コーカンド・ハン国 – 世界史用語集

コーカンド・ハン国(Kokand Khanate)は、18世紀初頭から19世紀後半にかけてフェルガナ盆地(現・ウズベキスタン東部〜タジキスタン北部〜キルギス南部)を中心に栄えたトルコ系イスラーム王国です。サルタ(都市民)やウズベク、タジク、キルギスなど多様な住民を束ね、綿花・絹織物・果樹園と灌漑の富を背景に、ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、さらに清朝新疆(カシュガル)やロシア帝国とのあいだで巧みに交易と外交を展開しました。18〜19世紀の中央アジアは「大博奕(グレート・ゲーム)」の舞台にもなり、コーカンドはその最前線で台頭と衰退を経験します。19世紀後半、ロシアのトルキスタン征服が進む中で領土を削られ、1876年にロシア帝国へ併合されて消滅しました。全体像をつかむなら、〈フェルガナの灌漑都市国家→オアシス連合の拡大→清・ブハラ・ロシアの挟撃→保護国化と併合〉という流れで理解できる国です。

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成立と拡大──ミン部の台頭、フェルガナの統合、首都コーカンド

コーカンド・ハン国の出発点は、18世紀初頭にフェルガナ盆地で勢力を伸ばしたウズベク系のミン(Ming)部の支配です。伝承ではシャールフ(シャーフルフ)やその後裔が盆地の諸都市と農村をまとめ、1709年前後に実質的な独立を確立したとされます。首都はやがてコーカンド(ホーカンド)に置かれ、アフラスィヤブ川の支流に沿って城壁都市が整備されました。フェルガナは古くから灌漑と園芸に富み、マルギラン、アンディジャン、ナマンガン、ホジェンド(現・フジャンド)などの都市が、絹織物・綿布・果実・陶器の生産で相互に結びついていました。

18世紀末〜19世紀前半、アリム・ハン、オマル・ハン、マダリ・ハンらの時代に、コーカンドは盆地外へも影響力を拡大します。天山の峠を越えてオシュやカシュガルへ通じる交易路を押さえ、アルタイシャンル(アルティシャール、新疆南部)に住むホージャ(コジャ)勢力との関係を通じて、清朝支配下のタリム盆地にも政治的接触を持ちました。西ではホジェンドやタシケントをめぐってブハラ・ハン国やロシアと競合し、北ではカザフ草原のジャズィル(中ジュズ)遊牧民やキルギス部族と従属・盟約・衝突を繰り返します。タシケントは18世紀末以降しばしばコーカンドの勢力圏に入り、税と警備を通じてフェルガナとシルダリヤ流域の連結が強まりました。

政治・社会の構造──ハン権力、ベク支配、法と部族の均衡

コーカンドの政治は、ハン(君主)を頂点としつつも、多層的な調整で成り立っていました。地方にはベク(bek)と呼ばれる知事・豪族が置かれ、税の徴収、治安、灌漑施設の維持、裁判の執行を担いました。都市部ではカーディー(イスラーム法学者)がシャリーア(イスラーム法)に基づく裁判を司り、ワクフ(宗教寄進地)の管理やモスク・マドラサの運営が社会福祉的機能を果たしました。他方、キルギスなど遊牧民の社会には慣習法(アダト)が強く、都市=オアシス社会の法と遊牧の規範が共存・衝突する局面も見られます。

社会構成は多様でした。サルト(トルコ語を話す都市民)とタジク系の農耕民、ウズベクの部族集団、キルギスやカザフの遊牧民、ペルシア語話者の商人、タタール商人、さらにはインド商人も活動しました。言語はチャガタイ語(古典トルコ語系)とペルシア語が行政・文学の主要言語で、アラビア文字で書かれました。都市の手工業は、マルギランの絹(アトラス織)、アンディジャンの綿布、リシュタンの陶器、刃物や銅器などが名産で、キャラバンサライ(隊商宿)が交易を支えました。

ハン権力はしばしば宮廷派閥や部族間の均衡に揺さぶられました。19世紀半ばのフダヤール・ハン(ホドヤル・ハン)は華麗な宮殿建設(コーカンドのフダヤール・ハン宮殿)や行政改革を試みましたが、重税と官僚・軍の腐敗、ベク層との軋轢が反乱を招き、国内の求心力は弱まりました。宮廷の近衛や奴隷出身の側近、キプチャク系軍事集団の影響力が増すと、都市の商工層や宗教エリートとの緊張が高まり、内政は不安定化します。

経済・灌漑・都市文化──綿と絹、フェルガナの富、建築と学芸

フェルガナ盆地の富の根源は灌漑でした。シルダリヤやその支流から無数のカナート・用水路が張り巡らされ、小麦・綿・果樹(杏・葡萄・柘榴)・桑と家蚕が栽培されました。19世紀に入ると、ロシア市場の需要を見込んだ綿花の比重が増し、後年のロシア帝国編入後には綿作偏重が加速します。都市の市場(バザール)には、綿布と絹織物、染色、皮革、金属細工、香辛料、乾果、遊牧民の乳製品や毛織物が並び、関税・市税が国家財政の柱の一つでした。

建築と都市文化の面では、金曜礼拝用の大モスク(ジャーミ・モスク)、マドラサ(高等教育施設)、隊商宿がコーカンドやマルギラン、アンディジャンに整備されました。フダヤール・ハン宮殿は彩釉タイルの幾何学文様や木彫の格天井が美しく、コーカンド宮廷の栄華を今日に伝えます。書道・詩作・宗教学の伝統はブハラ・サマルカンドと共鳴し、チャガタイ語文学やスーフィズム詩(ナクシュバンディー教団の系譜)が都市文化の背骨を成しました。音楽・口承詩も豊かで、ドタールやタンブールの旋律が婚礼・祭礼を彩りました。

清朝新疆との関係──コジャ蜂起、交易権益、カシュガルへの通路

東の天山を越えたタリム盆地(アルティシャール)との結びつきは、コーカンドの外交・経済にとって死活的でした。18世紀後半、ジュンガル滅亡後に新疆を支配した清朝は、カシュガルなどオアシス都市を旗人・官僚の体制で統治しますが、ホージャ(コジャ)と呼ばれる宗教指導者勢力が断続的に蜂起します。コーカンドはしばしばこれらの蜂起に関与・支援し、その見返りとしてカシュガルでの交易特権(関税の軽減、キャラバンサライの設置、税の共有)を獲得しました。19世紀中葉には、清支配の弱体化とコーカンドの商人・軍が交錯し、やがて新疆の混乱期(1860年代)にヤークーブ・ベクの政権が成立すると、コーカンド出身者が要職を占めるなど密接な関係を見せます。

清朝はコーカンドに対し、交易の便宜を図る一方で、越境武装や反乱支援には厳しく対処し、緊張と協調の揺れが続きました。コーカンドの商隊は茶・砂糖・綿布・金属器をタリム盆地へ運び、代わりに生皮・乾果・ラピスラズリ・馬などを持ち帰りました。天山の峠(トルガルト、イリシュタン周辺)の管理と関税は、両勢力の交渉材料であり続けました。

ブハラ・ヒヴァ・草原世界との力学──オアシス間競合と部族関係

西側では、ブハラ・ハン国とヒヴァ・ハン国が同じくオアシス交易と灌漑農業を基盤に覇を競いました。タシケントやホジェンド、シルダリヤ流域の軍事要衝は繰り返し争奪の対象となり、同盟や婚姻、宗教エリートの承認を通じて正統性が演出されました。草原世界との境では、カザフのジュズ(大・中・小)やキルギス部族との朝貢・徴税・保護関係が複雑に絡み、家畜の移動や水場の利用、冬営地・夏営地の調整が政治の重要課題でした。オアシス国家の軍は騎兵・歩兵・火器の混成で、城砦の整備や峠の関門管理が防衛の要でした。

ロシア帝国の南下とトルキスタン征服──タシケントの喪失、保護国化、そして併合

19世紀半ば、ロシア帝国はカザフ草原の要地(アクメチェト=ペロフスク、ヴェルヌイ=アルマトゥイ、ピシペク=ビシュケクなど)に要塞線を築き、南下を進めます。1865年、チェルニャエフ将軍がタシケントを攻略すると、コーカンドの西方支配は致命的な打撃を受けました。続く1866〜68年の戦役でホジェンドやジュラ(ウラ・テパ)などがロシアに屈し、ブハラはサマルカンドを失って保護国化、コーカンドも実質的にロシアの影響下に置かれます。ロシアは関税・通商の優先権、駐在官の設置、通商路の安全確保を名目に内政へ影響力を行使し、綿作・輸出の方向付けを通じて経済構造を変えていきました。

国内統治の動揺はさらに深まり、1875年、重税と専横に反発する蜂起がフェルガナ各地で起こり、フダヤール・ハンは国外へ逃亡します。ロシアはこれを治安回復の口実として軍を進め、短期間の傀儡政権(ナスルッディン・ハン)を経たのち、1876年にコーカンド・ハン国を正式に廃してフェルガナ州(オーブラスチ)としてロシア帝国に併合しました。これにより、中央アジア東部のオアシス世界はロシアのトルキスタン総督府の一部となり、行政・司法・税制・土地制度がロシア法の枠に再編されます。

併合後の変化──綿作経済、鉄道、都市と宗教の再編

ロシア編入後、フェルガナ盆地は帝国の綿花供給地として位置づけられ、用水路の改修と新規開削、種子改良、商社の進出で綿作比率が上昇しました。のちにトランス=カスピ鉄道と連結する地域鉄道・道路が整備され、貨物の流れはカスピ海経由でロシア中部の紡績地帯へ直結します。綿作偏重はキャッシュ収入と引き換えに食料自給を脆弱化させ、価格変動のリスクや小作関係の硬直化をもたらしました。他方、都市ではロシア人居留地の建設、官公庁と兵営の新設、測量・地籍整理が進み、旧来の城壁都市は新市街と結びつく二重構造の都市へ変化します。

宗教・教育面では、モスクやマドラサの活動は継続しつつも、ロシア当局はカーディー法廷の権限を縮小し、宗教寄進地(ワクフ)の監督を強めました。20世紀初頭にはジャディード(改革派)運動がフェルガナにも広がり、新式学校や新聞が登場して、都市エリートの間で教育・女性の地位・経済近代化をめぐる議論が活発化します。ロシア革命後、フェルガナはバスマチ運動(反ソ武装抵抗)の拠点の一つとなり、ソヴィエト政権樹立まで長く不安定が続きました。

文化遺産と現在──宮殿・モスク・工芸とフェルガナの記憶

今日、コーカンドやマルギラン、アンディジャンを訪れると、フダヤール・ハン宮殿、ジャーミ・モスク、歴史博物館、リシュタンの陶房など、ハン国時代の文化遺産が当時の生活世界を伝えています。マルギランのアトラス織は今も生産され、天然染料の色面と幾何学文様は、コーカンドの色彩感覚と交易の記憶を宿します。口承の叙事詩や民謡、料理(プロフ、サムサ、果実の干物)は、多民族の往還が形作った生活文化の証言です。フェルガナの灌漑が生んだ豊饒と、それを巡る政治的緊張の歴史を併せて見ることで、コーカンド・ハン国は単なる一王朝ではなく、中央アジアの「水と商いの文明」を体現した地域秩序だったことが見えてきます。

年表(概略)

1709年前後:ミン部がフェルガナで自立、のちにコーカンド・ハン国へ/18世紀末:タシケント・ホジェンドに勢力伸長/1810〜30年代:オマル・ハン、マダリ・ハン期の拡大、清新疆との交易・干渉/1865年:ロシア軍、タシケントを攻略(コーカンドの西域支配に致命傷)/1866〜68年:ロシアによりホジェンドなど陥落、保護国化の圧力強まる/1875年:反税反乱でフダヤール・ハン逃亡/1876年:ロシアが併合、フェルガナ州を設置。