「オランダ戦争」とは、一般にフランス王ルイ14世がネーデルラント連邦共和国(オランダ共和国)に対して起こした戦争(1672〜1678年)を指します。英語の “Franco–Dutch War” に当たり、日本語では「仏蘭戦争」「オランダ侵略戦争」とも呼ばれます。1672年はオランダ側で「破局の年(ランプヤール)」と恐れられるほどの危機に満ち、フランス、イングランド、ミュンスター、ケルンが一斉に共和国へ侵攻しました。海ではデ・ロイテル率いるオランダ艦隊がイングランド・フランス連合艦隊を迎え撃ち、陸では水門を開いて国土を浸水させる「オランダ水防線」が発動され、内政ではオラニエ公ウィレム(のちのイングランド王ウィリアム3世)が台頭します。講和はニ美ーゲンの和約(1678–79年)で結ばれ、フランスはフランシュ=コンテやフランドルの要塞群など領土的利得を得ましたが、オランダは独立と商業的基盤を保ち、以後ルイ14世包囲の同盟政治が強まっていきます。軍事・外交・財政・プロパガンダが緊密に絡み合う17世紀後半ヨーロッパの転換点として理解される戦争です。
背景と開戦—対仏緊張、同盟工作、そして「破局の年」
1660年代のヨーロッパでは、三度にわたる英蘭戦争で海上覇権と通商路を争ったオランダ共和国が、依然として金融・海運・再輸出貿易で優位を保っていました。一方、フランスはルイ14世のもとで常備軍と財政を拡張し、コルベールの重商主義で国内産業と関税政策を強化するなか、ネーデルラントの要塞地帯に触手を伸ばしていました。1667–68年の「南ネーデルラント継承戦争」で、フランスは急速にスペイン領ネーデルラントへ侵攻しますが、オランダが英・スウェーデンと結んだ「反仏三国同盟」に阻まれ、アーヘンの和約で一部割譲にとどまりました。これがルイ14世にとってオランダ牽制の記憶となり、次の戦争準備を促します。
ルイ14世は、オランダを外交的に孤立させるべく、1668年以降に周到な同盟工作を進めました。1670年のドーヴァー密約でイングランド王チャールズ2世を引き込み、さらにドイツ西部のミュンスター司教領とケルン選帝侯を味方に付けます。イングランドは通商と海上覇権の観点からオランダの弱体化を望み、フランスは陸上から国境要塞線を押し広げる戦略的利得を目論みました。対するオランダは、共和派のヨハン・デ・ウィットが政権を主導し、商業利益と内政安定を重視していましたが、対仏抑止の構築は遅れがちでした。
1672年春、フランスは壮大な攻勢を開始します。コンデ公・テュレンヌら一流の将帥がラインを渡河し、要塞都市が次々と降伏しました。イングランドは海から圧力をかけ、ミュンスター・ケルンは東から攻撃します。共和国の政治は大混乱に陥り、デ・ウィット兄弟は失政の象徴として民衆の暴力に倒れ(8月、ハーグでのリンチ)、オラニエ公ウィレム3世が総督(スタットハウダー)に就任して全権を掌握しました。まさに「破局の年」であり、国家の存亡が問われました。
戦争の展開—水防線、海戦、包囲戦、宣伝戦
オランダの反撃は、まず地の利を最大限に活かすことから始まりました。低地の地形と水利システムを活用し、堤防と水門を開いて国土の一帯を意図的に浸水させる「オランダ水防線」を形成、騎兵や重砲を伴う陸軍の機動を阻みました。冬季に氷結すれば逆に突破される危険があるため、氷割りや警備も含めて精緻な運用が求められました。この間に都市は耐え、徴税と公債発行で軍資金が確保されます。世界最先端の公信用と資本市場をもつアムステルダムは、迅速な資金調達で戦争継続を可能にしました。
海上では、提督ミヒール・デ・ロイテルが連合艦隊に対し連戦連勝の働きを見せました。1672年のソールベイ海戦、1673年のスクヴェンゲン沖(スホーンフェルト)とテセル島沖の海戦で、オランダは劣勢の隻数ながら縦隊戦術と砲術・操艦の練達で連合艦隊を阻止し、イングランドによる上陸企図や輸送破壊を防ぎました。これにより、チャールズ2世の対蘭参戦は国内政治的正当性を失い、1674年のウェストミンスター条約でイングランドは講和、戦局はフランス対大陸諸国の様相へと移ります。
陸上では、ヴォーバンの築城術が支える要塞戦・包囲戦が戦争の主旋律でした。フランス軍は補給・工兵・砲兵を整え、要塞都市を計画的に切り崩していきます。一方、オランダとその同盟者は、河川・運河・湿地と連結した防御線を固め、各地で奪回・再奪回が繰り返されました。戦場はオランダ本土からネーデルラント諸州、さらにはロレーヌ・フランドル・フランシュ=コンテへと拡大し、神聖ローマ帝国諸侯、スペイン、ついにはデンマークやブランデンブルクも反仏側に合流します。戦争は総力戦の様相を強め、徴発・物価高・難民流入が都市と農村を直撃しました。
この戦争はまた、宣伝戦・情報戦の時代の幕開けでもありました。オランダ側はパンフレット、版画、風刺画、説教、演説を通じて「自由と信仰、交易の保護」という大義を訴え、フランス側は王権の栄光と秩序の回復を喧伝しました。印刷・市場・教会のネットワークを介した世論動員は、傭兵の募集や国債の消化にも影響を与え、近代的な「ホームフロント」の萌芽を示しました。
外交と講和—ウェストミンスターからニ美ーゲンへ、均衡の再設計
1674年のウェストミンスター条約でイングランドが離脱すると、オランダは呼吸を取り戻し、ウィレム3世はヨーロッパ全域で反仏同盟網の形成に動きます。神聖ローマ皇帝、スペイン王、ブランデンブルク選帝侯、デンマークなどとの連携は、フランスの多方面作戦を強い枷にしました。ルイ14世は依然として強力でしたが、国内財政や補給線、人的資源の負担が増し、講和の地平が現れます。
1678–79年に結ばれたニ美ーゲンの和約群は、この戦争の結末と同時に、ルイ14世期ヨーロッパの秩序を再設計するものでした。フランスはフランシュ=コンテを完全に獲得し、フランドルの主要都市(カンブレー、イーペル、ドゥエーなど)やロレーヌの要地を手に入れて国境の「合理化(整地化)」を進めます。オランダは通商特権と航路の自由を維持し、直接の領土喪失を免れましたが、スペインはネーデルラントで地歩を失い、帝国はライン方面での影響力が相対的に低下しました。講和過程での贈賄・離反・個別講和は、17世紀国際政治の現実主義を映し出し、以後もルイ14世の「併合法廷(再統合法)」や九年戦争へと緊張が続いていきます。
ニ美ーゲンの和約はまた、ウィレム3世の国際的評価を高め、彼が1688年の名誉革命でイングランド王位に就く土台を整えました。英蘭の連携は以後の対仏同盟の軸となり、財政軍事国家と金融革命(国債市場・イングランド銀行)の発展は、長期戦に耐える制度的基礎を提供します。均衡(バランス・オブ・パワー)という言葉が国際政治のキーワードとして定着するのも、この時代の外交通念の反映です。
意義と影響—軍事革命、財政国家、国家アイデンティティの形成
オランダ戦争は、いわゆる「軍事革命」の成熟段階を示しました。常備軍の巨大化、徴募・補給・野営の規律化、砲術と工兵の専門化、ヴォーバン式稜堡要塞の体系、輜重と道路網の計画的整備は、戦費と人員の管理を国家の中枢課題に押し上げました。フランスは徴税と官僚制の効率化でこれに応え、オランダは公債・年金・課税の信頼性で対抗しました。イングランドはのちの九年戦争・スペイン継承戦争で、英蘭金融の結合と海軍力を梃に主役へ浮上します。
海軍戦の面では、縦隊戦術・艦隊運用・砲戦主義が定着し、旗旒信号や艦隊規律が整備されました。デ・ロイテルの用兵は、少数で多数を牽制し戦略目的(上陸阻止・海上交通の確保)を達成する手本となり、プロの士官・下士官層の育成、海軍造船と兵站(タール、マスト、パン、火薬)の統合が競争力を左右することを示しました。港湾・造船所・貯炭庫・海図・測量といった民間技術の蓄積は、軍事と商業の境界を溶かしていきます。
国内政治の面では、オランダにおける「共和国/オラニエ家」対立が再編され、ウィレム3世の指導の下で王朝的求心力と都市共和国的合議制が折り合いを付ける新段階に入りました。破局の年におけるデ・ウィット兄弟の殺害は、都市民衆の恐怖と怒り、敵対勢力の扇動、情報の混乱が交錯したトラウマとして記憶され、同時に「水をもって祖国を守る」という共同体意識は、オランダの自己像を強く規定しました。プロテスタントの自意識と寛容の理念、商業の自由という価値が、対仏闘争の大義と結びついて再確認されたのです。
文化・プロパガンダの面では、パンフレット戦や版画が世論形成に果たした役割が顕著でした。ルイ14世の宮廷文化が栄華を誇る一方、オランダは市民的質素・勤勉・自由を称揚する言説で応じ、国際的な読者市場を通じて互いのイメージが流通しました。これは、のちの「輿論の時代」への前奏であり、投資家心理や国際信用に直接的な影響を与える新しい力学でした。
総じて、オランダ戦争は、単にフランスの膨張とオランダの防衛という二項対立を超え、ヨーロッパの国家形成と国際秩序、軍事技術と財政制度、メディアと世論の関係を一挙に可視化した戦争でした。講和はフランスに国境線の利得を与えましたが、オランダは独立・通商・金融という核心資産を守り切り、ウィレム3世の台頭を通じて英蘭連携と「均衡外交」の時代を開きました。ここに至る経緯は、17世紀のヨーロッパが「長期戦に耐える国家」と「世論のもとで動く政治」を同時に生み出したことを物語っています。戦争の地図をたどることは、現代の安全保障—同盟、財政負担、情報戦、国民動員—を考えるうえでも、多くの示唆を与えてくれるのです。

