ケルト人 – 世界史用語集

ケルト人とは、古代ヨーロッパで広く分布した「ケルト語を話す人々」と、その文化を担った集団を指す総称です。ギリシア人はケルトイ、ローマ人はガッリ(ガリア人)と呼びました。鉄器時代の中央ヨーロッパを中心に、アルプス以北からイベリア・ガリア・ブリテン・アイルランド、さらに一時は北イタリアやバルカン半島、小アジア(ガラティア)にまで広がりました。共通の政治的統一国家があったわけではなく、多数の部族・首長制社会が、言語と宗教観、武具や工芸、法慣習などの共通要素でゆるやかに結びついていました。考古学ではハルシュタット文化(前8〜前5世紀)とラ・テーヌ文化(前5〜前1世紀)がケルト文化の代表層とされ、渦巻文様やS字曲線の金属工芸、丘の上の城塞(ヒルフォート)、環状の大集落(オッピドゥム)などが特徴です。ローマの拡大やゲルマン世界の移動により大陸のケルト語は多くが消えましたが、ブリテン島・アイルランド島では中世以降も言語と伝統が受け継がれ、今日ではアイルランド語・スコットランド・ゲール語・マン島語・ウェールズ語・コーンウォール語・ブルトン語として生き続けています。本稿では、起源と拡大、社会・宗教・文化、ローマ・ゲルマンとの接触、そして中世以降の継承と現代の意味を整理します。

スポンサーリンク

起源と拡大:ハルシュタットからラ・テーヌへ、ヨーロッパの広域展開

ケルト人の祖形は、前8世紀頃の中欧アルプス周辺に展開したハルシュタット文化に求められます。塩鉱山で知られるハルシュタット(オーストリア)を中心に、豊かな塩交易・鉄器の普及・戦士貴族の墳墓(車輪付の戦車や豪華副葬品を伴う「塚」)が広がりました。前5世紀頃になると、ライン上流のヌーシャテル湖畔ラ・テーヌ遺跡を典型とするラ・テーヌ文化が中核となり、曲線的で流動感のある金属装飾、トルク(頸輪)や長剣、楕円盾、銀・金の貨幣が普及します。交易は地中海世界と密接につながり、ギリシアやエトルリアからのワインが大型のアンフォラで北上し、琥珀・毛皮・塩・金属・奴隷が南へ動きました。

拡大は波状的でした。前4世紀にはポー川流域のキサルピナ・ガリア(北イタリア)に進出し、前390年頃にはブレンヌス率いるケルト軍がローマを占領した出来事が記録に残ります。東方ではドナウを遡上してバルカンに至り、前3世紀には小アジア中部にガラティア人として定着しました。西ではイベリア半島にケルト=イベリア文化が形成され、ケルティベリア人が独自の文字体系も用いました。北西フランスからブリテン島へは古くから交流があり、やがて島内にブリトン系ケルト語が広がります。これらは中央の統一命令ではなく、部族間連合・遠隔交易・傭兵活動・人口圧の複合によって生じた動きでした。

都市的中心として知られるのがオッピドゥム(環濠と木・土・石の複合城壁をもつ高台大集落)です。ガリアではビブラクテ、ゲルマニア境界ではマンヒングなどが有名で、工房・市場・祭祀空間・貯蔵施設を備え、地域交換の拠点となりました。政治は王や首長(レクス、プリンケプス)と貴族集団の合議で動き、戦時には軍事指導者が台頭しました。部族名は多様で、アエドゥイ、アルウェルニ、ヘルウェティイ、アルモリカ沿岸のヴェネティイ、ブリテンのカトゥウェラウニなど、地名・民族名として現在も残るものが少なくありません。

社会・宗教・文化:戦士貴族とクライアント、ドルイド、法と物語

ケルト社会は、戦士貴族と自由民、従属的な客分(クライアント)、奴隷などが重層的に連なった構造でした。家畜(とりわけ牛)が富の尺度と交換の媒体として重視され、牧畜と耕作を組み合わせ、共同体の名誉と饗宴が社会関係を支えました。貴族は饗宴で大杯の酒を分かち、贈与交換で支持者をつなぎ止めました。武器は長剣と槍、楕円盾、地域によっては二輪の戦車(チャリオット)も用いられました。鎖帷子(チェーンメイル)はケルト起源とされる説が有力で、鉄器加工の技術が高かったことを示唆します。

宗教面では、神々は自然や場所に結びつき、多神的で地域差が大きかったです。泉・森・川・丘に聖性が宿るとされ、供物の沈め置き(池や川への奉納)、首級崇拝と英雄信仰、収穫祭やサウィン(冬の入り)などの季節儀礼が行われました。祭祀と学知の担い手がドルイド(Druides)で、司祭・法学者・占術家・教育者として記憶による伝承を独占し、文字による記録を避けたと古典史料は伝えます。ローマ支配下ではドルイド弾圧が行われ、特にアングルシー島の僧院破壊が象徴的事件として記されました。

法と慣習は口頭伝承が基本でしたが、島嶼ケルトでは後世に法文や物語として記録されます。アイルランドのブレホン法は親族・財産・契約・名誉に関する精緻な規則を含み、罰金や補償の体系で社会秩序を保ちました。文学では、アイルランドの「アルスター物語群」に収められた『牛捕り物語(タイン・ボー・クーリュ)』や英雄クー・フーリンの伝承、ウェールズの『マビノギオン』などが有名です。器物文化は、渦巻・蔓草・動物を抽象化したラ・テーヌ様式の金属工芸に頂点があり、トルク(頸輪)・留金・ミラー・装飾鞘などが美術史で高く評価されています。言語はインド・ヨーロッパ語族に属し、大陸ケルト(ガリア語・ケルティベリア語・レポンティックなど)と、島嶼ケルトに大別され、後者はブリトン系(ウェールズ語・コーンウォール語・ブルトン語)とゲール系(アイルランド語・スコットランド・ゲール語・マン島語)に分かれます。

ローマとゲルマンの時代:征服・ローマ化・抵抗・変容

前1世紀、ローマはカエサルのガリア遠征(前58〜前51)でセネ・エ・ロワールのビブラクテ会戦、アレシア包囲戦などを経てガリアを併合しました。ガリアは属州化され、道路網・都市制度(フォルム、浴場、円形劇場)・ローマ市民権・ラテン語が浸透していきます。大陸ケルト語は次第に衰えましたが、地方神とローマ神の同定(メルクリウス=ルーグ等)、ガロ=ローマ文化の形成、ワインと陶器、貨幣経済の定着によって、新たな混交世界が生まれました。ブリテン島南部はクラウディウス帝(43年)以降に属州化され、街道・都市(ロンドニウム、ヴェルラミウム)が整備されます。60/61年の女王ブーディカの蜂起はローマ支配への大規模抵抗として知られますが、最終的に鎮圧され、ローマ化は都市部と軍営周辺で進行しました。

アイルランドはローマの直接支配を受けませんでしたが、交易と軍事的交流を通じてローマ世界と結びつきました。キリスト教は5世紀頃に定着し、聖パトリックの宣教伝説で知られます。ブリテンでは、4世紀末のローマ撤兵後、アングル人・サクソン人らゲルマン系が東部から進出し、ブリトン人は西部・ウェールズ・コーンウォールや海を越えてアルモリカ(のちのブルターニュ)に移住しました。この人口移動が、ケルト語の地理分布を現在に近い形に再編します。

ローマ支配が崩れた西ヨーロッパでは、ゲルマン諸王国のもとでガロ=ローマ文化と在地伝統が重層化しました。ガリア北部のフランク王国はラテン語・ロマンス語を主とする文化圏を形成し、ケルト語はフランス本土ではほぼ消滅しましたが、5〜6世紀以降にブリテンから移住した人びとによってアルモリカにブルトン語が根づきます。ブリテン島ではウェールズ・コーンウォール・ストラスクライドなどのブリトン系政権が存続し、アイルランド・スコットランドではゲール系王国が展開しました。修道院は写本文化の中心となり、オガム文字碑文、インスラ=アート(島嶼写本美術)、ケルト十字など、独自のキリスト教文化が花開きます。

中世以降の継承と現代:言語の生存、リバイバル、アイデンティティ

中世末から近世、ブリテン島とアイルランドではイングランド政権の拡張と一体化政策が強まり、ケルト語の領域は徐々に縮小しました。ウェールズは13世紀末に併合され、法と行政の英語化が進みます。スコットランドではゲール語の地位が低下し、低地スコットランド(スコッツ語)と英語の影響が拡大しました。アイルランドはイングランド支配と入植、宗教対立、飢饉と移民を経て激しく動揺し、ゲール語は19世紀に急速な衰退を経験します。一方、ブルターニュとコーンウォールでも近代国家の形成とともにブルトン語・コーンウォール語は圧迫を受けました。とはいえ、言語と音楽、舞踊、伝承は断絶せず、地域共同体の粘り強い努力が続きました。

19世紀以降、民族学・考古学の発達とロマン主義の影響で、ケルト文化は再評価されます。ウェールズのエイステズヴォッド(詩人祭)、アイルランドのゲール語運動と独立運動の連動、ブルターニュのブレイス文化協会、スコットランドのハイランド文化復興など、各地でケルト・リバイバルが起こりました。音楽ではケルト・ハープ、バグパイプ、フィドル、ダンス(アイリッシュダンス)が世界的に知られるようになり、文学・絵画・工芸も近代的意匠の中で古代モチーフを再解釈しました。20世紀後半にはケルト民族主義も政治運動として現れ、スコットランド・ウェールズの権限委譲、アイルランド語の公的地位回復、ブルターニュ語教育の拡大など、制度面の変化も生まれています。

現代言語の状況は地域によって差があります。アイルランド語は共和国の第一公用語として学校教育と放送で支えられ、スコットランド・ゲール語も自治政府の政策で標識やメディアに存在感を持ちます。ウェールズ語は20世紀後半の運動で復権し、二言語教育や公共表示が一般化しました。マン島語は一時断絶したものの再生運動で日常使用が戻りつつあります。コーンウォール語も復活運動が進み、ブルトン語は厳しい状況ながらイマージョン・スクール(ディワン)などで継承の努力が続きます。研究面では、考古学・言語学・遺伝学が交差し、「ケルト」を単一民族ではなく言語文化圏として捉える視点が主流です。遺伝子に基づく「ケルト人の血」といった単純化は学術的には支持されず、地域ごとの長い混合の歴史を前提に、言語・物質文化・自己認識の重なりを検討する姿勢が重んじられています。

ケルト人という言葉は、古代の戦士と金属工芸、ドルイドの神秘にとどまりません。ヨーロッパの周辺と中心を往復しながら、交易・征服・信仰・芸術・法の実践を通じて各地域の歴史を形づくった「語りの枠」です。大陸で消えた言語もあれば、島嶼で生き延び、現代文化に新しい表現を与えたものもあります。丘の上の城塞、渦巻く金属文様、石に刻まれたオガム、修道院の写本、ハープとフィドルの調べ——それらはケルトという名の下に束ねられた多様性の記憶です。ケルト人を学ぶことは、ヨーロッパの古層にある多言語・多文化の世界を見通し、国民国家以前の広域的なつながりと現代の地域アイデンティティの源泉を理解する助けになるのです。