アンカラはトルコ共和国の首都であり、中央アナトリア高原に位置する内陸都市です。海上貿易の歴史を担ったイスタンブルに対して、アンカラは行政・立法・司法の中枢を集約し、近代国家としてのトルコを象徴する計画都市として発展してきました。乾燥した高原性気候のもとで碁盤目状の幹線道路が延び、官庁街と大学、研究機関が密集する景観は、共和国の合理主義と世俗的市民文化の体現でもあります。古代には「アンキュラ(Ancyra)」として知られ、ローマ皇帝アウグストゥスの事績碑文が刻まれた神殿遺構が残ります。オスマン期には「アンゴラ」と称され、山羊毛(モヘア)やアンゴラ猫・兎で名を馳せました。20世紀の独立戦争と共和国成立を経て、1923年に首都となってからの都市建設は、戦間期のモダニズムと国家形成の実験場でもありました。
位置・地理・都市像:高原の首都と行政機能の集積
アンカラは黒海と地中海の中間に広がる中央アナトリア高原の北寄りに位置し、標高はおおむね900メートル前後です。気候は夏季が高温・乾燥、冬季は寒冷で降雪も見られる内陸性で、年間を通じて日較差が大きいのが特徴です。地勢的には東西南北の交通を束ねる結節点となり、共和国期には鉄道・幹線道路・空路が計画的に整備されました。都市核は古城(ヒサル)を戴くウルス(旧市街)と、計画的に拡張したクズライやチャンカヤ(官庁街)を中心とする新市街から成り、国会議事堂や各省庁、最高裁判所、各国大使館が集中します。
都市の象徴として、ムスタファ・ケマル・アタテュルクの廟所アヌトゥカビル(Anıtkabir)が丘上にそびえ、市街の多くの地点から視認できます。中心業務地区のクズライ広場、外交団が集まるチャンカヤの大使館街、旧市街ウルスの青銅器時代からローマ遺跡に至る断層、これらが同一の都市図の上で重なり合うことが、アンカラの「近代の首都」と「古代の都」という二重の顔を際立たせます。人口は共和国の成長に伴って急増し、地方からの移住により周縁部には非公式住宅(ゲジェコンデ)が広がりましたが、後年には区画整理とインフラ拡充を通じて段階的に正規市街地化が進みました。
古代からオスマンへ:アンキュラ(Ancyra)とアンゴラの名、交易と宗教の層
アンカラの起源は、フリュギアやガラティア(ケルト系移住民)の時代にさかのぼります。ローマ支配下ではガラティア属州の州都アンキュラとして位置づけられ、皇帝アウグストゥスの政治的自叙伝「Res Gestae Divi Augusti」の碑文が刻まれたアウグストゥス神殿が建てられました。この碑文は、ローマ史研究において第一級の史料とみなされ、都市の古代的位相を今に伝えます。ビザンツ期にはキリスト教都市として司教座が置かれ、周辺の要路を押さえる軍事拠点でもありました。
アナトリアに進出したセルジューク朝とベイリク(地方政権)の時代を経て、アンカラはオスマン帝国に編入され、アナトリアの内陸交易を支える地方中心都市として発達します。特にアンゴラ山羊の良質な毛(モヘア)は欧州で高く評価され、紡織業と交易商人を潤しました。西欧語の「Angora」は、モヘアだけでなく長毛の猫や兎(アンゴラ猫・アンゴラ兎)を指す語としても定着し、都市名が産品の代名詞となった好例です。オスマン期のアンカラは行政上の県都(サンジャク)で、隊商路の宿駅、農産物の集散地として機能し、19世紀には鉄道が接続されて帝国の物流網に組み込まれていきました。
共和国の首都化:独立戦争、遷都、計画都市としての展開
第一次世界大戦とオスマン帝国の敗北後、占領下のイスタンブルに対して、内陸のアンカラはトルコ民族運動の拠点になりました。1920年、アンカラに大国民議会(TBMM)が開設され、ムスタファ・ケマル(アタテュルク)率いる国民軍はアンカラを司令基地としてギリシア軍などに抗戦します。独立戦争の勝利とローザンヌ条約(1923)を経て、同年、共和国はアンカラを首都に決定しました。選定理由には、地理的中立性と安全保障、中央集権的行政の構築、旧都に象徴される帝国的・宗教的権威からの距離の確保などが挙げられます。
首都化にあたっては、旧市街ウルスに暫定的な官庁群が置かれ、その南の高台に新行政軸が計画されました。1930年代にはドイツの都市計画家ヘルマン・ヤンゼンによるマスタープランが採用され、緑地帯と放射環状道路、行政・教育・住宅のゾーニング、歩道の確保と広場の配置など、当時のモダニズム都市計画の理念が注入されました。各省庁舎、国会議事堂(のち新議事堂に移転)、国立劇場・博物館群の建設が進み、行政都市としての骨格が形成されます。
戦後には、国民的記憶の核としてアヌトゥカビルが1953年に落成し、アタテュルクの霊廟として都市景観に強い象徴性を与えました。冷戦期を通じてアンカラは政治と官僚制の中心であり続け、1960年、1971年、1980年の軍事介入や、近年の政変の緊張もこの都市を舞台に展開しました。国会議事堂や官庁街は、近代トルコの政治史を映し出す具体的な場所であり、同時に民主主義と世俗主義の揺れ動きを刻む記憶装置でもあります。
現代の機能・文化・交通:大学・博物館・防衛産業、首都の日常と学習の要点
現在のアンカラは、政府・司法・外交の中枢であると同時に、学術・研究とハイテク産業の集積地でもあります。大学はアンカラ大学、中東工科大学(METU/ODTÜ)、ハジェテペ大学、ビルケント大学、ガーズィ大学などの名門校が並び、工学・医療・社会科学の研究が盛んです。産業面では、防衛電子や航空宇宙などの戦略分野の企業・研究機関が立地し、官需と技術者供給の循環が首都圏経済を支えます。官公庁、法律・会計・コンサルティング、出版・シンクタンクも密集し、知識集約型の都市機能が目立ちます。
文化資源としては、アナトリア文明の考古資料を体系的に展示するアナトリア文明博物館、トルコ民族誌を紹介する民族学博物館、共和国期の美術を収蔵する美術館群があり、旧市街の城郭(アンカラ城)からは赤茶色の屋根が重なる市街を一望できます。近代的なアタクレ(Atakule)の展望塔、公園や緑地、劇場・コンサートホールは、市民生活の余暇空間として機能します。食文化では、シンプルで滋味深いアンカラ・タヴァ(米と肉の土鍋料理)、街角のスミット、カフェ文化が日常を彩ります。
交通は、首都空港(エセンボーア国際空港)から国内外へ路線が伸び、都市内では地下鉄(メトロ、ライトメトロのアンカライ)とバス網が幹線を担います。鉄道では高速鉄道(YHT)が整備され、アンカラからエスキシェヒル経由でイスタンブル方面、南方のコンヤ方面などと結ばれ、内陸首都の距離感を縮めました。環状道路と放射道路は通勤交通の軸ですが、人口増と自動車依存の拡大は渋滞や大気環境の課題を生み、公共交通の増強と都市再開発の調整が求められています。
都市社会の課題としては、周縁部での住宅供給と防災、歴史地区の保全と再生、移住による多様性の包摂、教育・研究と産業の連携強化などが挙げられます。近代的官庁街と旧市街の伝統的市(バザール)、大学キャンパスと新興のオフィス街が互いに接続し、市民の移動・交流を支える歩行者空間や公共空間の質の向上が、首都の成熟度を左右します。
学習の要点をまとめると、①地理—中央アナトリア高原の内陸首都であること、②古代—ガラティア属州の州都アンキュラとアウグストゥス神殿の碑文、③オスマン—アンゴラ産品(モヘア)と地方中枢、④共和国—1920年国民議会開設・1923年首都決定・ヤンゼン都市計画・アヌトゥカビル、⑤現代—大学群と博物館、防衛産業、YHTとエセンボーア空港、の五点です。名称の注意として、古代名「アンキュラ(Ancyra)」、オスマン期の欧文「Angora」、現代トルコ語「Ankara」はいずれも同一都市を指し、文脈で使い分けられてきました。これらを押さえることで、アンカラを単なる行政首都ではなく、古代から現代に連なる層序をもつ都市として理解できるようになります。

