女性参政権(イギリス) – 世界史用語集

「女性参政権(イギリス)」とは、イギリスで女性が選挙権(投票する権利)と被選挙権(議員などに立候補する権利)を獲得するまでの長い運動と、その結果として1918年と1928年の二段階で女性の政治参加が実現していった過程を指す言葉です。しばしば「サフラジェット」と呼ばれる過激な女性運動家のイメージで語られますが、実際には穏健な請願活動を続けた団体や、地方政治からコツコツと実績を積んだ女性たち、第一次世界大戦中に看護や軍需工場などで働いた無数の女性労働者など、多様な人びとの動きが重なり合って、参政権獲得に至っています。

イギリスの女性参政権は、一気に「男女完全平等」が実現したわけではありません。1918年の人民代表法によって、まずは30歳以上で一定の財産条件を満たす女性にだけ投票権が与えられ、同時に21歳以上の男性に普通選挙権が拡大されました。その10年後、1928年の人民代表法改正でようやく、21歳以上の女性にも男性と同条件の選挙権が認められます。つまり、形式上の男女平等の実現までは段階を踏んでおり、その背景には長年の運動と、社会観・性別役割意識の変化、戦争による社会構造の揺らぎなどが関係していました。

また、イギリスの女性参政権運動は、単に投票権だけを求めたものではありませんでした。法律上の婚姻・財産権の不平等、職業選択や高等教育への制限、離婚や親権をめぐる不利など、多くの制度的差別が存在するなかで、「女性も一人の市民として扱われるべきだ」という要求が徐々に広がっていきます。その中核にあったのは、「税金を納め、法律に従う以上、女性にも政治に口を出す権利がある」という、ごく基本的な感覚でした。

以下では、まずヴィクトリア朝以来の女性の位置づけと参政権問題の出発点を確認し、その上で、穏健派サフラジストと過激派サフラジェットの活動を対比しながら、どのような戦術が試みられたのかを見ていきます。さらに、第一次世界大戦が女性参政権問題に与えた影響と、1918年・1928年の法改正の内容、その後の女性の政治参加の広がりについて順にたどっていきます。

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ヴィクトリア朝社会の女性と参政権問題の出発点

19世紀のイギリス、特にヴィクトリア女王の時代(1837〜1901年)は、「家庭の天使」としての女性像が強く打ち出された時代でした。中産階級以上の女性は、理想的には家庭にとどまり、夫と子どもの世話をし、道徳的な雰囲気を家庭内に保つ存在とされました。一方で、工場や炭鉱、家事使用人として働く労働者階級の女性は、長時間・低賃金の労働に従事し、家事と外での労働を両方引き受ける「二重の負担」を背負っていました。

当時の政治制度では、選挙権は財産や納税額に応じて一部の男性に限られており、女性は原則として国政選挙から排除されていました。地方自治体の選挙では、未婚の女性や寡婦が一定の条件のもとで投票できる例もありましたが、国会議員選挙において女性が投票したり立候補したりすることは認められていませんでした。法律上も、結婚した女性は「夫婦一体の原則」のもと、財産や法的権利を夫に吸収されてしまうことが多く、独立した法主体として扱われにくい立場に置かれていました。

19世紀中頃から、こうした状況に疑問を抱く女性たちが現れ始めます。彼女たちは、まず教育・職業・財産権の改善を求め、その延長線上で参政権問題にも取り組んでいきました。1850年代から60年代にかけて、女性を高等教育に受け入れる大学が少しずつ増え、女性医師・教師・タイピストなどの新しい職業が登場します。その一方で、「政治参加の権利がなければ、女性は法律を変える力を持てない」という認識も強まっていきました。

1860年代には、初期の女性参政権運動家たちが、男性の選挙権拡大(1867年第二次選挙法改正)の議論にあわせて、「女性にも選挙権を認めるべきだ」と請願書を提出するようになります。ジョン・スチュアート・ミルのような自由主義思想家は議会で女性参政権を主張しましたが、当時はまだ賛同者は少数派でした。それでも、ロンドンやマンチェスター、バーミンガムなどの都市で女性参政権協会が結成され、知識人や中産階級女性を中心とした運動の基盤が作られていきます。

この段階の運動は、主に嘆願書の提出や議員への働きかけ、公開講演会など、穏やかな説得活動が中心でした。まだ「女性が街頭で激しく抗議行動を行う」というイメージからは遠く、むしろ「礼儀正しい淑女(レディ)」として議会に訴える姿が強調されていました。しかし、この穏健な運動だけではなかなか突破口が開けないことが、やがてより過激な戦術を生む土壌となっていきます。

サフラジストとサフラジェット―穏健派と過激派の運動

イギリスの女性参政権運動を語るとき、しばしば「サフラジスト(suffragist)」と「サフラジェット(suffragette)」という二つの言葉が登場します。どちらも「suffrage(参政権)」に由来する言葉ですが、その性格は大きく異なります。サフラジストは、法的・議会内の手続きを重視し、説得と教育によって世論と政治家を動かそうとした穏健派の女性参政権運動家を指します。一方、サフラジェットは、より急進的で直接行動に訴える過激派の活動家たちをさします。

穏健派の中心的な組織は、ミリセント・フォーセットらが率いた全国女性参政権協会連合(NUWSS)でした。彼女たちは、地方組織を広げ、請願や署名運動、議員へのロビー活動、公開討論会などを通じて、女性参政権の必要性を根気強く訴えつづけました。口調や態度は控えめで、「理性的な議論」を重視し、暴力的な方法は取らないという方針を掲げていました。

これに対して、1903年にエミリーン・パンクハーストとその娘たちが結成した女性社会政治同盟(WSPU)は、より急進的な路線を採ります。彼女たちは「行動がなければ変化はない(Deeds not words)」というスローガンを掲げ、議会建物への突入、政治家への面前抗議、窓ガラスの破壊、郵便ポストへの放火、小規模な爆破など、時に違法行為を伴う直接行動を行いました。彼女たちが「サフラジェット」と呼ばれるようになったのは、当初は新聞側の軽蔑的な呼び方でしたが、次第に彼女たち自身が誇りをもってこの称号を受け入れるようになります。

サフラジェットの活動は、社会に大きな注目と衝撃を与えました。多くのメンバーが逮捕され、投獄されましたが、獄中でのハンガーストライキを通じて抗議を続けました。当局はこれに対して強制給餌を行い、その暴力的なやり方がまた世論の批判を呼びました。健康悪化を恐れた政府は、一時的に受刑者を釈放し、回復したら再収監するという「猫とネズミ法」と呼ばれる法律まで制定します。このように、サフラジェットの運動は、女性参政権問題を「過激で危険な運動」と見る反発を生む一方で、無視できない政治課題として前面に押し出す効果を持ちました。

さらに象徴的な事件として知られているのが、1913年にダービー競馬のレース中、サフラジェットのエミリー・デイヴィソンが王の所有馬の前に飛び出してはねられ死亡した事件です。彼女の行動の動機については議論がありますが、この出来事は、女性参政権運動の犠牲者として国内外に強い印象を残しました。葬儀は大勢のサフラジェットたちによって厳粛に行われ、彼女は運動の殉教者のような存在として語られるようになります。

穏健派サフラジストと過激派サフラジェットのあいだには戦術をめぐる対立もありましたが、両者はともに、女性参政権が議題に上る条件を作り出したという点で重要な役割を担いました。穏健派の粘り強い説得が合法的な改革の道を整え、過激派の目立つ行動が「問題の重要性」を世間にアピールした、と見ることもできます。

第一次世界大戦と1918年の部分的参政権獲得

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、イギリス社会は急速に戦時体制へと移行します。多くの男性が前線に送られた結果、国内の工場・交通・農業・病院などの現場では労働力不足が深刻化しました。これを補うため、政府や企業は女性の労働力に大きく依存するようになります。女性たちは、これまで男性中心だった軍需工場での弾薬製造、運輸、郵便、公共交通、農作業、看護など多くの分野で働き、社会を支える重要な役割を果たしました。

戦争が始まると、サフラジェットのWSPUは一時的に過激な運動を停止し、戦争協力に転じます。彼女たちは兵士募集や戦費調達キャンペーンを支援し、「国家のために女性も貢献している」という姿をアピールしました。一方、穏健派サフラジストたちも、戦時下での社会福祉活動や労働問題への取り組みを通じて、「女性が公共の場で責任を果たせる存在である」ことを実践的に示しました。

長期化した戦争と膨大な犠牲を経て、政治指導者や世論の間には、「これだけの貢献をした女性に選挙権を与えないのは不当ではないか」という認識が徐々に広がっていきます。同時に、戦争中に選挙人名簿の更新が止まっていたことから、戦後に向けて選挙制度全体の見直しが必要という事情もありました。このような背景のもと、1917年には選挙制度改革に関する議論が本格化し、その中に女性参政権をどう位置づけるかが大きな論点となりました。

最終的に、1918年に成立した人民代表法(Representation of the People Act 1918)では、選挙権の大幅な拡大が行われました。男性については、21歳以上の成人男性にほぼ普遍的な選挙権が認められ、これまでの財産条項が大きく緩和されます。一方、女性については、30歳以上で一定の財産条件を満たす者に限り、国政選挙での投票権が認められました。これは、完全な男女平等ではないものの、イギリス史上初めて大規模に女性が選挙に参加できるようになった重要な一歩でした。

1918年の同年には、女性の被選挙権についても緩和が行われ、21歳以上の女性が庶民院議員に立候補することが可能になりました。その結果、1919年にはナンシー・アスターが保守党候補として下院議員に当選し、イギリス初の女性庶民院議員として議席を占めることになります。こうして、女性は単に投票する側としてだけでなく、議会において政策決定に関わる側としても徐々に存在感を増していきました。

とはいえ、30歳以上という年齢制限と財産条項は残されており、若い女性や低所得の女性は依然として参政権から排除されていました。これは、「変化を急ぎすぎることへの不安」や、「若い女性が大量に有権者になることで政治のバランスが崩れるのではないか」という保守的な懸念の表れでもありました。この不完全さが、1920年代後半のさらなる改革への布石となります。

1928年の完全平等選挙権とその後の女性の政治参加

1918年の部分的参政権獲得から10年のあいだにも、社会は大きく変化しました。戦後の混乱と不況、労働運動の高まり、ジェンダー意識の変化などを背景に、女性の教育や就労の機会はさらに広がっていきます。多くの女性が地方議会や地方行政に関わるようになり、「女性が政治に参加することはもはや異常ではない」という感覚が少しずつ浸透していきました。

このような状況の中で、「なぜ女性だけ30歳以上なのか」「なぜ財産条項が必要なのか」という疑問は強まりました。1920年代半ばには、政党の中でも女性支持層を意識した政策が増え、とくに労働党や自由党は男女平等の参政権を支持する姿勢を明確にしていきます。保守党の内部にも、1918年以降の選挙で女性票の重要性を認識し、完全な平等選挙権を認めてもよいという意見が広がりました。

1928年、ついに新たな人民代表法(Representation of the People Act 1928)が可決され、21歳以上の女性にも男性と同条件の選挙権が認められます。これにより、有権者数は大幅に増加し、男女ともに同じ年齢基準で政治に参加できるようになりました。この法律は「フラッパーズ法(Flapper Act)」と呼ばれることもあり、20代の若い女性たちが新たに有権者として政治舞台に登場したことを象徴しています。

完全な平等選挙権の実現後、女性の政治参加は徐々に根付いていきました。議会における女性議員の数はすぐには大きく増えませんでしたが、地方自治体や専門委員会、官庁のポストなど、さまざまなレベルで女性が役割を果たすようになります。第二次世界大戦を経て、1945年には労働党政権のもとで福祉国家建設が進められ、その中で保育や教育、医療など、女性の生活に深く関わる政策が重要なテーマとなりました。

20世紀後半には、第二波フェミニズムの高まりのなかで、「単に参政権を持つだけでなく、実際に意思決定の場でどれだけ女性の声が反映されているのか」という視点が一層重視されるようになります。議会における女性議員の割合の低さや、政党内での候補者選定プロセスにおけるバイアスが問題視され、クオータ制(候補者の一定割合を女性とする制度)や女性専用候補リストなど、実質的な平等を促進するための方策も議論されていきました。

イギリスでは20世紀末から21世紀にかけて、女性閣僚や政党党首、地方自治体のトップなど、目に見える形で女性リーダーが増えていきます。それでもなお、政治の最上層部における男女比のバランスは完全には是正されていませんが、1840年代にセネカフォールズ会議が開かれたアメリカと同様、19世紀に「女性が政治に参加するなんて」と見なされていた時代から見れば、状況は大きく変化しています。

「女性参政権(イギリス)」という用語の背後には、ヴィクトリア朝の家父長的社会から、サフラジストとサフラジェットの運動、第一次世界大戦による社会変動、1918年と1928年の二段階の法改正、そしてその後の政治参加の広がりまで、長く複雑な過程が折り重なっています。一見すると「1928年に女性にも選挙権が与えられた」と一行で済ませられる出来事も、その陰には、世代を超えて粘り強く声をあげ続けた人びとの具体的な努力があったことを、あわせてイメージしておくことができます。