乾隆帝(けんりゅうてい、在位1735–1796年、実権は1799年まで)は、清王朝の最盛期を完成させた皇帝として知られます。祖父康熙帝・父雍正帝の改革と安定を引き継ぎ、領域の最大化、財政・治水・文化事業の拡充、そして多民族帝国としての統治枠組みの整備を進めました。一方で、晩年には官僚の腐敗や軍事遠征の長期化、対外関係の硬直化(朝貢秩序への固執)などの陰も目立ち、これが19世紀の停滞と危機の伏線になったとも評価されます。美術や学術の保護者でありながら、激しい禁書・文字獄で知的統制を強めた二面性も特徴的です。乾隆期を理解することは、アジア内陸から海域世界までを包摂した「高清(ハイ・チン)」のダイナミズムと、その内に潜む限界の双方をとらえる手がかりになるのです。
権力継承と統治理念:雍正改革の継承と「十全老人」
乾隆帝は雍正帝の第四子として生まれ、1735年に即位しました。雍正期に整えられた行政の引き締めや財政の合理化(地丁銀制の徹底、官僚監察の強化)は、そのまま乾隆政権の基盤となりました。乾隆は祖制の尊重と自らの事績誇示を巧みに組み合わせ、治世後半には自らを「十全老人(十全武功を成した老君主)」と称して政治的権威を演出します。満洲(八旗)・漢人(緑営)・蒙古諸部・チベット仏教勢力を包摂する多民族帝国の皇帝として、理藩院や大臣会議を活用しながら、中心—周辺の階層秩序を維持することを統治理念の核に据えました。
財政面では、康熙帝の「永不加賦」を受け継いで地税(地丁銀)の増税を抑えつつ、塩・関税・商税や国営事業、国庫備蓄(京倉・地方義倉)を活用して歳入の安定化を図りました。だが、人口の激増や辺境警備の費用増は、やがて財政に重圧となり、後期の緊縮と徴発の強化は社会の不満を高める要因にもなりました。治水では黄河・運河の改修に力を注ぎ、漕運の維持と穀倉地帯の安定化を目指しています。
領域拡大と周辺統治:ジュンガル征服からチベット・新疆の編入まで
乾隆治世の最大の軍事・政治的成果は、中央アジアにおけるジュンガル・ハン国の制圧(18世紀中葉)です。長期の遠征は莫大な兵站を要しましたが、最終的にオイラト勢力を解体し、天山南北のオアシス都市(回部)をふくむ広大な内陸を清の支配下に組み込みました。これにより清は東は沿海から西は天山の彼方までを統括する大帝国に到達し、のちに「新疆(新しい領域)」と呼ばれる地域の編成が進みます。
征服と編入は単純な軍事占領ではなく、旗兵の駐屯、地方長官(参贊大臣・将軍)の派遣、現地慣行の一部容認、イスラーム指導層との関係調整など複層的な統治でした。税制・司法・宗教の扱いは地域差を前提とし、中央は反乱抑止と交易の安定に重点を置きました。これによって、シルクロードの隊商路は再編され、茶葉・絹・馬・皮革などの物資が内陸交易に乗って流通する度合いが高まりました。
チベット政策では、ラサに駐在する欽差大臣(アンバン)の権限を強化し、ダライ・パンチェン両ラマの宗教的権威を尊重しつつ政治の安定を図りました。モンゴル諸部に対しては札薩克制度の下で封号と監督を組み合わせ、冊封・朝覲・賜与を通じて王朝秩序に組み込みました。さらに南方ではベトナム(安南)やビルマ(緬甸)との関係が緊張し、ビルマ遠征(三度の出兵)は高温多湿の環境・疫病・補給難で大きな犠牲を出し、期待した戦果は得られませんでした。ネパール(グルカ)との戦いでは、侵攻撃退後に国境と朝貢の枠組みを整えています。
文化事業と知の統制:四庫全書と文字獄の二面性
乾隆帝は文化の保護者であると同時に、強力な言論統制者でもありました。最大の文化事業は『四庫全書』の編纂です。これは経・史・子・集の四部に中国古典文化を分類・収録し、散逸書の蒐集・校勘・目録化を通じて知の巨大アーカイブを築く試みでした。全国から書籍が献上・借用され、校勘・抄写が広く行われた結果、多くのテキストが後世に伝わることになりました。
他方で、禁書政策といわゆる「文字獄」は乾隆文化の暗部です。満洲支配や清朝の正統性を傷つける表現、明朝への過度の同情、反満思想の疑いがある語句や註釈が摘発され、著者や出版関係者が連座する事件が相次ぎました。学術と出版は保護と検閲の二重の力に晒され、官学・考証学の隆盛の陰で、批判精神は萎縮する傾向が強まりました。この二面性は、知の集積と権力の統制が同時に進行した乾隆期の特質をよく示しています。
宮廷美術では、西洋宣教師画家・郎世寧(ジュゼッペ・カスティリオーネ)らが写実と遠近法を取り入れ、中国的な筆墨と融合する「中西合璧」の作品を多数制作しました。円明園・頤和園の造営・改修、金石学の蒐集、詩文の多作など、皇帝自身の審美とコレクション嗜好が文化政策を牽引しました。こうした保護は工芸・絵画・建築の洗練を促し、乾隆様式と呼ばれる宮廷美の一潮流を形づくっています。
社会経済と官僚制:繁栄の拡大と制度疲労
18世紀の清は人口が急増し、乾隆期末までに数億規模に達したと推定されます。華北・江南・四川・雲貴・東南沿海で新田開発と商品作物の栽培が進み、手工業と商業流通は活況を呈しました。大運河と内河水運の維持・改修は穀物の移送と都市の需要を支え、広州を中心とする対外貿易は銀の流入と新商品の普及をもたらしました。
しかし、豊かさの拡大は同時に脆さを抱えました。地税の凍結は庶民負担を抑える一方、人口増・治安維持・辺境経費の増大に対応しにくく、地方では徭役・雑税・名目上の寄付といった非公式負担が増えました。官僚制は広大な領域と人口に比して薄く、監察の網目は粗くなりがちでした。こうした環境下で、乾隆晩年には寵臣・和珅(かしん)が巨額の蓄財と人事掌握で政治を私物化したとされ、地方行政の腐敗と結びついて体制の信頼を損ねました。乾隆死去直後、嘉慶帝は和珅を失脚させ、財貨の没収で国庫を補填しています。
社会の緊張は末期に露呈します。山地・辺境を中心に密教結社や宗教系ネットワークが動員の核となり、乾隆末から嘉慶初にかけて白蓮教徒の乱が発生しました。長期の討伐は財政を圧迫し、地方社会の疲弊を深めました。これは、表面上の繁栄の下で進行していた貧富差・土地兼併・人口圧の問題を可視化する出来事でした。
対外関係と海のフロンティア:朝貢秩序と通商の摩擦
乾隆期の対外認識は、基本的に「天朝(中華)—藩属」という序列秩序を前提としていました。東南・南アジアの諸政権に対しては冊封と互市の枠組みを維持し、中央アジアでは軍事と冊封を併用して安定化を図ります。一方、海上世界では欧州勢力の存在感が増し、広州一港に外国商館を限定する「公行」制度の下で貿易が管理されました。
1793年、英国のマカートニー使節団が通商拡大や外交儀礼の相互主義を求めて来朝しましたが、乾隆の側は既存秩序の例外を認めず、要求は退けられました。このすれ違いは、互いの世界観と利害の相違を象徴する場面でした。清朝としては密貿易の抑制・沿岸治安・銀流出の管理を優先したのに対し、英国側は市場へのアクセス拡大と外交対等を重視していました。即時の衝突には至らないものの、19世紀のアヘン戦争以降に噴出する摩擦の伏線がここにあります。
退位と遺産:最盛期の総決算と長い影
乾隆帝は在位60年を越えて祖父康熙の在位年数を越えぬよう配慮し、1796年に譲位して太上皇となりましたが、実権は1799年の死まで握り続けました。治世は領域拡大と文化保護で栄華を極める一方、情報統制・官僚腐敗・財政硬直・辺境戦費の増加・社会不満の蓄積という負債をも残しました。彼の統治は、清帝国を地理的・制度的に「完成」させたと同時に、その規模と複雑さゆえの制度疲労を加速させたと言えます。
歴史的評価は二分します。ひとつは、内陸アジアの勢力図を描き替え、帝国の枠組みを最終形へ導いた「建設者」としての評価です。もうひとつは、学術と文化を庇護しつつ言論統制を行い、対外的には秩序維持に固執して変化への適応を遅らせた「保守者」としての側面です。いずれにせよ、乾隆帝の長い治世は、18世紀ユーラシアの陸と海の接点で起きた諸変化を、清朝という巨大帝国の内部論理で受け止めた稀有なケースであり、その遺産はアジアの近世から近代への転換を考える上で避けて通れない論点を提供します。

