四国同盟(しくにどうめい)は、文脈によって複数の歴史的事例を指しうる用語ですが、世界史学習で最も頻繁に言及されるのは、①1718年の四国同盟(イギリス・フランス・オーストリア・オランダがスペインの再拡張に対抗して結成)と、②1815年の四国同盟(イギリス・オーストリア・ロシア・プロイセンがナポレオン戦争後の秩序維持のために結成)の二つです。前者は地中海・イタリア諸邦をめぐる安全保障の枠組みとして機能し、後者はウィーン体制下の「会議外交」を支える実務的同盟として、フランスを加えたのち「五国同盟」へ発展しました。しばしば1933年の「四カ国協定(英仏独伊)」や1921–22年の「四カ国条約(米英日仏/ワシントン会議)」と混同されますが、成立時期・参加国・目的が異なります。要するに「四国同盟」は、ヨーロッパ国際秩序の転換点で使われた複数の同名枠組みの総称であり、18世紀の海上覇権争いと、19世紀の体制維持外交という二種類の機能を代表するキーワードです。
用語の射程と成立背景――1718年型と1815年型
まず、1718年の四国同盟について整理します。これはスペイン継承戦争(1701–13)後、ユトレヒト講和体制の下で、スペイン・ブルボン朝がイタリア半島(サルデーニャ・シチリアなど)への再進出を試みたことに対抗して、イギリス・フランス・オーストリア・オランダが結んだ同盟を指します。イギリスは海上覇権の維持と通商の自由、フランスは戦後の安定確保、オーストリアはハプスブルク領としてのイタリア支配、オランダはライン流域の安全と貿易利益を重視し、各国の利害が「スペインの現状変更阻止」という一点で合致しました。この同盟はナポリ・シチリア問題など具体的案件で軍事行動と外交圧力を組み合わせ、1720年前後の地中海バランスを再調整する役割を果たしました。
次に、1815年の四国同盟です。これはウィーン会議によってナポレオン戦争後の秩序を構築した列強のうち、イギリス・オーストリア・ロシア・プロイセンが、戦後処理の実行と体制維持のために結んだものを指します。一般に「ウィーン体制」や「会議体制」の屋台骨として語られ、同年に結成された宗教的・倫理的色彩の強い「神聖同盟(露墺普)」とは区別されます。1815年の四国同盟は世俗的・実務的な安全保障協定であり、戦後フランスの監視・占領管理、賠償履行の確認、革命運動への対応に際して合議(会議外交)を行う枠組みでした。1818年のアーヘン会議でフランスが体制側に復帰すると、同盟は「五国同盟」へと拡張され、以後のトロッパウ(1820)、ラーバ(1821)、ヴェローナ(1822)などで、革命・独立運動への対処方針が議論されます。
このように、1718年型はスペイン牽制のための「海洋・地中海安全保障」、1815年型は欧州大陸全体の「体制維持・会議外交の実務枠」という性格の違いがあります。日本語の教科書では、18世紀の四国同盟は近世外交史、19世紀の四国同盟はウィーン体制の説明でそれぞれ登場し、同名ながら役割も構成も別物である点に注意が必要です。
1815年四国同盟の仕組みと運用――会議外交・体制維持・干渉主義
1815年の四国同盟は、ナポレオン後のヨーロッパに安定を戻すための実務的同盟として設計されました。核心は三つあります。第一に、フランスの処遇です。ワーテルロー敗北後のフランスには占領軍の駐留と賠償の履行が課され、その監督は四国同盟の合議に委ねられました。1818年のアーヘン会議で賠償の履行が確認され、フランスは占領解除とともに列強側へ復帰し、会議体制の正式メンバー=五国同盟となります。
第二に、ヨーロッパ各地での革命・反乱・独立運動への対処です。四国同盟(および五国同盟)は、王政復古の正統を維持する立場から、体制に挑む動きを脅威として捉えました。1820年前後のスペイン立憲革命やナポリ・ピエモンテの動乱に対して、露墺普は干渉に積極的で、イギリスは干渉に慎重という内部分裂を抱えつつも、最終的にはラーバ・ヴェローナの会議決議の下、オーストリア軍がナポリ・ピエモンテに出兵し王権を回復させました。ラテンアメリカ独立問題では、イギリスの通商重視と反干渉姿勢が優越し、列強共同の武力介入は回避されました。すなわち、四国(のち五国)は一枚岩ではなく、合議を通じて「最低限の協調」を模索する装置だったのです。
第三に、バランス・オブ・パワーの再設計です。ポーランド=ザクセン問題やドイツ連邦の枠組み、イタリア諸邦の再編、オランダ=ベルギーの連合王国創設など、ウィーン会議の妥結を実際に運用し、必要に応じて修正・微調整する役割を担いました。列強は定期的・不定期的に会合して国際秩序の管理に当たり、これが「会議外交(コンサート・オブ・ヨーロッパ)」と呼ばれる所以です。理想化しすぎるのは禁物ですが、19世紀前半に欧州全土で大国間戦争が回避され続けた背景には、この合議と相互抑制の効果が一定程度働いていたことは確かです。
もっとも、この体制には限界も明白でした。自由主義・国民主義の潮流は抑圧だけでは止められず、ギリシア独立戦争やベルギー独立(1830)、1848年革命の連鎖は、会議体制の統御を超える波となりました。イギリスの自由主義的国際主義と、オーストリアの秩序優先、ロシアの保守的干渉主義の差は、やがて東方問題(オスマン帝国衰退をめぐる利害)で顕在化し、クリミア戦争(1853–56)では列強間の分裂が決定的となります。つまり、1815年の四国同盟は「戦後の安定化」のための暫定的装置として一定の成功を収めた一方、長期的には国家利益とイデオロギーの差異を吸収しきれなかったのです。
1718年四国同盟の機能――ユトレヒト体制の補強と地中海の均衡
1718年の四国同盟は、ユトレヒト講和体制の補強として理解すると分かりやすいです。スペイン・ブルボン朝は、イタリア半島の旧領回復や地中海での影響力拡大を狙い、サルデーニャ・シチリア・ナポリなどで軍事的冒険に動きました。これに対し、イギリスは地中海のシーレーン確保とジブラルタルの防衛、フランスは戦後疲弊からの回復、オーストリアはハプスブルク領の保持、オランダは通商と防衛の観点から、対スペイン抑止で利害を一致させました。同盟は、スペイン艦隊の撃破や占領地の返還交渉など具体的成果を挙げ、結果としてサルデーニャ王国・両シチリア王国を含むイタリア政治地図の安定化を後押ししました。
この同盟の特質は、18世紀前半の「海上覇権・通商の時代」を代表していることにあります。イギリスとオランダの海運・金融力、フランスの外交調整、オーストリアの陸上勢力が、地中海という要衝で「現状変更の挑戦者」を包囲する形をとりました。後年の七年戦争(1756–63)やフレンチ・インディアン戦争へ至る英仏世界規模対立の前段としても、四国同盟は重要な節目をなします。すなわち、1718年型四国同盟は、地中海秩序の守り手としての多国間協調の早期例であり、通商・植民・海軍力が外交の主題であったことを物語ります。
名称の混同を避ける――「四カ国協定」「四カ国条約」との違い
四国同盟と似た名称の枠組みが歴史には複数存在します。1933年の「四カ国協定(四国協定、Four-Power Pact)」は、ムッソリーニが主導し、イギリス・フランス・イタリア・ドイツの四国が欧州秩序の改編を協議する枠組みとして構想されたもので、ウィーン体制の四国同盟とは参加国も目的も異なります。実際の効果は限定的で、翌年以降のナチス外交の進展の前に形骸化しました。また、1921–22年のワシントン会議で結ばれた「四カ国条約(米英日仏)」は太平洋の勢力不均衡を「協議」で扱う仕組みで、こちらも欧州の四国同盟とは非連続です。さらに、しばしば「神聖同盟(露墺普)」と1815年四国同盟(英墺露普)は混同されがちですが、前者は理念的宣言、後者は実務同盟という性格差がはっきりしています。
受験や学習では、以下の紐づけで整理すると混乱を避けられます。①1718年=英仏墺蘭(対スペイン)→地中海秩序、②1815年=英墺露普(対革命・戦後管理)→ウィーン体制・会議外交、③1933年=英仏独伊(ムッソリーニ調停案)→効果限定、④1921–22年の四カ国条約=米英日仏(太平洋協議)→ワシントン体制。年代と目的でラベリングするのがコツです。
総じて、四国同盟という言葉は「同名異体」の代表例です。18世紀の海上覇権と地中海均衡、19世紀の体制維持と会議外交という二つの局面で、列強が多国間の枠組みを用いて秩序を調整しようとした試みを象徴しています。名称の背後にある参加国・時代背景・目的の違いに目を凝らせば、ヨーロッパ国際政治の連続と断絶が見えてきます。四国同盟を手がかりに、ユトレヒト体制からウィーン体制、さらに20世紀のワシントン体制や集団安全保障へと、制度の系譜をつないで理解すると、世界史の大きな流れが立体的に把握できるはずです。

