「科挙(唐)」は、中国の唐王朝において本格的な国家官僚登用制度として整備・拡張された試験制度を指します。隋で芽生えた学識選抜の発想を、唐は制度と文化の両面で太い幹に育てました。とりわけ進士科を頂点とする科目体系、中央集権的な試験運営、合格者=科第が政治社会で帯びる象徴資本、そして詩文文化と都市サロンの形成は、唐代固有の広がりを見せます。科挙は門第偏重の人事を相対化し、地方の士人に中央への道を開きましたが、同時に受験準備の長期化や文才偏重、派閥形成、試験と実務の乖離などの負担や歪みも生みました。ここでは、唐の科挙の背景と位置づけ、科目と試験運用、社会・文化への影響、政治構造との関係と限界、そして宋への継承という観点から、わかりやすく整理します。
背景と位置づけ:統一国家の運転装置としての科挙
唐は、隋の統一と制度再編を受け継ぎつつ、門閥貴族の力がなお強い社会を相手に、中央集権の官僚制を作り上げる必要がありました。九品中正制の残滓や門第による推挙の慣行を補正するため、皇帝の名において公的に選抜する科挙が重視されます。初唐の太宗期には、律令格式の整備と歩調を合わせて、明経科・進士科などの枠が整い、中央での一斉選抜(貢挙)が定着していきます。とくに太宗は、〈貢挙は天下の賢能を集むる道〉として合格者に自ら面接するなど、制度の権威づけを進めました。
唐の科挙は、単なる人事手続にとどまらず、国家と社会を接続する回路でした。戸籍・均田・租庸調・府兵といった全国制度を維持するには、文書行政に熟達した人材が必要です。科挙は、その供給を地方の学校・書院・私塾から中央へ橋渡しする仕組みとして機能しました。また、南北統合後の文化的多様性の中で、共通の教養(経書・律令・詩文)を持つ層を育てる仕掛けでもありました。受験は家産投資の対象となり、宗族が有望な子弟を支援する慣行が広がります。
他方で、唐前半までは門第の力が依然として大きく、官界の上層を占めたのは関中・関隴の旧貴族や勲功家でした。科挙はその外縁から才子を掬い上げ、やがて科第出身者が宰相層にも進出することで、政治文化の重心を少しずつ動かしていきます。この漸進的な「門第から能力へ」の移行は、唐中期以降に顕著になります。
科目・出題・運用:進士科の覇権と明経・実務科の併走
唐の科挙は複数科目の併存が特徴です。代表は「進士科」と「明経科」です。進士科は詩賦・策問・帖経(短文の詩文・政策論文・時務問題への応答)などを通じて、文章能力と政治判断を試します。明経科は『五経』の章句・義理の理解を問う学統試験で、口誦や解釈の正確さが重視されました。加えて、明法(律令の理解)、明算(算術・度量衡)、明書(文書作成)、明台(典章制度)、陰陽(暦占)など、実務系の科目も設けられましたが、社会的名望や昇進速度の点では進士科が頭一つ抜けました。
出題は、時代に即した「策問」と文才を競う「詩賦」が双璧でした。策問は、辺防・財政・賦役・刑獄・礼制など朝廷の喫緊課題に関する所見を述べさせ、論証の筋道・史例の用い方・政策提言の現実味を判定します。詩賦は、対句・押韻・比喩・典故運用の巧拙を競い、士人の修辞能力と精神風土を測る場でした。判読の公平性と標準化のため、答案は糊付けで氏名を隠す「糊名」、筆跡鑑別の防止策として代筆・同筆排除の検査、採点官の複数制など、運用面の工夫も進みました。試験の会場は長安・洛陽の礼部貢院が中心で、春季実施が慣例化します。
運営面では、地方での資格審査(解送)と中央の最終選抜(礼部試)、さらには皇帝による口頭試問(殿試的な臨幸)が組み合わされました。唐では宋のような制度化された殿試は一般化していませんが、皇帝臨幸や題名の下賜は合格者の名誉を一段と高めました。合格者名は榜掲(ぼうけい)され、都市の人々が祝賀する「放榜」の光景は、長安・洛陽の年中行事の一つとして定着しました。
なお、進士科の比重が増すにつれ、受験準備は詩文偏重になりがちでした。これに対して中期以降、実務能力の低下を憂える声が上がり、律令知識や文書実務を重んじる科の再評価が試みられます。しかし、社交と名望を短期に獲得する効果は、華やかな進士合格に軍配が上がり、都市サロンを核にした「進士文化」が勢いを保ちました。
社会・文化への影響:詩の帝国、科第の象徴資本、都市サロン
唐の科挙は、社会の価値観と文化生産の様式を大きく変えました。第一に、詩の隆盛です。科挙の詩賦は、詩作を士人の必須技能に押し上げ、科目合格の道具であると同時に、社交と自己表現の媒体にしました。李白や杜甫のような巨人は必ずしも進士合格者ではありませんが、彼らの周囲で詩が官界と都市をつなぐ共通言語として機能したことは確かです。合格祝賀の詩、別離の詩、政治風刺の詩、試験出題に用いられる題詩など、官僚的世界と詩的実践が密接に絡み合いました。
第二に、科第は「象徴資本」として機能しました。進士合格は即座に高官を保証しないまでも、婚姻市場・官途での引き立て・地域社会での威望に直結しました。宗族は科第者を誇り、祠堂に名を掲げ、家の系譜に記すことで、教育投資の正当性を可視化します。地方の士人は、書院や私塾、文会で互いに切磋琢磨し、書籍・紙・筆墨・印刷の需要が高まることで出版文化が発達しました。科挙は、文化産業の拡張を牽引するエンジンでもあったのです。
第三に、都市文化の成熟です。長安・洛陽・揚州などの大都市では、科挙シーズンに合わせて旅店・書肆・筆札商・代書屋・試験指南書の市場が賑わい、地方からの受験生が一時的に人口を押し上げました。合格者名の榜掲は、都市の祝祭空間を作り出し、合格者は名家や官僚のサロンに招かれて詩酒の席に加わります。こうした場は、パトロネージ(庇護と推挙)のネットワークを形成し、後の派閥の芽ともなりました。
女性や在地社会にとっても、間接的な影響は大きかったです。女性自身は受験資格を持ちませんが、教育投資・婚姻戦略・文芸への関与(詩歌や書簡)を通じて科挙文化に関与し、家内の「学問の場」を支えました。地方社会では、科挙への期待が宗族の結束や慈善・学田の設置を促し、学校・書院の整備が進みます。科挙は、知の社会化を進める「文化の回路」だったと言えます。
政治構造との相互作用と限界:派閥・藩鎮・文才偏重の影
科挙は皇帝権力の基礎を支えましたが、政治構造との相互作用には光と影がありました。光の側面は、皇帝が〈公選の源泉〉として人事権を主導し得たことです。官僚の登用を門第や私的推挙から切り離し、国家の名のもとに選ぶことで、君主の超越性が強調されました。また、出身地域や家柄の異なる才子を集めることで、情報の多元性と政策の柔軟性が高まりました。
一方で、限界と副作用も顕在化します。第一に、派閥化です。合格年度・郷里・師門を単位とする人脈が、政争の裂け目となり、宦官勢力や外戚と絡んで複雑な権力競争を生みました。特に唐中後期は、牛李の党争に象徴されるように、進士出身者の間で政策・人事・文体をめぐる対立が先鋭化します。第二に、実務との乖離です。詩賦偏重は、文才の豊かさを育てる一方で、法務・戸計・財政・軍務の現場能力を測りにくく、就任後の学習・現場での鍛錬に依存せざるを得ませんでした。第三に、藩鎮の台頭です。安史の乱以後、地方の節度使(藩鎮)が軍政・財政を握り、中央の人事支配力が揺らぎます。科挙で採った文官が地方に派遣されても、軍権を握る藩鎮の前では権限が限られ、中央の統治が断たれる局面が生じました。これは、制度の優秀さだけでは解決しえない、軍事・財政の構造問題でした。
さらに、受験の長期化と教育費の負担は、社会に選別をもたらしました。理念上は開かれた競争でも、実際には書籍・師資・都市滞在費へのアクセスが必要で、地域差と家産差が成績に影響します。科挙は門第を相対化した一方で、新たな「教育資本」の格差を露わにしたのです。
宋への継承と歴史的意義:制度化・常設化・文化化の三層
唐の科挙は、宋の大制度化へ直結します。宋は、定期実施(三年一貢)の確立、全国一斉の郷試・会試・殿試の三段構成、名簿管理と身分授与(進士出身の法的確立)を整え、科挙を国家運転の主軸に据えました。この大規模化を可能にしたのは、唐が築いた科目体系・採点慣行・都市文化・出版流通・教育市場の基盤でした。唐は、制度の〈型〉と文化の〈情〉を準備し、宋はそれを制度的〈量〉へと拡張したと言えます。
歴史的意義をまとめると、唐の科挙は(1)公的な学識選抜の正統性を確立し、(2)詩文を核にした士人文化を国家運転に結びつけ、(3)地方—中央をつなぐ社会移動の回路を広げた、という三点に収斂します。その上で、(4)派閥・藩鎮・文才偏重・教育格差という限界を露わにし、のちの改革論(実務科重視、法科強化、試験内容の改編)を促したことも、重要な遺産でした。唐の科挙を理解することは、東アジアにおける〈学問で官を選ぶ〉という理念が、どのように運用され、どのようなコストと恩恵を社会にもたらしたのかを具体的に捉える手がかりになります。華やかな進士の栄光と、長安の試験場の熱気、その背後で支えた家族と地域社会の投資—これらをあわせて見てこそ、唐の科挙の全体像が立ち上がるのです。

