グプタ朝 – 世界史用語集

グプタ朝は、4〜6世紀の北インドを中心に栄えた王朝で、サンスクリット文学や美術、数学・天文学など多方面で顕著な成果を生み出したことで知られます。都パータリプトラ(現在のパトナ)を拠点にマガダ地方から勢力を広げ、最盛期にはガンジス流域からインド西海岸・中央インドまでを包摂しました。金貨ディナールに象徴される安定した経済、ブラーフマナへの土地給与と宗教儀礼の整備、都市と村落の二重構造に支えられた統治は、のちのインド中世の枠組みを準備しました。中国僧法顕(ファーシエン)の旅行記は、当時の繁栄と仏教寺院の活動、比較的軽い刑罰などの風俗を生き生きと伝えます。グプタ朝の文化は、しばしば「インド古典の花開き」と総称されますが、実態は王権・宗教・経済・知のネットワークが互いに噛み合った総合的な成熟でした。ここでは、成立と政治展開、統治と経済、宗教と文化、学術と技術、美術と都市、そして衰退と継承という観点から、グプタ朝の全体像をわかりやすく解説します。

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成立と政治展開:マガダから「古典インド」の核心へ

グプタ朝の起点は、ガンジス中流域のマガダ地方における地方豪族の台頭にあります。建国者はチャンドラグプタ1世とされ、彼はリチャヴィ族の王女クマラデーヴィーとの婚姻を通じて政治的基盤を強化し、4世紀初頭に王権を名乗りました。コインや碑文に刻まれた夫婦並立の肖像は、婚姻同盟が王朝形成に果たした役割を象徴します。

つづくサムドラグプタは、軍事的拡張と冊封的支配の設計で名高い王です。アラハバードの柱碑文(プラーシャスティ)に記された遠征記は、彼がガンジス上流域を制圧し、中央インド・デカン北縁・東岸部の諸国に対しては撃破・朝貢・友好など柔軟な関係を使い分けたことを伝えます。すべてを直轄化するのではなく、服属・同盟・贈与のネットワークを重ねる「重層的支配」は、広域統治のコストを抑える現実的な選択でした。

最盛期を築いたのはチャンドラグプタ2世(在位4世紀末〜5世紀初頭)で、通称ヴィクラマーディティヤ(勝利の太陽)とも呼ばれます。彼は西インドのサカ系勢力(西クシャトラパ)を打倒し、グジャラート沿岸からアラビア海への交易ルートを押さえることで、王国の財政を豊かにしました。この時期に中国僧の法顕が訪れ、都市の活況や仏教施設の充実を記録しています。王宮文化の面では、宮廷詩人カーリダーサの活動が重なり、叙情詩や戯曲に古典美が結晶しました。

その後、クマラグプタ1世の治世には、諸地域の統合と宗教施策が進み、伝承ではナーランダー僧院(大学)への庇護が語られます。5世紀後半にはスカンダグプタが北西から侵入したフーナ(エフタル系・アルチョン・フン)を撃退しましたが、連続する戦費と地方勢力の自立化は王朝の体力を削り、6世紀にかけて中央集権は次第にほころびます。グプタ王権は断続的に存続しつつも、ガンジス流域の諸王朝やデカンのヴァーカータカ朝など地域権力が台頭し、政治地図はモザイク状へと変化しました。

統治と経済:村落・都市・金貨をつなぐ制度設計

グプタ朝の統治は、王権の儀礼的威信と、地方社会の自律性を組み合わせた柔軟な様式でした。地方行政単位にはジャンパ(県)やヴィシャヤ(郡)などが置かれ、土地測量・徴税・治安を担当する役人が配置されました。一方で、村落共同体(グラーマ)には長老会や職能団体が存在し、灌漑・共有地・紛争解決を自治的に運営しました。王権は寄進銅板碑文(コーパーパトラ)を通じて、寺院やブラーフマナへの土地・租税免除・使用権を確認し、宗教ネットワークを行政網と重ね合わせました。

経済の表側を彩るのが金貨「ディナール」です。王の肖像、ガルダ(ヴィシュヌの乗り物)や女神像、勝利儀礼の図像が刻まれたコインは、王権のプロパガンダであると同時に、高価値取引と献納・恩給を媒介するツールでした。金の供給は、インド内外の交易と再鋳造に支えられ、西海岸の港市(バーリガザ/ブローラ、キャンベイ、スールヤなど)を通じて香料・象牙・織物・宝石が往来しました。内陸ではガンジスの舟運と街道が商人キャラバンを結び、寄進・布施・祭礼経済と市場経済が複層的に絡み合いました。

税制は、農業収穫物の一定割合(しばしば6分の1を基準とする伝統)を基本に、灌漑利用料、通行税、職能税などが組み合わされました。灌漑施設の管理は王・村落・寺院が共同で担い、乾期の収量安定に寄与します。法と慣習の面では、ダルマシャーストラ(法典)とその注釈が社会規範の枠組みを提供し、婚姻・相続・刑罰・商取引に関する判例が蓄積されました。身分秩序(ヴァルナ)と職業集団(ジャーティ)が社会を細かく区分しつつ、都市の市場や工房では実利的な協働も進みました。

宗教と文化:ヒンドゥーの再編と多宗教の共存

グプタ朝はしばしば「ヒンドゥー文化の復興」と特徴づけられます。王たちはヴィシュヌ神への帰依を示す称号(パラマ・バガヴァタなど)を称し、祭祀と寺院建設を保護しました。プラーナ文献や叙事詩『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』の整備・編纂が進み、サンスクリットが学芸・宗教・政治の共通言語として地位を固めます。寺院建築では、祠堂(ガルバグリハ)と前室(アルダマンダパ)を基本に、平面・立面の類型が洗練され、のちのナーガラ式(北インド型)寺院の原型が形づくられました。

しかし、これは仏教やジャイナ教の衰退を意味しません。法顕の記録が示すように、北インド各地の僧院は学問と救済活動を続け、在家信徒の布施と商人ギルドの支援を受けて繁栄しました。ナーランダー僧院は伝承上、クマラグプタの時代に王の庇護を受けたとされ、のちに国際的な学問都市へと発展します。宗教間の関係は競合と共存の両面を持ち、王権は寄進・免税・儀礼参加を通じてバランスを取りました。

文学では、カーリダーサが『シャクンタラー』『雲の使者(メーガドゥータ)』『ラグヴァンシャ』をはじめ名作を残し、比喩と象徴に満ちた詩的世界を築きました。バーサやバーラミ、シュードラカらの伝統も再評価され、サンスクリット詩学(アラカラ)と演劇論(『ナーティヤ・シャーストラ』系)が宮廷と都市の教養を支えます。碑文文体も華麗さを増し、王徳讃歌(プラーシャスティ)は政治宣伝と文芸の交差点となりました。

学術と技術:数学・天文・冶金の「見えないインフラ」

グプタ期の知の基盤は、数学・天文学・医術・文法学など多領域に広がりました。数学・天文学では、アーリヤバタ(c.476–550頃)が『アーリヤバティーヤ』(499年頃)を著し、円周率の近似(3.1416)、正弦(ジャー)表、地球自転の示唆、日食・月食の幾何学的説明などを提示しました。彼の理論は、のちのブラフマグプタ(7世紀)らに継承・批判され、ゼロの計算規則や負数の体系化へとつながります。すなわち、ゼロ記号と十進位取りの実務はグプタ以前から商業で浸透し、理論の精緻化がグプタ〜後グプタ期に加速した、という理解が妥当です。

冶金では、デリー・メヘローリーの鉄柱(伝統的にチャンドラ記念とされる)が、錆びにくい高純度鍛鉄の象徴として知られます。リンや窒素、気候条件、表面皮膜(ミルスケール)の形成が耐食性の要因とされ、製鉄・鍛造・成形の技術が高い水準にあったことを物語ります。貨幣鋳造の精緻さ、宝飾・石工の技巧もまた、宮廷と都市工房の熟練を示す証拠です。

医術では、アーユルヴェーダ文献の改訂や薬物学(マテリア・メディカ)が進み、外科・内科・産科の知見が整理されました。文法学では、パーニニ以来の文法体系が註解によって精緻化し、言語哲学(ミーマーンサー、ナーヤヤ)と交差します。学問は王宮の保護だけでなく、僧院・寺院・学習ギルド(シャレーニ)に支えられ、寄進経済と相性の良い持続的な知の生産体制が整っていきました。

美術と都市景観:「グプタ様式」の均整と静謐

グプタ美術の核心は、均整のとれた比例と静かな精神性です。サールナート出土の仏像に代表される仏像様式は、うすい衣の透明感(サンガーティの縁が肌に密着する表現)、やわらかな微笑、下まぶたの張り、内省的な眼差しによって、後代のガンダーラやパーラ朝とも異なる独自の典雅さを確立しました。ヒンドゥー神像では、ヴィシュヌやシヴァ、女神ドゥルガーの像容が洗練され、四臂・持物・印相の体系が整理されていきます。レリーフや貨幣図像、柱頭・柱礎の装飾に見られる唐草やガーラ(連珠)文は、以後のインド美術の文法として長く生き続けました。

建築では、煉瓦・石の組積と木造の意匠が交じり合い、小規模ながら明確な祠堂空間が作られます。屋根形式や塔部(シカラ)の萌芽が見られ、後世のナーガラ式寺院に発展します。都市景観の面では、パータリプトラの王城、ウッジャインやカーシーの交易都市、グジャラート沿岸の港市が、宗教・市場・行政の結節点として機能しました。市場には度量衡と課税の規範が整備され、ギルド(シュレーニ)が信用と品質を担保し、寄進者・工匠・商人の名前が碑文に刻まれました。

衰退と継承:フーナの衝撃と地域化、そして長い影

5世紀中葉以降、北西から侵入するフーナはパンジャーブやガンジス上流域に圧力をかけ、王権は防衛のための出費と内政の緊張に直面しました。スカンダグプタは撃退に成功したものの、属州の反乱、寄進による租税基盤の流出、豪族・寺院勢力の自立が重なり、王権の再集中は難しくなります。6世紀にはグプタの中枢は縮小し、やがて政治的主導権は後期グプタ諸王やマウカリ、のちのハルシャ王(ヴァルダナ朝)ら地域権力へと移りました。

しかし、政治の地図が変わっても、文化と制度の遺産は生き続けました。サンスクリットは長く学芸と行政の言語として機能し、寺院・僧院への寄進制度、村落とギルドの自治、貨幣と度量衡の慣行、寺院建築の文法、仏像・神像の典型、学問のカリキュラムは、中世インドの骨格として継承されます。アーリヤバタの天文計算、グプタ様式の美術語彙、カーリダーサの詩学は、イスラーム期・近代に至るまで繰り返し引用・再解釈され、インド知の「古典」像を形づくりました。

総じて、グプタ朝は「黄金時代」と持ち上げられがちですが、より正確には、王権・宗教・経済・学術が相互補完的に連動した「制度の成熟期」だったと捉えるべきです。戦争と交易、寄進と課税、自治と官僚、ヒンドゥーと仏教—その多様な力が均衡した時間が、サンスクリット文化という共通基盤に束ねられました。そこに生まれた均整と静謐は、貨幣のきらめきや仏像の微笑だけでなく、測量・天文・冶金・法の条文といった「見えないインフラ」によって支えられていたのです。グプタ朝を学ぶことは、古典の美しさの背後にある社会の仕組みを読み解くことにほかなりません。