と知(ジュニャーナ)との統合の中でカルマが位置づけ直されました。
仏教では、カルマは〈意図ある行為(チッタの志向)〉に重心が置かれます。『増支部』に「意(チッタ)こそ業なり」とあるように、身体(身)・言葉(口)・心(意)の三業のうち、とりわけ意図(チェータナー)が業の道徳的評価を決めるとされます。結果(業果・異熟)は、苦・楽の感受や再生の世界(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)として現れますが、無我(アナッター)と縁起の教理から、固定した〈業主体〉は想定されません。連続する心身過程が因果的に継起するだけで、そこに〈我〉を投影しないのが仏教的特徴です。
部派仏教では、業の保存と発現を巡って精緻な議論が展開されました。たとえば説一切有部は「業は色法ではなく心法に属し、種子として相続に潜む」と整理し、瑜伽行派(唯識)は「阿頼耶識」に業種子が薫習されると説明します。大乗仏教では、善根を他者へ回向する思想(廻向)や、菩薩が自らの功徳を衆生の成熟に振り向ける誓願が重視され、個人の業と他者救済との関係が新たに解釈されました。浄土教では、阿弥陀仏の本願力に依る「他力」が強調され、自己の有限な善業では到達し難い解脱を、信心と称名によって開くという道が説かれます。これを、因果の否定ではなく「因果に先立つ慈悲(縁)」の発見と捉える伝統もあります。
ジャイナ教はカルマ理解がとくに独自です。カルマは倫理的抽象ではなく、微細な「物質」として魂(ジーヴァ)に付着・沈着すると考えます。暴力や嘘、不節制などの行為は粗いカルマ物質を呼び込み、禁欲・苦行・瞑想・断食によってその沈着を焼き尽くす(ニルジャラー)ことで解脱が実現します。ゆえにジャイナ教の倫理は、徹底した非暴力(アヒンサー)と自他の生命尊重を中核に据えます。
アージーヴィカ派は古代インドの宿命論的学派で、〈運命(ニヤティ)〉がすべてを決定し、個々の努力やカルマの積み重ねは無効だと主張しました。仏教やジャイナ教はこれを批判し、〈業=努力可能な因〉としての倫理的責任を強調します。ここには自由意志と決定論を巡る古典的論争の原型が見て取れます。
東アジアへの受容:業・因果応報・宿業観の広がり
仏教の東漸にともない、カルマは漢訳仏典で「業」と訳されました。身口意の三業、業道(殺生・偸盗・邪淫・妄語…)の十善・十不善、業障・業報・宿業といった語彙が広く定着します。中国では、儒家の家族倫理や道教の現世利益信仰と接触し、「善因善果・悪因悪果」を説く勧善書や冥報記が流布しました。日本でも、平安期の往生譚や説話集は因果応報の物語を数多く伝え、民間では「先祖の因縁」「家の業」という語り口で、個人の不運や特質を説明する枠組みとして用いられるようになりました。
ただし、仏教本来の教理では、業は〈変えられない宿命〉ではありません。善行・懺悔・布施・持戒・禅定・智慧の実践により、業の成熟を転じ、苦の連鎖を断つことができると説きます。天台・華厳・禅・浄土各宗はそれぞれの方法で「因果=縁起」の深い理解を促し、固定的な運命論を戒めました。業は〈選択可能な傾向〉であり、〈学びと修養で書き換え可能な履歴〉なのです。
また、社会的文脈では、業思想が不幸や差別の正当化に悪用される危険もあります。近代以降、近代医学や社会政策が整う中で、「病や貧困は業のせい」と片づける言説は、構造的問題を見えなくします。近代仏教者は、個の自省と社会倫理の両立を模索し、「自業自得」を自責のみに閉じず、共業の改善=制度改革・慈善・教育の推進へと広げる解釈を提案しました。
倫理・心理・自由意志:カルマは運命か、それとも学習か
カルマはしばしば〈運命〉と誤解されますが、本質は〈学習〉に近いです。行為は習慣を作り、習慣は性格を作り、性格は選択を左右します。仏教心理学はこのプロセスを「業習(ごうじゅう)」と呼び、注意(サティ)と智慧(パニャー)で無自覚な反応パターンを観照し、選び直す訓練を重視します。瞑想や懺悔は、蓄積された反応傾向を可視化し、反射的な怒りや貪りを弱める具体的な方法です。ヒンドゥーのヨーガも、〈行為の果への執着〉を手放す実践を通じ、行為そのものの純化を目指します。
自由意志との関係では、カルマは〈完全決定論〉でも〈完全自由〉でもありません。過去の業は現在の選択に条件を課しますが、現在の選択が未来の条件を作り変えます。したがってカルマは、歴史的条件の下での創造的自由—〈条件付き自由〉—の理論といえます。さらに、共業の視点を入れれば、倫理は私的修行を超えて、制度設計・公共政策・環境保全・テクノロジーの倫理へと拡張されます。個の努力と社会の責務を両立させることが、現代的カルマ理解の要です。
現代的用法と誤解:スピリチュアル化と科学的隣接領域
近現代の大衆文化では、「カルマ=報い」「バッド・カルマ」といった略式表現が広がりました。人間関係のトラブルや偶然の不運を、単純にカルマで説明する傾向は、責任の過剰な個人化や、差別の正当化につながる危険があります。本来の伝統は、意図と行為、学習と修養、共同の努力を重視しており、短絡的な原因探しを戒めます。宗教間対話の場でも、カルマは「罪」と同一視されがちですが、カルマは〈行為の因果〉であり、内在的な道徳的秩序(罰者としての神を想定しない)という点で、神学的罪概念と異なる軸を持ちます。
一方、心理学・行動科学・神経科学は、習慣化・条件づけ・実行機能・意思決定といった分野で、行為と結果の連鎖を実証的に研究しています。宗教的なカルマ論そのものを科学が検証できるわけではありませんが、「繰り返す行為が自己像と選好を変える」「注意・動機づけの訓練が行動を変容させる」という知見は、カルマの人間学的コアと響き合います。倫理教育やマインドフルネス実践は、その接点に位置する現代的応用といえるでしょう。
まとめ:〈行為が世界を形作る〉という視点
業(カルマ)は、個人の内面(意図)と外的世界(結果)を一本の因果線で結ぶ視座です。行為は単に結果を生むだけでなく、行為者自身を作り変えます。諸宗教は、この連鎖を「解脱」や「救い」へ向けてどう整えるかを、それぞれの言葉で語ってきました。ヒンドゥーは執着なき行為、仏教は縁起と無我の洞察、ジャイナは非暴力の徹底によって、行為の質を根底から変えようとします。東アジアでは「因果応報」として生活倫理に根づき、現代では心理学・社会政策とも接続しながら解釈が更新されています。運命論でも魔法でもなく、〈毎日の小さな選択が未来を編む〉という現実的な教えとして、カルマを理解することが大切です。

