ケレンスキー(アレクサンドル・フェードロヴィチ・ケレンスキー, 1881–1970)は、1917年ロシア革命の「二月革命」と「十月革命」の狭間で臨時政府を主導した政治家です。法廷弁護士から出発し、下院ドゥーマの雄弁家として反ツァーリ運動の象徴となり、二月革命後は司法相・陸海相・首相を歴任しました。彼は議会主義と法の支配、戦時連合への責務、農民・兵士・労働者への譲歩を同時に追求しようとしましたが、戦争継続と改革の遅れ、統治の二重権力構造、コルニーロフ事件の余波の中で支持を失い、十月にボリシェヴィキに権力を奪取され亡命します。ケレンスキーの軌跡は、帝政崩壊後の権力空白を立憲主義で埋めようとした試みと、その限界を示す事例として、世界史上の重要な転換点を象徴しています。
生い立ちと政治家への道:法廷弁護士からドゥーマの雄弁家へ
ケレンスキーはトルキスタン(現キルギス領シムケント近郊)で教育者の家庭に生まれ、ペテルブルク大学で法学を学びました。1905年革命の波の中で司法の役割に関心を深め、政治犯や労働運動家の弁護を引き受ける法廷弁護士として名を上げます。演説の巧みさと正義感は世論の支持を集め、1912年の第四国会(ドゥーマ)選挙で当選しました。院内では立憲主義と市民的自由の擁護を掲げ、穏健社会主義勢力(社会革命党系統に近い立場)と自由主義者の橋渡し役を果たします。第一次世界大戦が長期化する中、ツァーリ政権の専断と無能を厳しく批判し、戦争遂行のためにも政治改革が不可欠だと訴えました。
彼の政治的スタイルは、法と議会を通じて国家を変えるという信念に支えられていました。陰謀や暴力ではなく公開討論と合意形成を重んじ、職能としての国家官僚・軍・司法の専門性を尊重しました。その姿勢は帝政末期の閉塞的な政治状況の中で清新に映り、二月革命ののちに彼が短期間で中枢へ上り詰める素地となりました。
二月革命と臨時政府:司法相・陸海相としての改革と戦争継続
1917年二月革命でツァーリ体制が崩壊すると、ドゥーマ臨時委員会が行政の空白を埋め、ソヴェト(労兵代表評議会)と並ぶ二重権力が出現しました。ケレンスキーは臨時政府の司法相に就任し、政治犯の釈放、言論・集会・結社の自由の承認、死刑の廃止(のち戦時下で一部復活)など、自由主義的改革を一挙に進めます。彼は革命の合法性と秩序を同時に確立しようとし、旧体制の治安機構に代わる制度設計を急ぎました。
しかし最大の難題は戦争継続の是非でした。連合国との同盟を維持し、領土不割譲・不賠償の原則のもと「民主的平和」を追求するという政府方針は、前線の疲弊と後方の動員疲れの前で説得力を失っていきます。ケレンスキーは連合国に対しロシアの参戦継続を確約しつつ、戦争目的の道義的正当化を試みましたが、兵士・農民・労働者の要求は、即時講和、土地再分配、八時間労働制など、政府の進度を上回る速度で高まっていました。
1917年5月の閣僚交代で彼は陸海相となり、軍の士気回復を図って前線視察や演説を重ねます。士官と兵士の溝を埋めるべく「自由と規律」を合言葉に軍の民主化を訴え、軍法の緩和や兵士委員会の導入を支持しましたが、統率の弛緩と命令系統の混乱を招く副作用も顕在化しました。6月には南西戦線で攻勢(通称「ケレンスキー攻勢」)を敢行しますが、補給の不足、士気の低下、ドイツ軍の反撃の前に崩壊し、前線の動揺は政権の権威を大きく傷つけました。
コルニーロフ事件と権威の失墜:秩序回復の挫折とボリシェヴィキの伸長
戦況悪化と国内の混乱の中で、「秩序回復」を掲げる強権的解決が台頭しました。1917年8月、最高司令官ラーヴル・コルニーロフ将軍は、首都の無秩序を鎮める名目で軍隊をペトログラードへ進め、革命勢力の一掃を志向していると受け取られます。ケレンスキーは当初コルニーロフと協調して危機の収拾を図ろうとしたともいわれますが、両者の意思疎通は破綻し、首相ケレンスキーはこれを反乱と断じて罷免、抵抗を呼びかけました。
臨時政府はボリシェヴィキやソヴェトの民兵(赤衛隊)にも武器を配り、鉄道労働者・通信員の協力でコルニーロフの進軍を阻止します。事件自体は血を流さず終息しましたが、帰結は皮肉でした。政府は軍と保守勢力の信頼を失い、一方で武装と宣伝の機会を得たボリシェヴィキは都市部で急速に影響力を増し、ソヴェト内部の多数派となっていきます。秩序回復と自由の両立を探るケレンスキーの綱渡りは、右からも左からも支持を失う結果になりました。
この時期、土地問題と民族問題も急務でした。政府は憲法制定議会の開催まで土地主張の解決を先送りしようとしましたが、農村では自発的な土地占拠が広がり、地方での権威の空洞化が進みました。民族自決をめぐっても、ウクライナやフィンランド、コーカサスの自治・独立要求に対し、政府は一貫した回答を示せず、中央の統治力はさらに低下しました。
十月革命と亡命:立憲主義の挫折、その後の活動
1917年10月、ボリシェヴィキは武装蜂起を決行し、冬宮に拠る臨時政府を排除しました。ケレンスキーは前線からの部隊を呼び戻して反撃を試みましたが、首都の軍・鉄道・通信の掌握に失敗し、政権は崩壊します。ボリシェヴィキはただちに平和(ブレスト=リトフスク条約)、土地の社会化、労働者管理などの布告を発し、旧来の官僚制と議会の枠外で統治を進めました。ケレンスキーは欧州へ亡命し、のち米国に移ってロシア革命の回想と講演活動を行い、立憲主義と反全体主義の立場から20世紀政治を論じました。
亡命後のケレンスキーは、帝政・ボリシェヴィズムの双方に批判的な第三の立場を自認し、議会と法の枠組みの必要を強調しました。しかし内戦と赤色テロ/白色テロの連鎖の中で、その声がロシア国内政治に影響を与える機会は乏しく、彼の名はしばしば「優柔不断な自由主義者」の代名詞として記憶されました。他方で、史学は彼を単純な無能者と断じることを避け、二重権力・総力戦・社会動員という未曽有の条件下で立憲的統治を試みた政治家として、その可能性と限界を具体的に評価し直しつつあります。
評価と論点:二重権力・総力戦下での立憲主義の可能性
ケレンスキーをめぐる評価は、三つの軸で整理できます。第一に、戦争継続と改革の両立可能性です。彼は連合国への責務と対外的信用を維持しつつ国内改革を進めようとしましたが、前線崩壊と後方の急進化が同時進行する中で、漸進的改革は「遅すぎる」と見なされました。もし即時講和に舵を切っていれば農民・兵士の支持は得られたかもしれませんが、独墺の対露条件や国家瓦解のリスクを考えれば、それもまた別の破局を招いた可能性があります。
第二に、コルニーロフ事件への対応の可否です。強権的秩序回復に傾く軍と、革命の成果を守ろうとする大衆の板挟みで、ケレンスキーは反乱鎮圧に成功したものの、結果的にボリシェヴィキを伸長させました。ここで彼に可能な第三の道があったのか、軍と左派の間で持続的妥協は可能だったのかという反実仮想は、今も議論の対象です。
第三に、統治構造の設計です。臨時政府はソヴェトと並立する「二重権力」のもとで、命令が重なり合い、誰が何を代表するのかが曖昧になりました。ケレンスキーは憲法制定議会の招集で正統性を確定しようとしましたが、戦時と内乱の圧力の下では遅延と不確実性が致命傷になりました。危機時の立憲主義は、平時の制度論では捉えきれない速度と強制力の問題に直面することを、彼の経験は教えています。
人物像と遺産:演説家の資質、法の人としての一貫性
ケレンスキーは、華やかな演説と身振りで聴衆を引きつける天性の弁舌家でした。舞台俳優的とも評された大仰な表現は、熱狂を呼ぶ一方で、実務家・組織運営者としての堅実さに疑問符を付されることもありました。彼の強みは、人権と法の手続の尊重、暴力を抑制する規範の信頼にあり、弱点は、総力戦下での迅速な意思決定と、相反する要求を切断する政治的冷徹さに欠けた点にあったと言えます。
それでも、帝政崩壊後の短い時間に、死刑の廃止や言論の自由の拡大、政治犯 amnesty、裁判制度の整備といった改革を実現した事実は重いです。彼の名は敗北と結び付けられがちですが、権力の移行を血の海にしないための法の枠組み、異なる勢力の対話の回路を作ろうとした努力は、危機時の政治における選択肢の一つとして記憶されるべきです。亡命後の長い生涯で、彼は講壇から一貫して法と議会の価値を説き続けました。
まとめ:1917年ロシアの「もう一つの可能性」を映す鏡
ケレンスキーは、帝政の崩壊からボリシェヴィキ独裁へと移る劇的な一年において、立憲主義的な国家再建の「もう一つの可能性」を体現した人物でした。戦時同盟と国内改革、自由と秩序、議会と街頭——両立の難しい価値を同時に支えようとした彼の試みは、結果として失敗に終わりましたが、その失敗は条件の厳しさを示す証言でもあります。ケレンスキーを学ぶことは、革命が民主主義へとつながるための条件、危機の速度に制度がどう耐えるか、そして政治的正統性がどのように獲得・喪失されるかを考える手がかりになります。彼の名は、単なる過渡的指導者のそれではなく、二十世紀の政治的選択の困難を映す鏡として、今日も読む価値をもつのです。

