周口店 – 世界史用語集

周口店(しゅうこうてん)は、中国・北京市の南西に位置する龍骨山(りゅうこつざん)一帯の遺跡群の名前で、20世紀を代表する人類化石の発見地として世界的に知られている場所です。ここでは、約70万~20万年前にこの地域に暮らしていたとされる北京原人(ペキン原人/ホモ・エレクトス)をはじめ、より新しい時代の「山頂洞人(さんちょうどうじん)」など、多様な時期の人類化石と石器・動物化石が見つかっており、東アジアにおける人類の進化と生活の様子を知るうえで極めて重要な資料を提供しています。

周口店遺跡群は、一つの洞窟だけではなく、複数の洞窟・岩陰・露頭からなる複合的な遺跡です。その中には、北京原人の頭骨や歯が数多く出土した「北京猿人遺跡」、より新しい旧石器時代後期の人骨が見つかった「山頂洞遺跡」などが含まれます。これらが層をなして同じ山の中に存在していることで、非常に長い時間スケールの人類史を一つの地域で連続的にたどることができる点が、周口店の大きな特徴です。

20世紀前半、この周口店での発掘と研究は、国際的な共同プロジェクトとして進められ、スウェーデンやカナダ、中国、日本など多くの研究者が関わりました。そのなかで北京原人の化石が相次いで見つかり、「アジアにも独自の人類進化の舞台があったのではないか」という議論を呼び起こしました。第二次世界大戦中の混乱で、貴重な原標本の多くは行方不明になってしまいますが、石膏模型や詳細な記録が残されており、その後も周口店研究は続けられています。

簡単に言うと、周口店とは「北京近郊の山中にある、人類化石と石器の宝庫」であり、北京原人をはじめとする旧石器時代の人類の姿を、具体的な骨や道具、生活跡として示してくれる場所です。以下では、周口店という用語の意味と遺跡の構成、発見の歴史と北京原人、出土した化石や生活の様子の解釈、そしてその学術的な位置づけや現在までの研究の広がりについて、もう少し詳しく見ていきます。

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周口店とは何か:位置と遺跡群としての特徴

周口店は、北京市中心部から南西へおよそ40kmほどの場所に位置する山地地域の地名です。その中心にそびえる標高数百メートルの丘陵が龍骨山と呼ばれ、その内部や斜面に多くの洞窟や岩陰が発達しています。これらの洞窟は、長い地質時代の間に形成され、人類や動物が住みついたり、骨が堆積したりする場となりました。つまり、周口店遺跡群は、「同じ山の中に、さまざまな時期の自然・人類の痕跡が重なって残っている場所」だと理解することができます。

世界史や世界地理の教科書では、「北京原人の発見地・周口店」という形で短く紹介されることが多いですが、実際には周口店には番号で区別される複数の遺跡地点があり、それぞれ年代や出土物が異なります。代表的なものとして、北京原人の化石が集中して発見された「第1地点(北京猿人洞)」、旧石器時代後期のホモ・サピエンスに属する山頂洞人の化石が見つかった「山頂洞」、さらに他の時期の人類活動を示す洞窟などがあります。

地質学的に見ると、周口店付近には石灰岩層が広がっており、地下水の作用で洞窟が形成されやすい環境にありました。洞窟の中には、外部から運び込まれた土砂や動物の骨、人類によって持ち込まれた石器や動物の骨が堆積し、それが長い時間の中で固まって地層をなしています。考古学者や地質学者は、これらの層を慎重に掘り出し、含まれる化石や石器、炭化物などを分析することで、各時期の環境や人類の生活を復元しようとしてきました。

周口店が特に重要なのは、「時間の厚み」と「資料の豊富さ」が同時にそろっている点です。多くの旧石器時代遺跡は、特定の時期の層だけが保存されているのに対し、周口店では古い北京原人から、新しい山頂洞人に至るまで、異なる時期の人類の痕跡が同じ地域から連続的に見つかります。これは、東アジアにおける人類進化の流れや、環境変化への適応を一つの場所で比較できるという意味で、大きな価値を持っています。

また、周口店遺跡群は現在、世界文化遺産にも登録されており、保護と研究・観光が両立するような整備が進められています。博物館や展示施設も整えられ、北京市からのアクセスも比較的良いため、国内外から多くの見学者が訪れる人類史の「教材」のような場所になっています。

発見の歴史と北京原人の登場

周口店が人類化石の重要な発見地として注目され始めたのは、20世紀初頭のことです。きっかけを作ったのは、中国で鉱物資源の調査を行っていた外国人地質学者たちでした。1910年代から1920年代にかけて、スウェーデン人地質学者アンデションらが中国各地を調査するなかで、龍骨山の洞窟に注目し、「ここには化石や古い人類の痕跡が眠っているのではないか」と考えたのです。

1920年代半ばから、本格的な発掘調査が開始されます。中国人研究者と外国人研究者が協力する形で、地層ごとに慎重に土を取り除き、動物の骨や石器を収集していきました。その中で1927年頃、北京原人に属するとされる人歯の化石が発見され、「この洞窟には古い人類の骨が眠っている」という期待が一層高まります。

その後数年間の発掘で、頭蓋骨の断片や顎の骨、歯などが次々に見つかり、合計で40人分近い北京原人の化石が出土したと言われています。これらは当時の国際人類学界に大きな衝撃を与え、「ジャワ原人などに続く、アジアの重要なホモ・エレクトスの証拠」として注目を浴びました。化石の研究から、彼らの脳容量や頭骨の形、歯の特徴などが明らかにされ、ヨーロッパやアフリカで見つかっていた化石人類との比較も進められました。

北京原人の発見は、中国国内にとっても大きな意味を持ちました。当時の中国は、欧米列強や日本からの圧力を受けており、「中国文明や中国人のルーツ」をめぐる議論が盛んでした。周口店での北京原人化石の発見は、「中国の大地にも、きわめて古い人類の歴史が刻まれている」「人類史の中でアジアも重要な舞台である」と主張するうえでの象徴となり、学問的関心とナショナルな関心が重なり合う存在となったのです。

しかし、こうして集められた北京原人の頭骨標本の多くは、第二次世界大戦の混乱の中で失われてしまいました。1941年、日本軍の進攻と太平洋戦争の緊張が高まるなか、化石標本はアメリカへの避難を試みる途中で行方不明となり、その所在は今も不明です。幸いなことに、戦前の研究者たちが精密な石膏模型や測定データ、写真を残していたため、北京原人の特徴そのものが完全に失われたわけではありませんが、原標本の喪失は人類学史上の大きな損失とされています。

戦後も、周口店では発掘と再調査が続けられ、北京原人に属する新たな化石や、動物骨・石器・灰層などが見つかっています。こうした蓄積により、北京原人の生活環境や行動様式への理解は、少しずつ深まってきました。

出土した化石と北京原人・山頂洞人の生活の姿

周口店の代表的な人類化石である北京原人は、一般にホモ・エレクトス(原人段階のヒト)に分類されます。頭骨の形は現代人よりも頑丈で、眉のあたりに太く張り出した「眉上隆起」があり、顎も強く発達していました。一方で、脳容量は現代人に近づきつつあり、石器の使用や集団生活を行っていたと考えられています。

北京原人の生活については、周口店第1地点から出土した石器や動物骨、焼けた痕跡などにもとづいて復元が試みられてきました。石器は主に礫石器や剥片石器で、打製によって刃をつけた簡素なものが多く、狩猟や解体、木材加工などに用いられたと考えられます。動物骨の分析からは、シカ類やウマ、イノシシ、その他の大型・中型哺乳類が食料として利用されていたことがうかがえます。

周口店の北京原人遺跡で注目される点の一つが、「火の使用」の問題です。洞窟内の特定の層から、焼け焦げた動物骨や炭化物、焼けた石などが見つかっており、かつては「北京原人は火をコントロールして使っていた」「洞窟で焚き火をしながら集団で暮らしていた」と解釈されていました。これにより、北京原人は単なる狩猟採集だけでなく、火を用いた調理や暖房、防獣などの行動を行ったとするイメージが広まりました。

しかし、近年の研究では、「これらの焼けた痕跡がどこまで人為的なものか」「自然火災など別の要因はなかったか」をめぐって再検討が進んでおり、火の使用の程度や継続性については議論が続いています。いずれにしても、北京原人が石器を用いて動物を利用し、集団で洞窟を拠点としたり周辺の環境に適応していたこと自体は、多くの研究によって支持されています。

一方、同じ周口店の山頂付近に位置する「山頂洞」からは、旧石器時代後期、すなわち数万年前の人類(いわゆる現生人類=ホモ・サピエンス)に属する山頂洞人の骨が発見されています。彼らの頭骨や骨格は現代人に非常に近く、埋葬の痕跡や装身具(貝殻や骨で作られた飾りなど)も見つかっていることから、象徴的な文化や儀礼の存在が推測されています。

山頂洞人の存在は、周口店が「原人段階」の北京原人のみならず、「新人段階」のホモ・サピエンスの遺跡でもあることを示しており、同じ地域で長い時間をかけて人類の姿が変化していったことを感じさせます。北京原人と山頂洞人の間には数十万年の時間差があり、そのあいだに何が起こったのかについては、周口店以外の中国各地の遺跡や、他地域の化石と合わせて総合的に考える必要があります。

周口店研究の意義と現在までの広がり

周口店は、20世紀の人類学・考古学にとって、いくつかの意味で画期的な場所でした。第一に、ここでの発掘は「系統的な科学調査」のモデルケースとなりました。地質学・古生物学・考古学・人類学など、多分野の研究者が協力し、層序(地層の順序)にもとづいて出土品を丁寧に記録し、年代や環境と結びつけて解釈する方法が採用されました。これは、単に骨や石器を集めるだけでなく、「時間と空間の中で人類を位置づける」近代的な調査スタイルを示したものでもあります。

第二に、周口店での北京原人の発見は、「人類の起源・進化」をめぐる国際的な議論に東アジアの視点を持ち込む役割を果たしました。かつてはヨーロッパやアフリカの化石が中心に語られていましたが、周口店の成果は「アジアにも独自の人類史がある」という認識を広げ、のちの中国各地の旧石器遺跡調査や、アジア全体の人類史研究の出発点ともなりました。

第三に、周口店は中国国内において、「科学」と「国家」「アイデンティティ」が交差する象徴的な場ともなりました。北京原人の発見は、「中国人のルーツ」や「中国の大地の古さ」を強調する言説と結びつけられ、博物館展示や教科書、一般向け出版物などを通じて広く知られるようになりました。同時に、戦争による化石標本の喪失や、その後の再発掘・復元の努力は、近代中国の苦難と再建の歴史とも重ね合わされて語られてきました。

現在も、周口店では発掘や再調査、保存整備が続けられており、新しい科学技術(年代測定法やDNA分析、ミクロな摩耗痕分析など)を用いた研究が進んでいます。北京原人や山頂洞人の骨格だけでなく、道具の使い方や食生活、環境変化への適応など、多方面からのアプローチが試みられています。また、世界遺産としての保存の観点から、観光客の受け入れと遺跡保護とのバランスをとる取り組みも行われています。

周口店という用語をたどると、一つの山の中に重なった人類と自然の歴史が見えてきます。北京原人の頑丈な頭骨、山頂洞人の埋葬や装身具、洞窟に堆積した動物の骨や石器、焼け跡をめぐる議論など、多くの要素が絡み合いながら、東アジアの旧石器時代像を形づくってきました。周口店は、教科書に一行で「北京原人の発見地」と書かれるだけでは収まりきらない、豊かな内容をもった遺跡群なのです。