「商業革命(イギリス)」とは、16〜18世紀ごろにイングランド(のちのイギリス)で進んだ、海外貿易の拡大とそれを支える金融・航海・植民地政策の発展を通じて、経済構造や社会のあり方が大きく変化した過程を指します。一般に「商業革命」というとヨーロッパ全体の変化を指すことが多いですが、その中心の一つがイギリスであり、ここで蓄積された商業資本や海上支配の経験が、18世紀後半以降の産業革命と大英帝国の形成へとつながっていきました。毛織物の輸出を基盤に、羊毛生産のための囲い込み(エンクロージャー)、大西洋三角貿易、東インド会社を通じたアジア貿易、航海法による海運統制などが、イギリス版「商業革命」のキーワードになります。
イギリスの商業革命では、単に貿易量が増えただけでなく、農村社会の構造変化(地主・ジェントリと自作農・農業労働者への分化)、ロンドンを中心とする金融市場の発達、国家財政と商業資本の結び付き(国債・銀行・株式会社)、そして海軍力に支えられた海上覇権の確立といった要素が複雑に絡み合っています。その裏側では、アイルランドや植民地に対する支配の強化、アフリカからアメリカへの黒人奴隷貿易、先住民社会の破壊など、深刻な負の側面も広がりました。
この解説では、まず「イギリス版商業革命」とは何かを整理し、中世末から近世初頭にかけての毛織物輸出と囲い込みの進展を見ていきます。つぎに、航海法・植民地獲得・三角貿易・東インド会社など、大西洋・インド洋を舞台にしたイギリスの対外商業の拡大を説明します。そのうえで、ロンドン金融市場の発達と国家財政の変化、そしてこれらがどのように産業革命の前提条件となっていったのかをまとめます。概要だけ読んでも、「商業革命(イギリス)=毛織物と海外貿易・金融の発展を通じて、産業革命前夜のイギリス社会を作り上げた長期的変化」とイメージできるようにしつつ、詳しい内容は各見出しで理解できる構成にします。
イギリス版「商業革命」とは何か
ヨーロッパ全体の商業革命は、大航海時代の新航路開拓にともなう世界規模の貿易ネットワークの形成や、銀行・株式会社・保険などの発達を含む広い概念です。その中で「イギリスの商業革命」と呼ぶとき、特に注目されるのは、イングランドが毛織物輸出と海運を軸に国際商業へ深く組み込まれ、やがてオランダやスペインを追い抜いて世界的な海上覇権を握っていく過程です。
中世末のイングランドは、もともと良質な羊毛の産地として知られ、フランドル地方の毛織物工業に原料を供給していました。しかし、15〜16世紀にかけて、イングランド自身の毛織物産業が発展し、次第に「原料羊毛の輸出国」から「仕上げ品としての毛織物輸出国」へと変わっていきます。これに伴い、羊の放牧地を広げるために農地を囲い込む動き(囲い込み)が強まり、農村社会の構造に大きな変化をもたらしました。
同時に、テューダー朝・スチュアート朝のもとで王権は、関税・特許状・独占商業権などを通じて商人層と結び付き、財政基盤を強化していきます。商人や地主・ジェントリは、海外貿易と私掠活動(半海賊的な略奪と貿易)を通じて富を蓄え、やがて議会政治の中で重要な発言力を持つようになります。こうした「商業と国家権力の結び付き」が、イギリス版商業革命の特徴の一つです。
17世紀以降になると、イギリスはオランダ・フランスとの覇権争いの中で海軍力を重視し、航海法などを通じて自国商船を保護しました。大西洋三角貿易や東インド会社によるアジア貿易を通じて、イギリス商人は莫大な利益を得ます。この長期にわたる商業的蓄積と海上支配が、18世紀後半の産業革命の資本・市場・原料・輸送網の基盤となっていくのです。
毛織物・囲い込みと対外商業の拡大
イギリスの商業革命の第一の柱が、「毛織物産業と農村構造の変化」です。中世からイングランドは羊毛の産地としてヨーロッパでよく知られていましたが、当初はフランドル(現在のベルギー周辺)の都市に羊毛を輸出し、そこで毛織物として加工されていました。ところが、15世紀末から16世紀にかけて、イングランド国内で毛織物工業が発展し、農村の家内工業や都市の工房で毛織物が生産されるようになります。
毛織物輸出が利益を生むと、地主やジェントリは羊の数を増やして羊毛生産を拡大しようとしました。そこで行われたのが「囲い込み(エンクロージャー)」です。もともと村人が共有的に利用していた開放耕地や共同牧草地を、地主が垣根や柵で囲って私有地とし、羊の放牧地や集約的な農場に転換しました。囲い込みによって効率的な農業経営や牧羊が可能になり、輸出向け羊毛生産が増える一方、土地を追われた農民は土地を失い、流民化したり、賃金労働者として都市や農場に雇われたりします。
このプロセスは、農村社会の階層構造を変えました。大地主や新興のジェントリ(地主紳士)が土地を集積し、自作農や中農の一部は没落して農業労働者や都市の貧民へと転落しました。別の一部の農民は、地主のもとで家内工業的な毛織物生産に携わるようになります。こうして、「土地を持つ階層」と「労働力を売る階層」がはっきりと分かれ、後の資本主義社会の基盤となる構造が形成されていきました。
毛織物輸出で得られた利益は、さらに海外との取引拡大へと向かいます。16世紀には、モスクワ会社・レヴァント会社など、特定地域との貿易を独占する特許会社が設立され、バルト海・地中海・ロシア方面との交易が進みました。これにより、イギリスはヨーロッパ域内の商業ネットワークに深く組み込まれていきますが、やがてその視線は大西洋の彼方、アメリカ・アフリカ・アジアへと向かうようになります。
航海法・植民地貿易・三角貿易と東インド会社
17世紀のイギリス商業革命の中心は、大西洋とインド洋を舞台とする海外貿易の飛躍的拡大です。清教徒革命・名誉革命の時代を通じて、議会と結びついた商人・地主層(ジェントリ・ブルジョワジー)は、国王権を制限しつつ、対外商業と海軍力の強化を強く求めました。こうした背景のもと、イギリスは海上覇権獲得に向けて政策を進めていきます。
象徴的な政策が「航海法(1651年など)」です。航海法は、イギリスとその植民地との貿易を、原則としてイギリス船(あるいは生産地の船)に限定することで、自国船主と商人を保護し、同時にライバルであるオランダ商船を排除する狙いを持っていました。これはいわゆる重商主義政策の代表例であり、イギリスが「貿易と海運の利益を国家政策で囲い込む」姿勢を明確に示したものです。
大西洋世界では、イギリスは「三角貿易」と呼ばれる仕組みに深く関わりました。イギリスの港町(ブリストル・リヴァプールなど)からは、織物・鉄製品・酒類などがアフリカ西岸に送られ、そこから黒人奴隷がアメリカ・カリブ海のプランテーションへ運ばれます。奴隷たちは砂糖・綿花・タバコなどの生産に従事させられ、その産物は再びヨーロッパへ運ばれて消費・再輸出されました。イギリスの商人や船主は、この三角貿易から巨大利益を得ており、その利益の一部が産業投資や金融資本として蓄積されていきます。
同時に、イギリスはアジアとの貿易でも重要な地位を築きました。1600年に設立されたイギリス東インド会社は、インド・東南アジアとの香辛料・綿織物・茶・陶磁器などの貿易を独占的に担い、現地に商館や要塞を構えました。18世紀には、インドにおける政治的な支配権も獲得し、単なる商業会社から準政府的な支配機構へと変貌していきます。この東インド会社の活動もまた、イギリスの商業革命と帝国主義の結節点として非常に重要です。
こうした過程を通じて、イギリスはオランダとの海戦やフランスとの植民地戦争に勝利し、18世紀後半には「世界の海の支配者」としての地位を確立します。商船・軍艦・植民地・貿易網が一体となったこのシステムは、イギリスの富と権力の源泉であり、まさに「商業革命の完成形」とも言えるものでした。
ロンドン金融市場の発展と産業革命へのつながり
イギリスの商業革命を語るうえで忘れてはならないのが、ロンドンを中心とする金融市場と国家財政の発展です。17世紀末の名誉革命を経て、イギリスでは議会主権と立憲君主制が確立され、王権の恣意的な課税や借財の危険がある程度抑えられるようになりました。これにより、国家が発行する国債に対する信頼が高まり、ロンドンは国家と民間投資家が結びつく金融センターとして発展していきます。
1694年に設立されたイングランド銀行は、国債の引き受けや通貨発行を通じて国家財政を支えつつ、商業金融にも大きな役割を果たしました。商人や投資家は、銀行を通じて資金調達や決済を行い、政府は安定した金利で戦費や植民地経営のための資金を得ることができました。これは、オランダのアムステルダム金融市場のモデルを受け継ぎつつ、それをさらに大規模に展開したものであり、「財政軍事国家」としてのイギリスの姿を形作りました。
ロンドンには、株式や国債の取引が行われる市場(ロンドン証券取引所の起源)や、海上保険を扱うロイズなどの保険組合が集まり、世界各地の貿易・航海情報が集約される場となります。東インド会社や各種貿易会社の株式が取引され、リスクを分散しながら大規模な貿易と植民地支配を行う仕組みが整えられました。
こうして、イギリスでは、「農村の囲い込み・毛織物輸出・海外貿易の拡大」によって蓄積された商業資本が、金融市場を通じて再投資されていきます。この流れの中で、18世紀後半以降の産業革命に必要な資本が供給され、蒸気機関・紡績機械・製鉄業・鉄道建設などへの投資が可能になりました。つまり、商業革命は産業革命の前提条件としての「資本蓄積と金融・海運インフラの整備」の時期だったと位置づけることができます。
一方で、国内社会には深刻な矛盾も生まれていました。囲い込みによる農民の土地喪失、三角貿易と奴隷制に依存した富の蓄積、アイルランドなど周辺地域への支配と搾取など、イギリスの繁栄は多くの犠牲の上に成り立っていました。18〜19世紀には、奴隷貿易廃止運動や貧民救済、選挙制度改革など、商業革命・産業革命が生み出した矛盾に対処しようとする社会改革の動きも広がっていきます。
世界史の学習において「商業革命(イギリス)」という用語に出会ったときには、毛織物と囲い込み、大西洋三角貿易と東インド会社、航海法と海軍力、ロンドン金融市場と国債・銀行、といったキーワードを組み合わせて思い浮かべるとよいです。そのうえで、これらがどのようにして産業革命と大英帝国の土台をつくりあげたのか、そしてその背後にどのような社会的・人道的な問題があったのかを考えると、イギリス近代史の立体的な理解につながります。

