アワド王国 – 世界史用語集

アワド王国(Awadh/Oudh)は、ガンジス川中流域の肥沃な上ガンジス平原に広がる歴史的地域を基盤に、18世紀前半から19世紀半ばまで北インドで強大な影響力を持ったイスラーム政権です。ムガル帝国末期の権威低下を背景に、1722年にナワーブ(太守)に任命されたサアーダト・ハーンが実権を掌握して半独立化し、のちのサフダル・ジャング、シュジャーウッダウラ、アーサフッダウラらの代にかけて、税収と軍事力を武器に北インド政治の一角を占めました。首都ルックナウは19世紀に入るとウルドゥー文芸・音楽・舞踊・建築の花開く都となり、〈ナワービー文化〉の代名詞となります。他方で、英東インド会社との従属的同盟、土地制度の硬直、財政と治安の歪みは、19世紀中葉の併合(1856)と翌年の大反乱(1857)で一挙に噴出しました。アワドの歴史は、ムガル的秩序の解体と植民地秩序の成立、その狭間で発達した都市文化の光と影を考える上で不可欠です。

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地理と成立:ムガル末期の自立化、太守政権の誕生

アワドは、現ウッタル・プラデーシュ州中部から東部にかけてのガンジス—ゴームティ川流域に位置し、ベナレス(ヴァーラーナシー)やアラーハーバード(プラヤーグラージ)といった宗教・交易都市、そして農業に適した沖積平野を擁する要衝です。ムガル帝国の州(スバー)としてはオウド(Oudh)の名で知られ、州財政と徴兵を担う太守(ナワーブ)が派遣されていました。18世紀に入り、ナーディル・シャーの侵入(1739)やマラーターの台頭で中央の軍事財政が崩れると、地方太守が自立化の機会を得ます。

1722年、ムガル皇帝ムハンマド・シャーは、アフシャール系の武人サアーダト・ハーンをアワド太守に任じました。彼は徴税と軍備の掌握、在地大地主(タールクダール)の統合、周辺小政権との通婚・同盟を通じて権力基盤を固め、以後は事実上の世襲体制を築きます。後継のサフダル・ジャング(在職1739–1754)はデリーの宰相を兼ね、マラーター勢力と抗争しながら北インド政治の仲介者として影響力を振るいました。太守政権はムガル体制の様式(ペルシア語行政・イスラーム法廷)を受け継ぎつつ、歳入増大のための土地測量・徴税請負を拡大し、同時にシーア派宗教儀礼(ムハッラム行列・イマームバラー建設)に庇護を与えて、権威の宗教的側面をも強化しました。

ナワーブ政権の展開と英東インド会社:ブクサールから首都ルックナウへ

18世紀半ば、アワドは英東インド会社の拡張と真正面から向き合うことになります。サフダル・ジャングの後継シュジャーウッダウラ(在職1754–1775)は、ベンガルの藩王と手を組み、会社軍と対峙しましたが、ブクサールの戦い(1764)で敗北しました。続くアラーハーバード条約(1765)で英公司はベンガル・ビハール・オリッサの徴税権(ディーワーニー)を獲得し、アワドは賠償と領土調整を強いられます。ただしアワド自体は緩衝地帯として存続し、シュジャーウッダウラは会社と結んでロヒラー戦争(1774)を遂行、ローヒルカンド支配をめぐる介入で影響力を保とうとしました。

文化面では、彼の子アーサフッダウラ(在職1775–1797)が首都をファイザーバードからルックナウへ移転し、巨大なバラ・イマームバラー(1784)やルーミー門などのモニュメント建設、ウルドゥー詩歌・音楽・舞踊(カタック)の庇護で都を輝かせました。都市ルックナウは、ペルシア語官僚文化とヒンドゥー職能集団の協働、シーア派儀礼とヒンドゥー祭礼の共存、料理・衣装・礼法(アダブ)の洗練といった〈ナワービー文化〉の中心として発展します。一方で、宮廷支出の膨張は財政の脆弱化を招き、歳入確保のための請負(イジャーラ)やタールクダールへの依存が高まり、村落社会への圧迫と治安悪化を伴いました。

19世紀に入ると、会社の総督ウェルズリーの対印戦略(補助同盟)の下で、アワドは強制的に軍事・外交の自由を制限されます。1801年の協定で、ナワーブサアーダト・アリー・ハーン2世は広大な領域(ローヒルカンドやアッラーハーバード周辺など)を英側に割譲する代わりに、駐留軍の維持費負担を免除されました。これによりアワドは領土・歳入基盤を大きく失い、英公司の「保護国」の性格を強めます。さらに1819年、ナワーブガーズィー・ウッディーン・ハイダルは英国の承認で「アワドの王(Shah)」の称号を採用し、王国としての格式を得る一方、実質的には会社の承認を要する従属君主となりました。

併合と反発:1856年の失政口実、ワージド・アリー・シャーの退位と1857年蜂起

19世紀中葉、英東インド会社はダルフージー総督の強硬策で版図拡大を進め、〈継嗣の不在〉を理由とするラプスの権利を各地で適用しました。もっとも、アワド併合の名目は「失政(misgovernment)」でした。会社は、土地行政の混乱・治安の悪化・宮廷浪費を理由に統治権の接収を宣言し、1856年、最後の王ワージド・アリー・シャーを退位させ、アワドを直轄地に編入しました。ワージド・アリー・シャーは文化の庇護者として名高く、詩歌・音楽・舞踊・演劇(ラース・リーラーの近代化)に深い関心を示しましたが、政治の実務は宰相層に委ね、会社の批判をかわしきれませんでした。

併合は社会の中間層と在地権力に広範な動揺を生みました。まず、古くからの土地支配者タールクダールの権利が新行政の下で再査定され、没収・課税強化・裁判の煩雑化が進みます。王国軍の解体により、退役兵と徒弟的な従者層が職を失い、都市・農村の不満が積み上がります。翌1857年のインド大反乱では、アワドは最大級の戦場となりました。ルックナウでは、王妃ベーグム・ハズラト・マハルが幼王ビルジース・カドルを擁立して抵抗の旗を掲げ、宗教指導者アフマドゥッラー・シャーらが農村と都市を結集しました。英側のルックナウ・レジデンシー包囲戦は長期化し、ヘイヴロックやアウトラム、最終的にキャンベルの部隊が救援に赴くまで苛烈な攻防が続きました。

反乱鎮圧後、会社は王国を復活させず、イギリス直轄の統治を継続します。皮肉にも、反乱の過程で英側はタールクダールの軍事動員能力と地域支配の実効性を再認識し、1860年代以降は彼らを土地制度の柱として再編・保護する方向へと転じました。これは、植民地国家が在地エリートを媒介に統治を安定化させる典型例であり、アワドの社会構造に長期の影響を残しました。

都市文化と遺産、歴史的意義:ルックナウの光と影、学習の要点

アワドの遺産は、政治史の起伏を超えて豊かです。首都ルックナウは、ウルドゥー詩(ミール、ミルザー・ガーリブの交遊圏)、音楽(トゥムリ、ガザル)、舞踊(カタックのルックナウ流派)、料理(ケバーブ、ビリヤーニー、ニハーリー等)、衣装(チカン刺繍)の中心地として、〈気品(アダブ)と優雅(ナザーカト)〉で象徴される宮廷文化を育みました。宗教的にはシーア派の儀礼空間イマームバラーが都市景観を特徴づけ、ムハッラムの行列は地域共同体の時間を刻みました。建築ではバラ・イマームバラーの迷宮(バウリヤ)、ルーミー門、シャー宮殿群が物質文化の高さを物語ります。

一方で、その華やかさは歳入と治安の歪みと表裏一体でした。請負的税制とタールクダール依存は、富の偏在と村落圧迫を強め、19世紀の併合前夜には治安悪化(匪賊・私兵抗争)を招きました。英側はこれを「失政」の証左として宣伝し、併合を正当化しましたが、その解決策もまた在地権力の再活性化という旧来手段に回帰したことは、前近代と植民地近代の連続性を示しています。

歴史的意義として、①ムガル的地方秩序が自立化しつつ国際圧力に包囲される過程、②補助同盟と領土割譲による〈保護国化〉、③「失政」口実の併合と1857年反乱の震源としての役割、④在地エリート(タールクダール)と都市文化が近代インドの社会構造に残した長い影、が挙げられます。学習の骨組みは、1722太守就任→1764ブクサール→1765アラーハーバード条約→1775ルックナウ遷都→1801補助同盟→1819王号採用→1856併合→1857反乱という年表に、人物(サアーダト・ハーン/サフダル・ジャング/シュジャーウッダウラ/アーサフッダウラ/ワージド・アリー・シャー/ハズラト・マハル)、用語(タールクダール/イマームバラー/補助同盟/失政口実/レジデンシー包囲)を結びつけることです。

総括すれば、アワド王国は、ムガル帝国の末裔としての権威、英東インド会社の拡張の狭間、そして都市文化の創造の場という三つの顔を持っていました。ルックナウの華は、征服と併合、抵抗と妥協という政治経済の激流のなかから咲き、インド近代の多面性を今に伝えています。王国の盛衰を学ぶことは、〈帝国の解体と植民地の成立〉という世界史的主題を、具体的な地名・人物・制度・文化のレベルで立体的に理解することにつながります。