新ユーゴスラビア連邦成立とは、第二次世界大戦のさなかから終戦直後にかけて、バルカン半島の「ユーゴスラビア」が王国(君主制)から社会主義的な連邦国家へと作り替えられ、1945年に新しい国家体制として発足した一連の過程を指します。中心人物はパルチザン(武装抵抗運動)を率いたヨシップ・ブロズ・ティトーで、彼らは占領者と戦いながら国内の政治的主導権を握り、戦後は複数の民族・地域をまとめる「連邦」という形で国家を再編しました。
もともと第一次世界大戦後に成立した「ユーゴスラビア(セルブ=クロアート=スロヴェーン王国、のちユーゴスラビア王国)」は、セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人など多民族を一つの国にまとめた国家でした。しかし、政治の主導権がセルビア系に偏りやすいことや、地域・宗教・歴史の違いが大きいことから、国内には不満と対立が積み重なっていました。第二次世界大戦で枢軸国が侵攻すると、国は分断され、傀儡政権や占領統治が広がり、民族対立も戦争の形で激化します。その混乱の中で勢力を伸ばしたのが、共産党を核とするティトーのパルチザンでした。
新しい連邦の成立は、単に「終戦後に新政府ができた」というだけではありません。戦時中に抵抗運動の指導部が臨時の代表機関を作り、王国政府(亡命政府)に代わる正統性を主張し、さらに英米ソの思惑が絡む外交交渉の中で、王政の存続問題や政権の形が決められていきました。1945年に王政が廃止され、国名も変わり、連邦共和国として再出発することで、ユーゴスラビアは戦前とは別の国家へと姿を変えます。これが「新ユーゴスラビア連邦成立」と呼ばれる出来事の骨格です。
前史:戦間期ユーゴスラビアの矛盾と崩壊
新ユーゴスラビアを理解するには、戦前の王国が抱えた問題を押さえるのが近道です。第一次世界大戦後、旧オーストリア=ハンガリー帝国領などの南スラヴ系地域とセルビア王国が合体し、1918年に新国家が成立しました。国は多民族で、言語や宗教、歴史経験も地域によって異なります。たとえばクロアチアやスロヴェニアは中欧的な行政・経済の経験を持ち、セルビアはバルカン的な国家形成の歴史を背景にしていました。こうした違いが政治制度の運用に影響しやすい状況でした。
王国の政治は、中央集権を強めて統一を図ろうとする力と、地方自治や民族的平等を求める力がぶつかりやすくなります。とくにセルビア系が軍や官僚機構で優位になりやすいことは、他の民族から「一国の中の不平等」として受け止められました。1929年には国王アレクサンダルが議会政治を停止し独裁的な統治へ進むなど、政治的緊張はむしろ高まります。
こうした不安定さの上に第二次世界大戦が重なりました。1941年、枢軸国がユーゴスラビアに侵攻すると、国家は短期間で崩れ、領土は分割され、各地に占領行政や傀儡政権が置かれます。とりわけクロアチア地域には「独立国」を名乗る傀儡国家が生まれ、国内の暴力は「占領への抵抗」だけでなく「民族間の報復と恐怖」を伴いながら拡大します。戦前からの政治的不信が、戦時の分断と暴力によって極端な形で噴き出したのです。
戦時の主導権争い:パルチザンと臨時国家機構の形成
占領下のユーゴスラビアでは、複数の抵抗勢力が存在しました。代表的なのが、共産党主導のパルチザン(ティトーの勢力)と、王党派に近いチェトニク(主にセルビア系の武装集団)です。両者は占領者への対応や戦略、政治目標が異なり、協力よりも対立が強まる局面も多くなりました。結果として、抵抗運動は「対占領戦」と同時に「国内の政治・軍事の主導権争い」も含むものになります。
パルチザンが強みを持ったのは、占領に対する武装抵抗を継続しつつ、多民族国家としての再建像を早い段階で打ち出した点です。つまり「どの民族が上に立つか」ではなく、「複数の民族・地域が連邦として共存する」という枠組みを掲げ、戦時の統治や動員を通じて支持基盤を広げました。戦争が長引き、占領支配が過酷になるほど、実際に戦う組織が政治的正統性を得やすくなり、パルチザンはその条件を満たしていきます。
その政治的な転機として重要なのが、反ファシスト人民解放委員会(通称AVNOJ)の動きです。パルチザン側は、抵抗運動の代表機関としてAVNOJを組織し、戦争指導だけでなく、戦後国家の枠組みを決める場として機能させます。とくに1943年の会議(ヤイツェで開かれた第2回会議)は、戦後体制の方向を明確にした出来事として知られます。ここでパルチザン側は、王国亡命政府とは別の政治的中心を持つことを宣言し、連邦制の構想や新しい政府機構の骨格を示しました。
同時に国際政治も動きます。英米など連合国は当初、王国亡命政府やチェトニクを重視する面がありましたが、戦況の推移と現地での実効性を踏まえ、次第にパルチザン支援へ傾きます。こうしてパルチザンは国内の実力と対外的な承認を同時に強め、戦後の政権形成に向けた道を固めていきました。
1945年の転換:王政の終結と連邦国家の発足
戦争末期から終戦直後にかけて、新ユーゴスラビア成立へ向かう最後の段階が進みます。重要なのは、パルチザン側と亡命政府側の間で行われた政治的な取り決めです。戦時下で国外にいた王国政府は、国の正統政府を自任し続けましたが、国内で実効支配を拡大するパルチザンを無視できなくなります。両者の間で連立や妥協が模索され、ティトーと亡命政府側の代表者の合意を通じて、戦後の暫定政府が組織される方向が示されました。
その上で1945年、国の体制は決定的に変わります。選挙と議会の手続きを経て、王政が廃止され、国家は共和国として再編されます。国名は「ユーゴスラビア連邦人民共和国」(のちの呼称変更を含む)へと移り、戦前の王国とは別の政治体制が公式に出発しました。ここで「連邦」という形式が選ばれたことは、単なる行政区分ではなく、民族・地域の多様性を国家の枠内に組み込む意図を伴っていました。
新体制の連邦は、複数の構成共和国からなる形で設計されます。一般に、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアが構成要素とされ、さらにセルビア内部には自治地域(たとえばヴォイヴォディナ、コソヴォなど)が置かれていきます。こうした枠組みは、戦前に蓄積した「支配の偏りへの不満」を制度上緩和しようとする狙いを持ちつつ、同時に中央の統合力をどう維持するかという新しい難題も抱えることになります。
1946年には新憲法が制定され、連邦の制度と国家運営の原理が整えられていきます。戦後復興の中で国有化や計画的な経済運営が進み、政治面では共産党(のちの名称変更を含む)が中心的役割を担う体制が固まっていきました。こうして新ユーゴスラビアは、「多民族連邦」と「社会主義国家」という二つの性格を組み合わせた形で、戦後ヨーロッパの国家群の中に位置づけられていきます。
初期の運営と国際環境:連邦の統合と独自路線への布石
新ユーゴスラビア連邦の出発期は、復興と統合の時期でもありました。戦争で破壊されたインフラや産業を立て直し、国内に残る武装勢力や混乱を収束させ、難民や住民移動が生んだ社会不安にも向き合う必要がありました。さらに、占領期から内戦的状況を経験した地域では、記憶と感情の傷が深く、国家統合を進める政策は容易ではありません。連邦という枠組みは多様性を認める制度ですが、それだけで対立が自然に消えるわけではなく、政治的な調整と強い統治が同時に求められました。
外交面では、戦後すぐに冷戦の空気が濃くなる中で、ユーゴスラビアは当初ソ連との協調関係を持ちながらも、やがて独自性を強めていきます。東欧の多くの国がソ連の影響下に組み込まれていく一方で、ユーゴスラビアは戦時に自力で解放地域を広げたという経緯があり、指導部の自負と自主性が大きかったとされます。この特徴は、後にソ連との関係が緊張する土台にもなります。
国内統治の面でも、新体制は「連邦としての民族的配慮」と「中央による政治的統一」をどう両立させるかを常に意識することになります。構成共和国の権限、自治地域の扱い、経済計画の配分、言語や教育政策の方向など、制度の細部はそのまま政治的な敏感問題になり得ます。新ユーゴスラビア連邦成立という出来事は、こうした問題が一気に解決された瞬間というより、戦時の抵抗運動から戦後国家へ移る中で、連邦国家の枠組みが制度として確立し始めた転換点として捉えると、現実に即した理解につながります。
このように、新ユーゴスラビア連邦は、戦前王国の崩壊、占領と抵抗、国内の主導権争い、国際政治の調整を経て、1945年に共和国として発足しました。連邦制の採用と社会主義的な国家運営は、多民族国家の再建と戦後復興を同時に進めるための選択でもあり、以後のバルカン政治を考える上で欠かせない出発点になっていきます。

