ゲルク派(黄帽派) – 世界史用語集

ゲルク派(黄帽派、チベット語:dge lugs pa/ゲルクパ)は、14世紀末に宗祖ツォンカパ(1357–1419)が起こした仏教改革運動を淵源とし、厳格な戒律遵守と学僧教育、理論的な中観思想、体系だった修行論(「道次第」)を特色とするチベット仏教の一大宗派です。僧院大学(ガンデン・デプン・セラ)を中心に学問と修行の制度を整え、17世紀にはモンゴル勢力の後援を得てダライ・ラマを頂点とする政教体制(ガンデン・ポタン政権)を確立しました。黄色の儀礼帽を用いることから黄帽派と呼ばれ、旧来宗派(主にニンマ、カギュ、サキャなど「赤帽」の諸派)と区別されます。教義面ではツォンカパが展開した「帰謬論証派(プラサンギカ)中観」の解釈と、顕教・密教を段階的に統合する『菩提道次第大論』『密宗道次第大論』が中核にあります。政治史では、アルタン・ハーンとの結びつきから「ダライ・ラマ」称号が生まれ、5世ダライ・ラマの時代にチベットをほぼ統一、のち清朝との主従—施主関係(チョーヨン)や黄金の壺による転生認定など、ユーラシア規模の宗教—政治ネットワークの中心に立ちました。20世紀には中国のチベット併合と亡命、インド・欧米での再建を経て、現代の国際社会に広く影響を与える宗派として生き続けています。以下では、(1)成立と教義の骨格、(2)僧院大学と制度・実践、(3)政教関係とモンゴル・清朝との連関、(4)近現代の変容と世界展開を概説します。

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成立と教義の骨格:ツォンカパの改革と中観の再解釈

ゲルク派の起点は、アムド出身の学僧ツォンカパ(ロサン・ドラクパ)にあります。彼はサキャ派の学統を中心に広く諸派の教えを学び、文献釈・論理学・戒律・密教に通じました。ツォンカパは、当時のチベット仏教が抱える僧院規律の弛緩や、密教実践の恣意化、論理学の低調などを問題視し、戒律の厳守と体系的な学修、理詰めの思索による改革を提唱しました。彼の主著『菩提道次第大論(ラムリム・チェンモ)』は、初学から菩薩道の完成にいたるまでの道筋を段階的に配列し、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧を日常の実践と結びつけて説きます。密教については『密宗道次第大論(ンガク・リム・チェンモ)』で、灌頂・三昧耶戒・生起次第・究竟次第を倫理と認識論の枠内に位置づけ、顕教と密教の二重構造を整合的に説明しました。

思想の核は中観です。ツォンカパはナーガールジュナ—チャンドラキールティ系の帰謬論証派(プラサンギカ)を最高の立場とし、「自性の否定」を徹底して、空性(シューニャター)を他の実体に置き換えることなく、因果・倫理・修行の有効性と両立させました。認識論ではディグナーガ—ダルマキールティの因明を重視し、推理と反証(帰謬)を用いる学問法を確立します。こうした「理性的敬虔」は、神秘主義的体験に偏りがちな実践を批判し、論証・瞑想・戒律の三位を釣り合わせるゲルク派の学風を作りました。

ツォンカパは1409年、ラサでモンラム(大祈願祭)を主催し、信望を集める中でガンデン僧院を創建しました。彼の直弟子たちはセラ・デプンの僧院を相次いで開き、ガンデン三大寺の枠組みが整います。ツォンカパ自身は生涯を通じて厳格な持戒と教理の純化を強調し、化身ラマ制度(転生活仏)を自派の権威基盤とする方向には慎重でしたが、後代には学統の象徴として化身系譜が整えられていきます。

僧院大学と制度・実践:学制・論議・ゲシェ学位、黄色の帽

ゲルク派の拡大を支えたのが、大規模な僧院大学制度です。ラサ周辺のガンデン(宗祖の座所)、デプン(最大規模)、セラ(武具の比喩で論争の鋭さを象徴)に代表される僧院は、学院(語学・論理・中観・般若・戒律・阿毘達磨・密教などの科目)とカレッジ(末寺・地域系)で構成され、数千〜一万人規模の僧侶が学びました。教育の中心は「庭儀論議(ツォパ)」と呼ばれるディベートで、立論・反駁・再反駁をリズムと身振りで交わし、論理的一貫性と教義理解を鍛えます。最終到達点としてゲシェ学位(格西、四等級:ドルラム、ツォグラム等—諸体系あり)が授与され、頂点のラランパ・ゲシェは最高学匠の証とみなされました。

規律面では、ヴィナヤ(律蔵)に基づく戒律の厳守、僧侶の衣食住の規範、男女関係の禁忌、酒肉の扱いなどが明確化され、僧団の自治が機能しました。経済基盤は信徒の寄進、土地・農奴・牧畜・市集の収益、巡回法会や祈祷の布施によって支えられ、僧院は地域社会の教育・技術(暦算・医学・建築)・救済の拠点としても働きました。宗派の象徴である黄色の帽は、儀礼時に着用され、サキャやカギュなど「赤帽」諸派との視覚的区別となりました(ただし帽色は単純な教義差の標識ではなく、歴史的慣習の側面が強い点に留意が必要です)。

実践論では、段階的瞑想法(止観・四無量心・菩提心の育成)、グルへの信頼(師資相承)、曼荼羅供養、タンカ図像の観想、密教の灌頂と三昧耶の保持が体系化されました。ゲルク派は密教の「規範化」に長け、四部タントラ(事・行・瑜伽・最上瑜伽)のうちカラチャクラ・勝楽(サンヴァラ)・ヘーヴァジュラ等の伝授を重視しますが、顕教との整合性を常に確かめる姿勢を崩しませんでした。

政教関係と地域拡大:ダライ・ラマ制、モンゴル後援、清朝との交渉

ゲルク派の政治史上の転回点は、16世紀後半にモンゴルのアルタン・ハーンが高僧ソナム・ギャツォを招請し、「ダライ・ラマ(海のように広大な智慧の師)」の称号を贈ったことです。この称号は遡及的に1・2世にも適用され、以後ダライ・ラマは宗派と地域を超える宗教的権威の核となりました。モンゴル高原ではゲルク派が急速に広まり、内外モンゴル・青海(アムド)に大僧院が建設され、遊牧社会の祭祀・教育・司法を担うようになります。

17世紀、チベット内部では、ツァン地方を基盤とした諸勢力(カギュ系)との対立が激化しました。オイラト系のグシ・ハーン(ホシュート部)の軍事介入を受け、1650年代までにゲルク派が主導する政教体制が確立します。とりわけ5世ダライ・ラマ(ロサン・ギャツォ)は、ポタラ宮の建設に象徴される政治—宗教の統合を進め、ラサを宗都として整備しました。この体制はガンデン・ポタン政権と呼ばれ、僧院・地方貴族・遊牧勢力との権力分有の上に成り立ちました。対外的にはモンゴル諸部やブータン、ラダックとの関係調整、内政では税制・司法・僧俗秩序の統合が進みます。

清朝との関係は、互いを「施主—師(チョーヨン)」とする儀礼的関係に始まり、18世紀には軍事・内政への関与が強まりました。清はチベット・モンゴルの宗教権威を統治の資源とみなし、ラサに駐蔵大臣(アンバン)を置き、転生者の認定には「黄金の壺」による抽選を導入します。これに対し、チベット側は自律的選定を維持しようと駆け引きを続けました。ゲルク派内部では、ダライ・ラマとパンチェン・ラマ(タシルンポ寺の系譜)という二大転生系が精神的重心を分かち、学問・儀礼・地域の分担が形成されていきます。

教義論争も政治と絡みました。ゲルク派はジョナン派の「他空(シェントン)」思想を批判し、17世紀半ばにはジョナン派の一部寺院がゲルク派に編入されるなど宗派再編が行われています。こうした過程は、純粋な思想的対立というより、地域勢力と後援者の力学が絡んだ複合事象でした。

近現代の変容と世界展開:亡命・再建・グローバル化するゲルク派

20世紀半ば、中国のチベット進駐と1959年の蜂起を経て、14世ダライ・ラマはインドへ亡命し、多くの僧侶・俗人がダラムサラ周辺に拠点を築きました。かつての三大寺は、インド南部カルナータカ州(ムンドゴッドのガンデン、メユールのデプン・セラなど)に大規模再建され、ゲシェ学位制度と論議の文化が移植されます。難民社会は学校・医療・工芸・農業の再建に取り組み、チベット仏教は英語等で紹介され、欧米・日本・東南アジアに僧院・ダルマセンターが設立されました。ゲルク派の高僧たちは、瞑想と倫理、慈悲と非暴力、相互依存の思想をもって国際的な対話に参加し、宗教間交流や科学者との対話(心の科学)も進展しました。

中国国内のチベット・青海・四川・甘粛では、文化大革命期の破壊を経て、改革開放以後に寺院の再建と宗教活動の部分的復活が進みましたが、宗教管理・転生認定・教育・言語政策などをめぐる緊張が続いています。パンチェン・ラマ認定問題や、僧院の経済・観光化、若年層の都市流出など、新たな課題も現れました。モンゴル国やブリヤート・カルムイク(ロシア連邦)でも、ソ連期の抑圧後にゲルク派が復興し、ダツァン(僧院)と教育が再興されています。

現代のゲルク派は、伝統的学修と現代社会の要求とのバランスを探ります。環境倫理(山・湖の神聖視を近代的保全に接続する試み)、難民・教育・医療・女性の修行機会の拡充(比丘尼戒をめぐる国際的議論)、デジタル化(写本の保存・オンライン法話)、世俗学問との対話(神経科学・心理学との共同研究)などは、宗派の古典的資源が現代的課題に応答する実例です。学統面では、ツォンカパ生誕六百年を期した文献校訂や論争史の再評価が進み、過度な教派主義に陥らない相互理解も促進されています。

総じて、ゲルク派は「規範化された学問と修行」を梃子に、地域社会の統治・教育・文化形成に深く関わってきました。黄帽の視覚的シンボルの背後には、論理・戒律・慈悲を結ぶ一貫した設計思想があり、それがモンゴル草原からラサ、そして地球規模のディアスポラへと伸びるネットワークの持続力になっています。宗派史を学ぶことは、宗教が知と力、共同体と個人の修行をどのように束ね、時代ごとの政治経済と折り合いをつけてきたかを具体的に理解する助けになります。ゲルク派の歩みは、その代表的なケーススタディなのです。