「四庫全書(しこぜんしょ)」は、清朝・乾隆帝の号令のもと18世紀後半に編纂された、中国最大規模の叢書であり書籍目録体系です。古来の書物を「経・史・子・集」の四大部門に配列し、精華を手書きで集大成した写本全書と、それに付随する網羅的目録・解題集『四庫全書総目提要』から成ります。編纂は全国的な書籍蒐集と学者ネットワークの動員によって進められ、同時に禁書指定や削改といった政治的統制も伴いました。七部の写本セットが各地の書庫(文淵閣・文源閣・文津閣・文瀾閣・文宗閣・文匯閣・文溯閣)に分蔵され、東アジアの文献学・学術史に計り知れない影響を及ぼしました。要するに四庫全書は、清朝が「知」を国家の秩序に編み直した巨大な編集プロジェクトであり、学問の保存と検閲という相反する作用を同時に内包する近世知のモニュメントです。
成立と目的――乾隆帝の知の編纂国家プロジェクト
四庫全書の構想は、乾隆帝の文化政策と十八世紀清帝国の自信を背景に成立しました。乾隆帝は、考証学(実証的文献学)の隆盛を取り込みつつ、歴代典籍を整理・評価し、皇朝の正統と文明の継承を可視化することを狙いました。1772年(乾隆37)に全国的な「徴書(ちょうしょ)」が布告され、地方官僚・文人・民間蔵書家に至るまで、所蔵書の提出・写し・貸与が求められました。この過程で、各地の名家蔵書(天一閣・懐徳堂・焦氏蔵書など)や私家版の稀書が北京へ集まり、学者集団が校勘と分類、提要(内容梗概と評価)の執筆に従事しました。
国家的な目的は三層的でした。第一に、古典の保存・整序です。散逸と偽書の横行を防ぎ、精確な本文と異同を校合することで、帝国の文化資本を梳理する狙いがありました。第二に、書誌学・分類学の確立です。「経・史・子・集」という古来の四部分類を再設計し、各部下に細目(部・類・属)を配して体系的に配置しました。第三に、政治的意図です。反清・排満思想や過激な議論を含む書は「禁書」とされ、没収・焚書・削改の対象となりました。つまり、保存と審級の両面を通じて、知の秩序に皇朝の権威を刻印する政策だったのです。
編纂は驚異的な規模でした。総裁・副総裁・総纂はじめ数百名の儒臣・学者が配置され、校勘・誊写・装幀・蔵書庫建設まで、十年余にわたり動員が続きました。1773年に着手し、1782年頃をもって主体部分が成り、以後も増補・整備が進められました。写本は精良な紙・墨を用い、見栄えは「御用叢書」と呼ぶにふさわしい統一美に整えられています。
構成と収録――四部分類と『総目提要』の評価装置
四庫全書の名は、「経・史・子・集」の四庫(四つの蔵)に典籍を納めるという構想に由来します。それぞれの大枠は次のように理解されます。①「経」は儒教の根本典籍とその注疏で、『易』『書』『詩』『礼』『春秋』などと周辺文献。②「史」は正史・編年・地理・制度志・史評など歴史叙述の広範を包含。③「子」は諸子百家・術数・農学・医薬・天文暦算・仏老道関係など、思想と技術を包括。④「集」は詩文・文選・筆記・別集など文学・文芸の領域です。
収められた書物は写本全書だけでも数千種に及び、〈存目〉(存在は確認するが写本に収めなかった書)を含むと、その把握範囲はさらに広がります。とりわけ重要なのが、付随する書誌解題『四庫全書総目提要』です。各書について著者・版本・体裁・内容・学術的価値・異同・評価を簡潔にまとめ、時に厳しい批評や政治的判定を加えます。この「提要」は、単なる案内目録を超え、清代の学術的常識=カノンを形成した規範テキストでした。以後、東アジアの書誌・学統は、しばしばこの提要を参照点として組み立てられます。
分類の運用も柔軟でした。例えば、歴史の中でも制度に関するものは「史・政書」に、地理は「史・地理」に、思想書でも儒家正統に収まりきらない議論は「子部」に配されます。これは単に箱を増やす作業ではなく、典籍に付与する「学術的位置づけ」の再定義でもありました。『資治通鑑』のような編年大著、『史記』や『漢書』のような正史、『黄帝内経』『本草綱目』に代表される医薬典籍、『水経注』や『禹貢』類の地理書、孫子・呉子など兵書、『文選』や歴代詩文集――網羅の射程は広範です。
この四部分類は、隋唐以来の伝統を踏まえつつ、清代の知識の地図を再描画しました。近代以降の東アジア教育や図書館分類にも間接的に影響を与え、「四部」という語感そのものが知の体系を指す一般名詞として定着します。
編纂の過程と検閲――蒐集・校勘・誊写、そして禁書・削改
四庫全書は、壮大な保存事業であると同時に、権力が知を編成した装置でもありました。全国の徴書は蔵書家の協力を得て進み、失われかけていた希書・善本が北京に集結しました。多くの書は校勘を受け、古写本や諸版の異同が比較され、本文の安定度が高まりました。誊写は専門の書手が担当し、一定の字形・行格・見返し・題箋・装幀に統一され、書誌的にも美術的にも高い完成度を示します。これらは学術保存の側面で、現代の研究の基盤ともなりました。
しかし同時に、政治的に危険視された書は、禁書・焚書・削改の対象となりました。具体的には、反清・排満・前朝への忠誠を鼓舞する内容、過激な史評、皇統正統論に挑む議論などが該当しました。『明史』私撰本への警戒、〈文字の獄〉の文脈で問題視された語句の削除、目録における厳しい評言などが知られます。収書の過程で没収・焼却された書の数は相当規模に上り、四庫プロジェクトは「文化の保全」と「文化の選別」を一体化させた試みだったと言えます。
この二面性は、清代学術の輪郭を決定づけました。一方で、考証学の精密さと史料保存の厚みが育ち、経籍の校勘・金石学・目録学は高みに達します。他方で、政治的に望ましい知の枠外は見えにくくなり、文学や思想の多様性は目録の評価言語に従属しました。四庫全書の〈提要〉に刻まれた評価は、後世の学界・出版界の取捨にも影を落とし、カノン形成に強い規定力を発揮します。
四庫全書の写本は、七つの蔵書庫に分置されました。代表的なのは、北京・紫禁城の文淵閣、円明園の文源閣、承徳避暑山荘の文津閣、杭州の文瀾閣、江蘇の文匯閣(揚州)、文宗閣(鎮江)、そして盛京(瀋陽)の文溯閣です。戦乱や災害で散逸・焼失したセットもありますが(たとえば円明園の焼失、太平天国期の被害など)、杭州の文瀾閣や承徳の文津閣、瀋陽の文溯閣など、比較的良好に残った書庫もあり、20世紀以降の影印・校点の基盤となりました。
伝来・影響・現代の活用――影印、校点、デジタル化へ
四庫全書は、清末・民国・中華人民共和国・台湾・香港に至る近現代の出版文化に大きな足跡を残しました。まず、写本原本は国立図書館・地方博物館などに分散しつつ、影印本(写真複製)として20世紀に広く公開されます。上海・台北・香港などで刊行された影印版は、研究者にとって最重要の参照基盤となり、同時に『四庫全書総目提要』の点校本・索引・分類索引が編まれ、検索性が高まりました。さらに、四庫に未収の善本や後世発見の文献を補う「続修」「叢編」「薈要」といった名を冠した補遺的叢書も編まれ、原プロジェクトの枠を越えた文献ネットワークが形成されます。
現代では、四庫全書はデジタル・データベース化され、全文検索・画像閲覧・メタデータ管理が可能になっています。これにより、異本比較や語彙統計、注釈史の追跡など、新しい研究方法が生まれました。図書館・大学だけでなく、一般向けのオンライン閲覧サービスも整備され、古典学習の裾野が広がっています。教育現場では、四部分類が歴史科・国語科の教材に応用され、古典の領域横断的理解に資する枠組みとして活用されています。
四庫全書の影響は、カノン形成・学統伝承・出版文化の三方面に整理できます。第一にカノン形成では、〈提要〉が示した「何を高く評価し、何を低く評価するか」という判断が、学界の基準として長く参照されました。第二に学統伝承では、考証学的技法(校勘記述、版本学、金石学)が四庫プロジェクトの中核をなし、その知的作法が近代以降の中国学の基礎となりました。第三に出版文化では、統一仕様の叢書設計と校訂の標準化が、後世の大型叢書(『叢書集成』『四部叢刊』など)に継承されました。
同時に、四庫全書は批判的検討の対象でもあります。禁書処分による文化損失、提要の政治的偏向、地域差・言語差の吸収の難しさ、女性文献や辺境文献の軽視など、カノンの陰に隠れた問題は少なくありません。近年は、地方文献・少数民族文献・宗教文献の再評価が進み、四庫の外側に押し出された知の復権が課題となっています。四庫を「完成形」とみなすより、18世紀清朝が描いた知の地図として歴史化し、現在の視点から補正・拡張することが重要です。
最後に、四庫全書の読み方について一言添えます。四庫は書名の巨大な一覧ではなく、目録(総目提要)と本文、そして評価言語の三層から成る「読解の装置」です。ある書の学術的位置を理解するには、提要の評言を参照しつつ、同時代の学者の議論や他の目録の所見と照合し、さらに今日の研究で更新された理解を重ねる必要があります。そうした往還の中で、四庫は過去を固定化する「金庫」ではなく、現在に問いを投げかける「索引」として生き続けます。
総じて、四庫全書は、帝国が知を収集・整理・裁定した史上最大級の編集事業であり、保存と検閲という矛盾を抱えながらも、東アジア学術の骨格を形づくりました。伝統の再編と権力の意思が交差するこの叢書は、古典を読む私たちに、何を残し、何を失い、どう読み直すべきかを静かに問い続けています。

