キャフタ条約とは、18世紀前半に清(中国)とロシア帝国のあいだで結ばれた国境画定・通商規制の総合的合意(1727年)を指す呼称です。モンゴル高原の南北を隔てる国境線を具体的に定め、両国の越境事件の処理、通商の場所・手続き・税や価格の枠組みを取り決めたもので、前段のネルチンスク条約(1689年)を補完し、東アジア北方の国際秩序を安定させました。合わせて、19世紀末〜20世紀初頭にかけては、同じ国境の街キャフタ(清側では買売城〈マイマイチェン〉)で、外モンゴルの地位をめぐる「キャフタ三国条約(1915年)」も調印され、同名の地名が複数の歴史的合意の舞台となりました。要するにキャフタ条約は、ユーラシア北東部における〈国境の線引き〉と〈越境交易のルール作り〉、そして〈モンゴルの帰属・自治をめぐる政治調整〉という三つの論点が交差した出来事を総称する言葉です。
この合意により、ロシアは清との和平・交易の安定を得て、清は北方辺境の治安を確保し、モンゴル域内の秩序と朝貢・冊封体系の枠を守ることができました。交易は国境の特定の市(キャフタ=マイマイチェン)に集約され、毛皮・銀・絹・茶などが隊商によって大量に行き交いました。鉄道前夜まで続いたこの「国境都市の繁栄」は、両帝国の財政と日常生活を静かに支え、同時に越境事件や密貿易、逃亡民の取り扱いといった課題を絶えず生み出しました。以下では、背景と成立、条約の具体内容、国境都市と隊商交易の現実、19〜20世紀における変容と1915年合意の位置づけの順に、詳しく説明します。
背景と成立――ネルチンスク条約の補完としての1727年キャフタ合意
17世紀末、清とロシアはアムール川流域の領有をめぐる緊張をネルチンスク条約(1689年)でいったん収めました。ここでは国境の大枠が定められたものの、モンゴル高原西部から外モンゴル・トランスバイカルにかけての線引きや、捕虜・逃亡民の送還、隊商の通行管理など、運用面での詳細は残されていました。18世紀に入ると、清は康熙・雍正期にかけて内外モンゴルの編成を進め、ジュンガル(オイラト)との対立が激化します。ロシア側もシベリア開拓を進め、通商と国境安定の必要性が増大しました。
こうした状況のもと、雍正帝期の1727年、清の全権トゥリシェン(トゥルシェン、トゥリシャン)とロシア側のサヴァ・ウラジスラヴィチ(サヴァ・フラディスラヴィチ、サヴァ・ラグジッチとも表記)が交渉し、キャフタとボルホジャ(布連哈爾)などの現地で協議を重ね、いくつかの文書から成る合意に到達しました。これが一般に「キャフタ条約」と総称される一群の協定です。条約は、(1)国境の具体的画定、(2)逃亡者・犯罪者の送還規定、(3)隊商交易の制度化、(4)外交使節の取り扱いと通行路の規定、といった要素を含んでいました。
キャフタという地名は、バイカル湖の南、トランスバイカル地方に位置するロシア側の国境町を指し、清側の対面の町は「買売城(マイマイチェン)」と呼ばれました。地形的には草原と低丘陵が続く交通の結節点で、モンゴルの遊牧経済とシベリアの森林資源、黄河・長城方面の農業・手工業が出会う場所です。ここに国境の門と交易の市場を集中させることで、双方向の監督と課税、治安維持が比較的容易になり、越境トラブルの収拾が迅速化しました。言い換えれば、キャフタ条約は「国境を一本の線として固定する」だけでなく、「線上に管理可能な通路と市場を設置する」という空間設計の合意でもあったのです。
条約の中身――国境・送還・外交と通商のルール化
第一に重要なのは国境画定です。キャフタ条約は、ネルチンスクで未確定だった外モンゴルとロシア領(トランスバイカル)の境界を比較的明確にしました。国境は山脈・川筋・峠など自然の地形線を基準に説明され、現地での標識設置も行われました。これにより、遊牧民の季節移動と徴税・軍事動員の管轄が整理され、越境をめぐる偶発的な衝突の危険は相対的に減少しました。ただし、遊動的な生活世界に固定的な境界線を当てはめることは常に困難を伴い、牧地・水源・礼拝地の共有をめぐる紛争は絶えませんでした。
第二に、逃亡者・犯罪人の相互送還に関する規定が整えられました。辺境では兵士・商人・農民・奴僕の移動が多く、越境して庇護を求める事例が頻発しました。条約は送還の手続き、身分確認、保護の可否、引き渡し地点などを定め、地方行政官の連絡体制を整備しました。これは、清の八旗・モンゴル旗人統治やロシア帝国のコサック・入植民管理にとって、秩序維持の土台でした。一方で、政治的亡命や宗教問題が絡む案件では、送還の拒否や遅延が外交摩擦の火種となることもありました。
第三に、通商制度の整備です。キャフタにおける定期交易は、国家管理の下に置かれ、隊商の規模・認可・関税・検査、価格交渉の枠組み、滞在期間、宿舎・倉庫・秤量手続きなどが細かく規定されました。主な取扱品は、ロシア側から毛皮・銀・金属製品・皮革、清側から絹織物・茶・磁器・砂糖・日用品などで、やがて茶葉が最重要商品となります。ロシア側はモスクワやサンクトペテルブルクの需要、清側は北京・保定・張家口など北方都市の消費市場とつながり、キャフタを中継する「茶路」は、19世紀を通じてユーラシアの生活文化を結びました。
第四に、外交儀礼と使節の通行路が定められました。清朝は冊封秩序の格式を重んじ、ロシアは主権国家間の対等な外交を志向しましたが、キャフタ条約では相互の面子を保ちつつ、実務上の往来と交渉の場を確保する妥協が成立しました。通訳・通詞・通牒の形式、贈答の範囲、国境での検問手続きなどが規範化され、突発的な侮辱や誤解のリスクが下げられました。これらの規範は、国境社会の日常にも浸透し、商人・旅人・僧侶・職人の移動をめぐる暗黙の作法として定着していきます。
国境都市と隊商交易――茶と毛皮がつくるユーラシアの回路
キャフタ(ロシア側)とマイマイチェン(清側)は、条約後に急速に発展した双子の国境都市でした。街は塀や関門で囲まれ、官署・税関・検査所・秤量所・宿泊施設・倉庫・市場・寺院が整備され、季節ごとに数千人規模の往来で賑わいました。とりわけ茶は、福建・江西・安徽などから内陸輸送され、張家口など北方の商業都市を経由してマイマイチェンに到着、そこで木箱が開封・再梱包され、耐寒輸送に適した形に整えられました。ロシア側ではキャラバンによってイルクーツク、クラスノヤルスク、トムスク、さらに西方の都市へと運ばれ、貴族から庶民にまで嗜好品として浸透しました。
毛皮は、その逆回路を流れました。シベリアのリス・テン・キツネ・セーブルなどの毛皮は、品質に応じて厳格に選別され、清側に持ち込まれました。宮廷の装束・儀礼衣装、都市の防寒衣料、贈答品として毛皮は高い価値を持ち、価格は季節と政治情勢に敏感に反応しました。銀や金属製品、工具、ガラス器、時計などヨーロッパ製の工業製品は、都市の職人・官僚・富裕層の需要を満たし、都市文化の変化を促しました。
国境都市の社会は多層的でした。モンゴルの遊牧民、漢人商人、満洲旗人、ロシア人の官吏・商人・コサック、中央アジア系の仲介者、ユダヤ商人、アルメニア人、タタール系ムスリムなど、多様な出自の人びとが同じ空間を共有しました。言語はモンゴル語・満洲語・漢語・ロシア語・トルコ系言語が飛び交い、通訳は不可欠の職能でした。宗教も仏教・ロシア正教・イスラム教などが共存し、寺院と教会、礼拝所が街並みに並びました。賭場・酒場・旅宿・浴場・取引所が経済と娯楽の中心で、国境の「余白」には密貿易や私的取引も根を張りました。
条約が作った秩序は、安定と矛盾を同時に生みました。国家管理の強化は交易の透明性と徴税の確実さを高めましたが、価格統制と許認可が商機を縛り、特権をめぐる争いを誘発しました。隊商の安全は官の護送と相互扶助で支えられた一方、盗賊や騙り、偽造印の横行も絶えませんでした。越境婚姻、養子縁組、宗教改宗、破産と再起など、人びとの人生は国境の規則と商売の機会に翻弄され、それでも街は季節ごとに蘇りました。キャフタ条約は、この日常の律動を制度として支える背骨だったのです。
変容と継承――19〜20世紀の国境再編と1915年キャフタ三国条約
19世紀後半、アヘン戦争以降の清の弱体化と列強の進出、ロシア帝国の東方拡張、シベリア鉄道の建設などが、キャフタ体制に大きな変化を迫りました。アムール・沿海州方面ではアイグン条約(1858年)や北京条約(1860年)によって国境が見直され、ロシアは日本海への出口を確保します。鉄道と蒸気船の普及は、長距離隊商の競争力を相対的に低下させ、キャフタの交易は比重を落としていきました。とはいえ、地域交易と日用品の流通、宗教・文化の混淆という意味で、国境都市機能はなおしばらく残存しました。
20世紀初頭、清朝の動揺と辛亥革命、ロシアの国内事情の変化が、モンゴルの政治地位に直結します。1911年、外モンゴルは独立を宣言し、ロシアの支援のもとで自治体制を模索しました。これに対して中華民国政府は領土保全を主張し、ロシアは勢力圏の安定と交易の維持を優先します。こうした三者の利害調整の場として、1915年、キャフタで「露・中・蒙三国条約(キャフタ三国条約)」が調印され、外モンゴルの「中国宗主権下の自治」が国際的に確認されました。これは完全独立の否認と、自治権の限定的承認という折衷案で、宗主権・駐屯・内政・通商に関する曖昧な両立が制度化されました。
しかし、この妥協は長続きしません。ロシア革命と内戦、ソ連の成立、モンゴル人民革命(1921年)を経て、外モンゴルはソ連の強い影響下で独自の社会主義国家(モンゴル人民共和国)へと進み、中華民国の宗主権は実質的に消滅します。第二次世界大戦の終盤には、ヤルタ協定とソ中条約(1945年)を通じてモンゴルの独立が承認され、冷戦期を通じて国境はソ連—モンゴル—中国という新たな枠組みのもとで固定化しました。キャフタとマイマイチェンの「双子都市」も、国境管理の厳格化と鉄道・自動車輸送の発達により、往年の隊商都市としての性格を大きく変えていきます。
20世紀後半から21世紀にかけて、中国・ロシア・モンゴルの関係は、イデオロギー対立と緊張緩和を経て、国境の共同管理と国際物流の再編という現実的な協力に重心が移りました。近年ではエネルギー・鉱物・農畜産物・観光をめぐる越境連携が議題となり、古い茶路や毛皮交易の記憶は、博物館・記念館・史跡・観光資源として再解釈されています。かつてのキャフタ条約が築いた「国境を秩序化する」発想は、現代においては通関・検疫・貿易手続きのデジタル化、越境インフラの標準化といった新しい形で継承されていると言えます。
総じて、キャフタ条約は、東アジア北方世界における国境管理と交易制度の成熟を象徴する出来事でした。線を引くだけでなく、線上に市場と儀礼、監督と相互承認の仕組みを置く――この「制度としての国境」は、キャフタを舞台に具体化され、数世代にわたって地域社会のリズムを形づくりました。1915年の同名の場での合意は、時代を隔てて政治地図を書き換えましたが、いずれの場合も、キャフタは〈帝国と帝国の隙間〉に生まれた交渉と交換の都市として、人々の記憶に刻まれているのです。

