ケロッグ – 世界史用語集

ケロッグ(フランク・B・ケロッグ, Frank Billings Kellogg, 1856–1937)は、1928年のパリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)の提唱・実現で知られるアメリカ合衆国の外交官・政治家です。米国務長官としてフランスの外相アリスティッド・ブリアンの提案を多国間化し、戦争そのものを国家政策の手段として放棄するという前例のない規範を国際社会に打ち立てました。条約は強制力や制裁を欠き、1930年代の満州事変やエチオピア侵攻、第二次世界大戦の勃発を防げなかったという限界を抱えましたが、戦争違法化の理念は国連憲章や戦後の国際刑事裁判(侵略の罪)に受け継がれ、20世紀の平和秩序の「言葉」を塗り替える転換点となりました。本稿では、ケロッグの経歴と時代背景、条約成立のプロセスと思想、評価と限界、そして戦後国際秩序への影響を整理します。

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生涯と時代背景:草創期アメリカ外交から戦間期国際協調へ

ケロッグは米ミネソタ州を拠点とする弁護士として頭角を現し、反トラスト訴訟や連邦上院議員を経て、1925年にクーリッジ政権の国務長官に就任しました。彼は理念先行の理想主義者というより、国内政治の制約を読み取る慎重な実務家でした。第一次世界大戦後、米国では国際連盟への参加拒否と孤立主義の高まりが見られた一方、軍縮や仲裁といった限定的国際協調は受け入れられやすい状況にありました。ワシントン海軍軍縮会議(1921–22)の成功は、海軍費抑制と太平洋秩序の調整が可能であることを示し、戦争の再発防止を求める世論も広がります。

ヨーロッパでは、ドイツ賠償問題の緩和と安全保障の枠組みを模索する中で、1925年のロカルノ条約が西欧に一定の安定をもたらしました。フランスのブリアン外相は対米関係の強化を図り、1927年に米仏二国間の不戦条約構想を打診します。これに対してケロッグは、米国だけがフランスの安全保障を特別に保証する構図を避けるため、むしろ多国間化する方向へと舵を切りました。こうして、特定の同盟ではなく、一般原則として戦争放棄を宣言する案が練られていきます。

国内政治の計算も重要でした。上院の批准を得るには、モンロー主義の伝統や「ヨーロッパの安全保障紛争に巻き込まれない」国民感情への配慮が不可欠でした。ケロッグは、自衛権の留保と、既存の地域的取り決め(特に西半球の秩序)に関する解釈余地を残す工夫で、批准可能性を高めようとしました。この現実主義と規範創出の両立が、彼の外交スタイルの核心です。

パリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約):構想・交渉・文言の意味

ケロッグが受け止めたブリアンの提案は、当初は「米仏友好の象徴」としての二国間不戦条約でした。ケロッグはそこに潜む片務的安全保障のリスクを見抜き、多国間での一般的原則宣言へと再設計します。交渉の焦点は、(1)戦争の放棄をどのレベルで宣言するか(対外政策の手段としての戦争を否認する一般原則にとどめるのか、具体的な制裁や軍縮義務を伴わせるのか)、(2)自衛権の範囲(先制的自衛を含むのか否か)、(3)紛争解決手段(仲裁・司法裁判・調停の義務づけの度合い)にありました。

最終的に1928年8月、パリで同条約が署名され、多数国が参加しました(最終的に60を超える国が加盟)。条約の骨子は、第一に「締約国は国際紛争の解決に戦争を手段として用いることを放棄する」、第二に「相互関係において戦争を国家政策の手段として用いない」、第三に「紛争は平和的手段によって解決するよう努力する」という宣言的内容でした。注目すべきは、制裁規定や執行機構を持たない点です。違反時に何が起こるかを明記せず、規範の創設と各国の政治的・道義的拘束に期待する設計でした。

ケロッグは、自衛の権利に関しては明文で広く定義せず、各国の当然の権利として黙示的に留保されるとの立場をとりました。この曖昧さは批准を容易にする一方、のちの解釈競合を生みます。また、米国はヨーロッパの集団安全保障義務を負わないこと、国内管轄事項(移民・関税など)に関する自由を保つことを確認する上院の付帯決議を伴って批准しました。こうして、理念と国内政治の妥協が条約文の抽象性を高めつつも、前例のない「戦争違法化」の宣言が成立したのです。

条約の署名式には、戦争の惨禍を経験した民意の期待が集まりました。新聞は「文明が戦争を拒絶した日」と喧伝し、ケロッグは翌1929年にノーベル平和賞を受けます。ここには、戦争を法の外に置くことで国際政治の語彙を変えるという、規範革命の志向がありました。

評価と限界:抑止にならなかった理由、しかし消えなかった効果

パリ不戦条約は、1930年代の侵略を前に抑止力を発揮できませんでした。制度的な歯止め(制裁・兵力制限・集団安全保障の即応メカニズム)が欠如し、自衛権の解釈が各国の恣意に委ねられたためです。1931年の満州事変では、日本側は「自衛」を強調し、条約の拘束力は空洞化しました。国際連盟は調査報告(リットン報告)による批判を行うにとどまり、強制措置はとれませんでした。1935年のイタリアのエチオピア侵攻、1937年以降の日中戦争、1939年の欧州戦争拡大は、条約が現実の侵略を止められないことを示しました。

それでも条約は無意味ではありませんでした。第一に、戦争そのものが法の語彙で違法化されたことは、国家の正統性の物語に深い変化を与えました。各国は宣戦布告を避け、武力行使を「事変」「警察行動」「自衛」と言い換える必要に迫られます。これは皮肉でもありつつ、規範の力が言説を縛り始めた証拠でもあります。第二に、条約は戦後の国際法に直接の影響を与えました。国連憲章第2条4項は、武力による威嚇又は行使の一般禁止という形で、より明確な規範を確立します。第三に、ニュルンベルク裁判や東京裁判では、「平和に対する罪(侵略戦争の計画・準備・開始)」の違法性の根拠として、パリ不戦条約が重大な参照点となりました。条約は刑事責任の可能性を開き、個人の責任を問う法理の土台を提供したのです。

また、条約は条約法—慣習法の生成という観点からも意味を持ちました。多くの国家が参加したことで、戦争放棄の規範は慣習法として定着しやすくなり、のちの地域的安全保障(汎米条約、欧州の相互援助体制)や国際裁判の理論形成に、宣言的規範の積み重ねとして寄与しました。理念的で抽象的な文言が無力だったのではなく、それが政治・法・世論を媒介に徐々に制度へ折り畳まれていく時間が必要だったとも言えます。

一方、批判は的確です。もともと条約は、軍縮・仲裁義務・制裁メカニズムとセットで設計されるべきでした。ケロッグ自身も、仲裁条約や常設国際司法裁判所の活用を重視していましたが、当時の国内政治や各国の主権志向が、包括的制度化を阻みました。理想と現実の間で到達できた「最小公倍数」が、1930年代の危機では不十分だったのです。

戦後秩序への継承:国連憲章・責任追及・平和の規範化

第二次世界大戦後、パリ不戦条約の理念は国連憲章に結晶化しました。第2条4項が武力行使の一般禁止を定め、集団安全保障(第7章)が執行装置を担い、自衛権(第51条)が例外として位置づけられました。ここには、ケロッグの発した「戦争違法化」の言葉が、制度と運用の枠を備えた形で再構成されたことが見て取れます。さらに、侵略の定義や個人責任の追及(ニュルンベルク・東京、のちのローマ規程による国際刑事裁判所の設計)も、戦争を政策手段とする思考を法的に封じ込める長い過程の一部でした。

戦後の米外交でも、ケロッグの遺産は間接的に生きました。多国間主義と法の語彙を活用しつつ、同盟と集団抑止で実効性を補うという発想は、戦間期の反省の上に築かれたものです。もちろん、冷戦期には武力行使の現実が続き、条約の理想は常に試され続けました。それでも、国家が公然と「戦争」を称賛して宣戦を行うことは、国際社会では著しく正統性を失いました。この意味で、ケロッグが動かした言葉の重さは、今日も制度と世論の深層で作用しています。

ケロッグ個人に立ち戻れば、彼は1929年にノーベル平和賞を受け、政界引退後も国際司法の発展に関心を寄せました。人物像としては、国内政治の制約と国際規範の創設を接続した「実務的理想主義者」と要約できるでしょう。外交は、力と規範、国内と国際の二重会計を調整する作業であり、彼はその接点を現実的に探り当てた指導者でした。

まとめ:戦争違法化という「言葉の革命」を推した政治家

ケロッグの歴史的意義は、目に見える軍備や同盟の構造を変えたことではなく、国家が戦争を正当化する「言葉」を変えたことにあります。強制力に乏しい宣言であっても、規範はやがて制度となり、制度は思考を縛ります。パリ不戦条約は、たしかに1930年代の悲劇を止められませんでしたが、戦後の国際法秩序の語彙を準備し、侵略という行為を普遍的に非合法化する道を開きました。理念と現実の間を慎重に往復しながら、最小限の合意を最大限の規範に育てたケロッグの外交は、世界史の中で静かに、しかし確かに響き続けているのです。