女性参政権(アメリカ) – 世界史用語集

「女性参政権(アメリカ)」とは、アメリカ合衆国で女性が選挙権(投票する権利)や被選挙権(立候補する権利)を獲得するまでの歴史的な運動と、その結果として1920年に合衆国憲法修正第19条が制定された過程を指す言葉です。表向きには「自由と民主主義の国」とされてきたアメリカでも、建国当初からすべての人に政治参加が開かれていたわけではなく、長いあいだ「有産の白人男性」などに権利が限定されていました。その中で、女性たちは自分たちの声が政治にまったく反映されない状況に疑問を抱き、約70年以上にわたる粘り強い運動を展開していきました。

アメリカの女性参政権運動は、奴隷制廃止運動(アボリショニズム)や禁酒運動、労働運動などと深く結びついていました。とくに19世紀の女性運動家たちは、黒人奴隷の解放や社会改革を訴える中で、「自分たち自身もまた法的には二級市民ではないか」と気づかされていきます。一方で、南北戦争後に黒人男性に選挙権を与える憲法修正第15条が成立した際、女性はそこから外されてしまい、「人種差別」と「性差別」の問題が複雑に絡み合う状況が生まれました。

20世紀初頭に入ると、女性参政権運動は大衆運動としての広がりを見せ、行進やデモ、議会へのロビー活動、投獄を覚悟した直接行動など、さまざまな手段が用いられました。第一次世界大戦期には、女性たちが看護・工場労働・物資節約運動などを通じて戦争遂行を支えたことも、「国民としての貢献」を示す材料として参政権要求に結びつきます。最終的に、1920年に発効した憲法修正第19条によって、「性別を理由として投票権を否定または制限してはならない」と定められ、法的には全国で女性参政権が認められることになりました。

ただし、南部を中心に、人頭税や識字テストなどによって黒人女性を含む有色人種の投票が事実上妨げられる状態は長く続きました。真の意味で女性が広く参政できる条件が整うのは、公民権運動を経て1960年代に投票権法が制定されてからだとする見方もあります。以下では、19世紀半ばの女性権利宣言から、20世紀初頭の運動の高まり、第19条修正の成立、その後の課題までを順に見ていきます。

スポンサーリンク

19世紀半ばの出発点―セネカフォールズ会議と初期の運動

アメリカにおける女性参政権運動の象徴的な出発点としてよく挙げられるのが、1848年にニューヨーク州セネカフォールズで開かれた「女性権利大会(セネカフォールズ会議)」です。この会議は、エリザベス・キャディ・スタントンやルクレシア・モットなどの女性改革者たちが中心となって開催したもので、奴隷制廃止運動やクエーカー教徒の平等思想の影響を強く受けていました。

会議では、「感情の宣言(宣言文)」として知られる文書が採択されました。これは、アメリカ独立宣言の文言をもじり、「すべての男女は生まれながらにして平等である」と述べたうえで、法律や慣習によって女性が教育・職業・財産管理・政治参加から排除されている実態を批判し、改善を求める内容でした。ここには女性参政権の要求も盛り込まれており、「女性も選挙権を持つべきだ」という主張が、当時としてはかなりラディカルな形で明示されています。

この時期の女性運動は、奴隷制廃止運動と強く結びついていました。多くの女性改革者が、黒人奴隷の解放を求める集会で演説し、署名運動や募金活動を行う中で、自分自身が公共の場で発言すること自体を批判されるという経験をします。「女性が公の場で政治的意見を述べるのは不適切だ」という風潮に対し、彼女たちは「人間としての良心に従って発言する権利」を主張し始めました。こうした経験が、「女性にも市民としての権利がある」という意識を育てていきます。

南北戦争(1861〜65年)の時期には、多くの女性が看護や物資供給、家庭の維持などを通じて戦争を支えました。戦後、黒人奴隷の解放と市民権付与が進む中で、「女性参政権を同時に実現すべきだ」という声も強まりますが、憲法修正第14条・第15条(市民権と黒人男性の参政権)に女性が含まれなかったことは、多くの女性運動家にとって大きな失望となりました。

南北戦争後の分裂と全国組織の形成

南北戦争後、アメリカ憲法は第14条・第15条によって黒人男性の市民権と参政権を保障しましたが、女性は依然として政治的権利から排除されたままでした。このとき、「黒人男性の参政権を先に認めるべきか、それとも女性参政権を同時に求めるべきか」をめぐって、女性運動の内部に対立が生まれます。

エリザベス・キャディ・スタントンやスーザン・B・アンソニーらは、女性参政権を優先しようとする立場から、全国女性参政権協会(NWSA)を結成しました。一方で、ルーシー・ストーンらは、黒人男性の参政権獲得を支持しつつ、州ごとの漸進的な改革を重視する立場から、アメリカ女性参政権協会(AWSA)を組織しました。こうして、女性参政権運動はしばらくのあいだ、思想と戦術の違いにもとづく二つの流れに分かれて活動することになります。

この時期の運動は、連邦レベルで憲法改正を目指す試みと、各州ごとに女性参政権を認めさせようとする試みが並行して進められました。一部の西部州では、開拓地での男女の労働が比較的対等であったことや、人口を増やして州の発展を図るために女性の移住を促したいという思惑などから、比較的早い段階で女性参政権が認められる例が出てきます。ワイオミング準州(のちの州)は1869年に女性参政権を導入し、「最初に女性に投票権を認めた地域」として知られています。

19世紀末に向けて、女性参政権運動は組織としての基盤を整えていきます。新聞やパンフレットの発行、講演旅行、請願活動などを通じて、徐々に世論の支持を広げていきました。同時に、「女性は政治に向かない」「家庭から出るべきではない」といった偏見に対抗するため、女性の道徳的・教育的な能力を強調し、「女性が政治に参加することは社会を浄化し、改善する」という論理がよく用いられました。

1890年には、NWSAとAWSAが統合され、全米女性参政権協会(NAWSA)が誕生します。これにより、全国レベルでより統一された運動が展開されるようになり、20世紀初頭にかけての運動の高まりにつながっていきます。

20世紀初頭の高まりと憲法修正第19条の成立

20世紀初頭、アメリカ社会では「進歩主義運動」と呼ばれる社会改革のうねりが起こり、政治腐敗の是正、労働条件の改善、消費者保護、禁酒運動など、さまざまな改革課題が議論されました。女性参政権運動もこの流れと結びつき、「女性の政治参加は、社会改革を進めるための重要な手段である」と訴えました。NAWSAは、キャリー・チャップマン・キャットらの指導のもと、州レベルでの住民投票や議会ロビー活動を積み重ね、女性に選挙権を与える州を少しずつ増やしていきます。

同時期に、より急進的な戦術をとる団体として、アリス・ポールやルーシー・バーンズらが率いる「全国女性党(NWP)」が登場しました。彼女たちは、イギリスのサフラジェット運動から影響を受け、ホワイトハウス前でのピケット(無言の抗議)や大規模なデモ行進、投獄後のハンガーストライキなど、目を引く直接行動を行いました。これらの活動は、世論の賛否両論を呼びながらも、女性参政権問題を全国的な話題に押し上げる効果を持ちました。

第一次世界大戦(1914〜18年)の期間、アメリカは1917年から参戦し、多くの男性が前線に送られました。その間、女性たちは工場や農場、運輸・事務職などで労働力として動員される一方、赤十字活動や募金、食料節約キャンペーンなどを通じて「銃後の守り」を担いました。ウィルソン大統領をはじめとする政治指導者たちは、民主主義と自由のための戦いを海外で掲げつつ、国内では女性が選挙権を持たないという矛盾に直面します。

こうした状況の中で、女性参政権運動は「女性も国家のためにこれだけ貢献しているのだから、その見返りとして政治的権利を認めるべきだ」と訴えました。また、「民主主義」を掲げるアメリカが、半数の成人人口を政治から排除し続けることは国際的な批判を招くという認識も強まりました。1918年以降、連邦議会では憲法修正案が本格的に審議され、激しい論争の末、1919年に議会で必要な多数を獲得します。

その後、各州議会での批准手続きが進み、1920年に必要な3/4以上の州が修正案を承認したことで、合衆国憲法修正第19条が成立・発効しました。条文は簡潔で、「アメリカ合衆国やいかなる州も、性別を理由として合衆国市民の投票権を否定し、または制限してはならない」と規定しています。これにより、法的には全米の女性に投票権が保障され、アメリカの民主主義は名目上は「男女成年市民に開かれた」ものとなりました。

有色人種女性の投票権と残された制約

1920年の第19条修正により、性別を理由とする投票権の制限は禁止されましたが、実際にはすべての女性が平等に投票できるようになったわけではありません。とくにアフリカ系アメリカ人女性や先住民女性、アジア系移民女性などは、人種差別や市民権の制限によって、法的・実質的な障害に直面し続けました。

南部諸州では、黒人男性の参政権を骨抜きにするために、人頭税(投票するために税金を払わせる制度)や識字テスト、祖父条項などといった選挙妨害策がすでに導入されていました。第19条修正後も、これらの制度はそのまま維持され、黒人女性もまた投票所で排除される対象となりました。白人女性運動家の中には黒人女性の参政権問題に十分な関心を払わなかった人びともおり、「性別の平等」が達成されても「人種の平等」は置き去りにされる場面が多く見られました。

また、先住民女性については、市民権そのものが20世紀前半まで限定されていました。1924年のインディアン市民権法によって、多くの先住民にアメリカ市民権が与えられましたが、州レベルでの差別的な選挙制度や登録手続きのハードルのために、実際に投票できるようになるにはさらに時間がかかりました。アジア系移民女性についても、長く帰化が認められない時期があり、市民権を持たない以上、選挙権を得ることはできませんでした。

このような状況を根本的に変えたのが、1950〜60年代の公民権運動です。キング牧師らの指導のもとで展開されたこの運動は、学校や公共施設の人種隔離だけでなく、選挙権の制限にも強く抗議しました。1965年に制定された投票権法は、人頭税や識字テストなど人種差別的な選挙制度を禁止し、連邦政府が選挙監視官を派遣するなどの措置を通じて、南部の黒人有権者登録を大幅に進めました。この動きは黒人男性だけでなく黒人女性にとっても決定的に重要であり、ようやく第19条修正のもつ意味が、より広い層の女性にとって現実のものとなっていきました。

こうした経緯から、アメリカの女性参政権を考えるとき、「1920年の第19条修正」と「1960年代の公民権運動・投票権法」という二つの節目をあわせて見る必要がある、と指摘されることがよくあります。法文の上で性差別が禁止されただけでは不十分であり、人種や階級といった他の要因に根ざした障害も取り除かれないかぎり、実質的な参政権は保障されない、ということがここから読み取れます。

女性参政権獲得後の政治参加と課題

1920年以降、アメリカの女性たちは選挙権を用いて様々な形で政治に関わるようになりました。初期には、禁酒法の維持や子どもの福祉、教育改革など、「道徳」と「家庭」に関連づけられた政策課題が女性有権者の関心事として取り上げられることが多かったとされます。女性議員も少しずつ増え、連邦議会や州議会、市議会などで女性が政策決定に参加する例が見られるようになりました。

しかし、政治指導層における女性の割合は、長いあいだ低いままでした。女性が立候補する場合、家族や職場の理解、資金調達、政党内での支援など、さまざまなハードルに直面します。また、美貌や服装といった外見にばかり注目が集まり、男性政治家とは異なる不当な評価軸で扱われることもしばしばありました。こうした状況は、20世紀後半の第二波フェミニズムの高まりとともに改めて問題化され、「単に投票権があるだけでなく、意思決定の場にどれだけ女性がいるか」という点が重視されるようになります。

1970年代以降、アメリカでは女性の大学進学率や就労率が上昇し、それにともなって政治的関心を持つ女性の層も広がりました。女性団体やフェミニスト団体は、中絶の権利、セクシュアル・ハラスメント防止、家庭内暴力対策など、新たな政策課題を掲げてロビー活動を行い、議会・行政に影響を与えています。大統領選や議会選挙でも、「女性票」が重要な争奪対象として注目され、候補者たちは女性有権者へのアピールを強めるようになりました。

一方で、アメリカ社会の内部には、人種・階級・地域・宗教などによる分断が残り、女性有権者の間でも意見や投票行動は一枚岩ではありません。保守派の女性とリベラル派の女性では、優先する政策課題も異なり、同じ「女性参政権」を出発点としながら、政治的選択は多様化しています。また、移民女性や低所得の女性、農村部の女性などは、依然として政治情報へのアクセスや立候補の機会において不利な立場に置かれることが多く、参政権の「形式的な平等」と「実際の参加」とのあいだにはギャップが存在し続けています。

このように、「女性参政権(アメリカ)」という用語の背景には、1848年のセネカフォールズ会議から1920年の第19条修正、そして1960年代の公民権運動やその後の政治参加にいたるまで、長く複雑な歴史が折り重なっています。女性が投票用紙を手にするまでの過程と、その後も続くさまざまな課題に目を向けることで、アメリカの民主主義がどのように広がり、またどのような限界を抱えているのかを、具体的に考えることができるようになります。