カイロ会議 – 世界史用語集

「カイロ会議」とは、エジプトの首都カイロで開かれた複数の国際会議の総称で、世界史上よく指されるのは二つです。ひとつは第二次世界大戦中の1943年に、アメリカのルーズヴェルト、イギリスのチャーチル、中国(中華民国)の蒋介石が会談し、対日戦後処理の基本方針を示した首脳会談(一般に「カイロ会談」)で、ここで公表された「カイロ宣言」は日本の占領地放棄、台湾・澎湖諸島の中国への返還、朝鮮の独立などをうたいました。もうひとつは1921年にイギリスが開いた中東政策の再編会議で、チャーチル(当時は植民地相)が主宰し、イラク王国の樹立やトランスヨルダン(のちのヨルダン)の体制整備など、第一次世界大戦後のオスマン帝国領の統治方針を固めた会議です。つまり「カイロ会議」は、太平洋戦争の戦後秩序と、中東の国境・王権形成という、別々の局面を示す用語でもあります。本項では紛らわしさを避けるため、まず用語の整理を行い、そのうえで1943年の会談の経緯と宣言の要点、1921年会議の背景と決定、関連する周辺会談(いわゆる第二回カイロ会談やテヘラン会談との接続)を分かりやすく説明します。

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用語の整理:1943年の「カイロ会談」と1921年の「カイロ会議」

一般に日本語で「カイロ会議」と言う場合、学校教育や受験で想起されるのは1943年11月の首脳会談です。英語ではしばしば Cairo Conference (1943) とも呼ばれますが、実際の場は複数回の首脳・外相レベル接触と共同声明の発出から成り、同時期に行われたカイロでの第二回会談(ソ連参加をめぐる調整を含む)や、直後のテヘラン会談(米英ソ首脳)と緊密に繋がっていました。ここで重要なのは、会談そのものよりも、そこで出された「カイロ宣言(Cairo Declaration)」の内容が、戦後処理の枠組みに大きな影響を与えた点です。

これに対し、1921年の「カイロ会議(Cairo Conference 1921)」は、第一次世界大戦後の英領中東における委任統治の運用方針を詰めるための省庁連絡・専門家会合の性格が強いものでした。主な議題は、メソポタミア(のちのイラク)での王制樹立(フサイン家のファイサルを国王に推す)、トランスヨルダン(ヨルダン川東岸)でのアブドゥッラーの統治構想、英国軍事負担の軽減策、委任統治領の財政・治安・行政整備などです。すなわち、同じ「カイロ会議」でも対象地域も登場人物も目的もまったく異なります。

1943年カイロ会談:経緯・参加者・「カイロ宣言」の要点

1943年11月、太平洋・中国・ビルマ・インド方面の戦局が正念場を迎えるなか、連合国の戦略調整と対日戦後処理の原則確認を目的として、米英中の首脳がカイロに集まりました。米国からはフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領、英国からはウィンストン・チャーチル首相、中国(当時の国民政府)からは蒋介石主席(夫人の宋美齢も広報・通訳面で重要な役割)という顔ぶれです。会談は軍事情勢、ビルマ戦線再建、援蒋ルート(レド公路や「ハンプ」空輸)、仏印・台湾・朝鮮の処遇、対日最終攻勢の構想など、多岐にわたる議題を扱いました。

最大の成果とされる「カイロ宣言」は、対日戦後処理の原則を簡潔に示した共同声明です。骨子は概ね次のとおりです。第一に、日本は第一次世界大戦以降に獲得した太平洋の諸島嶼(南洋群島など)を剥奪されるべきであること。第二に、日本が清国(中国)から奪取した領域、すなわち満洲・台湾・澎湖諸島などは中華民国に返還されるべきであること。第三に、朝鮮の人民は「適当な時期に」自由かつ独立するべきであること。第四に、日本が暴力的・貪欲な拡張によって得たすべての領域からの追放を達成するまで戦争を継続する決意、という戦争目的の再確認です。文章は短いながら、列挙方式で原則を掲げたため、その後の対日降伏(ポツダム宣言—受諾—降伏文書)や、戦後の領土・独立問題の議論でしばしば参照されることになりました。

同会談は、同席しなかったソ連の対日参戦問題とも密接に結びつきます。ルーズヴェルトとチャーチルは、カイロから直行したテヘラン会談でスターリンと会談し、ヨーロッパ戦線の最終戦略(ノルマンディー上陸など)とあわせて、対日戦の終盤におけるソ連参戦の可能性を詰めました。したがって、カイロ—テヘランの連続は、太平洋と欧州を貫くグローバル戦略の節目と理解すると見通しが良くなります。

なお、1943年末には「第二回カイロ会談」と呼ばれる米英首脳の追加協議(蒋介石不在)があり、対独戦略やトルコの戦争参加の是非などが扱われました。これら一連の協議を広義に含めて「カイロ会議」と総称する資料もあるため、文脈ごとに何を指すか確認するのが安全です。

1921年カイロ会議:中東再編と委任統治の設計

1921年のカイロ会議は、第一次世界大戦後の英仏の委任統治体制(サイクス=ピコ協定やサンレモ会議の帰結)の運用をめぐる英国の内政・財政事情を背景に開かれました。議長のチャーチル(当時は植民地相)は、戦費と占領費の膨張、現地反乱の鎮圧コスト、帝国議会の反発に苦しむなか、現地協力者(ハーシム家)を王として据え、英軍の直接統治を縮減しつつ影響力を維持する「軽量な帝国」への転換を志向します。会議には、トーマス・E・ロレンス(いわゆる「アラビアのロレンス」)をはじめ、中東政策に通暁した軍人・行政官が出席し、現地の部族関係、鉄道・灌漑・税制、国境画定といった技術的議題が検討されました。

決定事項の中核は、メソポタミアにおけるハーシム家のファイサル(かつて短命に終わったシリア王)をイラク王として擁立する方針、トランスヨルダンでは兄のアブドゥッラーをアミール(のちの国王)として行政権を持たせ、パレスチナ委任統治領(バルフォア宣言が想定したユダヤ人の民族郷土)と切り分けるという構想でした。さらに、陸軍の大規模駐留に代わって空軍(RAF)を機動的に用い、反乱鎮圧と通信線の保護を行う「空からの統治」も確認されました。これらの方針は、その後のイラク王国成立(1921年)と英イラク条約、トランスヨルダン首長国(のちのヨルダン・ハシミテ王国)の制度化へとつながり、中東地図の基層を形作ることになります。

ただし、この再編は無摩擦に進んだわけではありません。クルド地域の自治や国境線、シーア派・スンナ派・各宗派のバランス、ベドウィン社会と定住政策、油田開発と利権配分など、多数の争点が残され、のちの紛争の火種も埋め込みました。1921年のカイロ会議は「帝国の現実主義」と「委任統治の理念」の折衷として理解すると、決定の射程と限界が見やすくなります。

周辺会談との関係・史料と読み方:名称の混同を避けるために

1943年のカイロ会談は、直前・直後の他の首脳会談とセットで理解するのが有益です。直前のカサブランカ会談(1943年1月)は「無条件降伏」原則、カイロは対日戦後原則、テヘラン(1943年11月末〜12月)が米英ソ三首脳の対独・対日最終戦略の調整、という分担です。また、1945年のポツダム会談は、ヨーロッパ戦後処理と対日最終通告(ポツダム宣言)を担い、その文言の一部はカイロ宣言の原則を踏まえています。つまり、カイロ宣言は単独で完結するより、戦時・戦後の一連の外交文書の鎖の一環として位置づけると、理解が立体的になります。

一次史料としては、各国政府の公報・電報・覚書、参加者の日記・回想、同時代の新聞・写真などが参照されます。1943年の会談では、写真に写る首脳陣の表情や、宋美齢の英語演説・広報活動、ビルマ戦線再建をめぐる軍人同士のやり取りなど、外交と軍事・世論の交錯が具体的に追えます。1921年の会議では、ロレンスの記録や植民地省文書、航空部隊の運用報告、現地行政官の往復書簡が、意思決定の論理と実務の苦心を伝えます。

最後に、学習上の混同を避ける実務的ポイントを挙げます。試験や小論文で「カイロ会議」と出た場合、問いが指すのは1943年なのか1921年なのか、周辺語(カイロ宣言、テヘラン会談、イラク王国、トランスヨルダンなど)から判断します。1943年なら、米英中の首脳と「カイロ宣言」の三本柱(中国への返還項目、朝鮮独立の原則、日本の占領地放棄)を簡潔に挙げ、戦略面では対日戦終盤戦略やビルマ戦線、ソ連参戦との連動を示すと的確です。1921年なら、英の委任統治運用とハーシム家の王制擁立、RAF活用と財政節減という文脈を押さえるのが近道です。名称は同じでも、扱う地理・時代・目的が異なることに注意すれば、混乱は大きく減らせます。