ジロンド派内閣 – 世界史用語集

「ジロンド派内閣」とは、フランス革命期の1792年3月から同年6月まで存在した、ジロンド派(ジロンド党)を中心とする革命政府の内閣を指します。立法議会の多数派となったジロンド派の指導者たちが、国王ルイ16世のもとで組織したこの内閣は、対外戦争の推進と、革命の理念をヨーロッパに広めることを目標としていました。しかし、戦況の悪化や王権との対立、パリ民衆の不満の高まりにより、わずか数か月で崩壊し、その後の王政打倒と共和国成立、さらには山岳派の台頭へとつながっていきます。

世界史で「ジロンド派内閣」と言うときには、通常、1792年春の外務大臣デュムーリエ、内務大臣ローラン、司法大臣デュボワ=クランセなど、ジロンド派系の政治家が要職を占めた時期を指します。この内閣は、オーストリアへの宣戦布告(1792年4月)を主導し、革命戦争の幕を切って落としましたが、革命政権と王権、議会とパリ民衆の力関係をめぐる緊張が高まる中で、不安定なバランスの上に立たされていました。最終的には、ルイ16世がジロンド派大臣を解任し、それが8月10日の王宮襲撃・王政崩壊への導火線の一つとなります。

以下では、まずジロンド派内閣成立の背景と構成メンバーを整理し、つづいて対外戦争政策と内政運営の特徴、国王との対立と内閣崩壊の過程、最後にジロンド派内閣の歴史的意義とその後の革命の展開への影響について順に見ていきます。

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成立の背景と構成メンバー

1791年に成立したフランスの立法議会は、フランス革命の第一段階を終えたあと、新たな憲法のもとで国政を担う機関として位置づけられました。この時点で、封建的特権は廃止され、人権宣言が採択され、立憲君主制の枠組みが整えられていましたが、国王ルイ16世は革命に不信感を抱き、ヴァレンヌ事件での逃亡未遂によって民衆の信頼を失っていました。対外的には、亡命貴族や周辺諸国の君主たちがフランス革命を警戒し、干渉の可能性が高まっていました。

こうしたなかで、立法議会に選出された若い議員たちの中から頭角を現したのがジロンド派です。彼らは地方都市出身の弁護士・ジャーナリスト・官僚などのブルジョワ層で構成され、啓蒙思想の影響を受けた共和主義者でした。ジャック=ピエール・ブリッソ(ブリソー)やヴェルニョーらが理論的・演説の中心を担い、ローラン夫妻やコンデュルセらも有力メンバーとして活躍します。

1792年3月、ルイ16世は、これまでの内閣に代えて、立法議会多数派であるジロンド派の意向を反映した新たな内閣を任命します。これは、王権が議会多数派と妥協しつつ、革命の枠内で立憲君主制を維持しようとする試みでもありました。この内閣では、外交・軍事に強い関心をもつデュムーリエが外務大臣に就任し、ローランは内務大臣として国内行政を統括しました。司法大臣にはデュボワ=クランセ、財務大臣にはクラヴィエなど、ジロンド派系の人物が選ばれ、ジロンド派内閣と呼ばれる布陣が整います。

ただし、この内閣は形式上は国王の任命によるものであり、王権と議会の双方の信任を必要とするという、きわめて微妙な立場に置かれていました。国王はなおヴェトー権(拒否権)を保持しており、議会が可決した法律や施策に対して三度まで拒否することができました。このことが、ジロンド派内閣の政策実行を難しくし、やがて王権との対立を深める要因となります。

対外戦争政策と内政運営の特徴

ジロンド派内閣の最大の特徴は、対外戦争政策にあります。ジロンド派の多くは、革命フランスがヨーロッパの旧体制諸国からの包囲と干渉に直面していると認識しており、戦争は避けられないどころか、むしろ革命の理念を拡大し、国内の反革命勢力をあぶり出す機会だと考えました。ブリッソは議会で熱烈な演説を行い、「自由を武器としてヨーロッパに持ち込む」ような言葉で戦争を正当化しました。

外務大臣デュムーリエも、軍事的冒険主義と革命思想の輸出を組み合わせた戦略を構想しており、1792年4月20日、フランスはついにオーストリアに宣戦布告します。これが、いわゆる第一次対仏大同盟戦争(革命戦争)の始まりです。ジロンド派内閣は、オーストリア・プロイセンなどとの戦争を通じて、フランス軍が勝利を収めれば、国内の革命政権が強化されると期待していました。

しかし現実には、フランス軍は初戦で敗北を重ね、国境地帯では敵軍の侵入の恐怖が広がります。軍内部には旧体制時代からの貴族将校も多く、彼らが敵側と通じているのではないかという疑念が強まりました。また、国王一家が戦争にどこまで協力しているのかも疑問視され、宮廷が外国勢力と通じて「祖国を売ろうとしている」との噂が広がります。こうした不信感は、パリ民衆の間で一気に高まり、ジロンド派内閣に対するプレッシャーとなりました。

内政面で、ジロンド派内閣は基本的に自由主義的な経済政策をとりました。穀物取引や物価に対する国家の統制には慎重であり、市場の自由な動きを尊重すべきだと考えました。しかし、戦争に伴う経済の混乱や食糧不足が深刻になると、パリのサン=キュロット(都市下層民)はパンの価格高騰に苦しみ、最高価格制などの強力な介入策を求めます。ジロンド派はこれに消極的であったため、「民衆の生活苦に無関心なブルジョワ内閣」として批判されるようになりました。

内務大臣ローランの妻、マダム・ローランは、サロンを通じてジロンド派議員たちを結びつけ、政治思想の議論の場を提供したことで知られます。彼女は鋭い文章と政治感覚を持つ人物で、宮廷や山岳派に対する批判を込めたパンフレットや手紙を残しました。しかし、パリ民衆の急進化と山岳派の台頭の前には、こうしたサロン政治は次第に力を失っていきます。

国王との対立と内閣崩壊

ジロンド派内閣の寿命を縮めた大きな要因は、国王ルイ16世との対立です。立憲君主制の枠組みのもと、国王は行政の長として大臣を任免する権限を持ちつつも、議会多数派の支持を必要としていました。しかし、王自身は革命に対して根本的な不信感を抱き、亡命貴族や外国君主との連絡を通じて、旧体制の復活を模索していたとされています。

戦争が思うように進まず、国内の緊張が高まるなかで、ジロンド派内閣は王に対し、反革命的と疑われる聖職者に対する強制追放法や、国王の親衛隊に代わる義勇兵のパリ配備など、革命防衛の措置を求めました。しかし、ルイ16世はこれらの法案に拒否権を行使し、成立を妨げます。これにより、ジロンド派は王への不信を強め、議会や新聞を通じて王権批判を強めていきました。

一方、山岳派やパリ・コミューン、サン=キュロットにとっても、王の拒否権は「革命を妨げる障害」と見なされましたが、彼らは同時にジロンド派の中途半端な姿勢にも不満を持っていました。ジロンド派が国王への批判と共和主義的言辞を強めながらも、なお立憲君主制の枠内で事態を収めようとしているように見えたからです。

1792年6月、パリの民衆は国王への圧力を強めるため、チュイルリー宮殿に押し寄せ、国王に革命のシンボルである赤帽(自由帽)をかぶせるという事件が起こります(6月20日事件)。ジロンド派は、このような暴力的な民衆行動には批判的であり、秩序の維持と法的手続きを重んじましたが、同時に王に対しては拒否権の撤回と反革命勢力への強硬措置を迫りました。

ルイ16世は、ジロンド派が自らの権限を侵食し、革命派の圧力に屈しようとしていると警戒し、ついに1792年6月、主要なジロンド派大臣を解任します。ローランやデュムーリエらは辞任または更迭され、ジロンド派内閣は崩壊しました。これは、王と議会多数派との妥協が完全に破綻し、立憲君主制が事実上行き詰まりに達したことを意味していました。

ジロンド派内閣の崩壊は、パリ民衆の怒りに火をつけました。彼らは、王が革命勢力を排除し、反革命へと舵を切ろうとしていると受け止め、これ以上君主制を維持することはできないと考えました。その帰結として、1792年8月10日、武装した民衆と義勇兵が再びチュイルリー宮殿を襲撃し、王権は打倒されます。この「8月10日事件」は、王政廃止と共和国成立への決定的な一歩であり、ジロンド派内閣の短命とその崩壊が、王政の終焉を早める一因となったといえます。

歴史的意義とその後の革命への影響

ジロンド派内閣の歴史的意義は、第一に「革命政権と王権の最後の妥協の試み」として位置づけられます。ジロンド派大臣たちは、立憲君主制の枠組みを維持しつつ、革命の成果を守り、さらに対外戦争を通じてそれを拡大しようとしました。しかし、国王の根本的な不信と拒否権の乱用、戦争の混乱と民衆の急進化が重なり、この妥協は短期間で破綻しました。

第二に、ジロンド派内閣は「革命戦争の出発点」を形づくりました。1792年4月の宣戦布告は、その後10年以上にわたる対仏戦争・ナポレオン戦争の大きな流れの起点であり、フランス革命を国内政治の事件からヨーロッパ規模の国際戦争へと拡大させました。戦争は革命を防衛し、広める手段として構想されましたが、同時に国内の緊張と分裂を激化させ、恐怖政治や軍事独裁への道を開いた一因ともなりました。

第三に、ジロンド派内閣の経験は、「議会多数派が行政を担う」という近代議会制の萌芽を示す一方で、強力な国王権と革命的民衆運動に挟まれた内閣の脆弱性も浮き彫りにしました。ジロンド派の大臣たちは、議会内の支持は持っていたものの、パリの民衆や全国の兵士の信頼を十分には得られず、また王の支持も失うことで政治的孤立に陥りました。この構図は、後のフランス政治における「議会と通り(街頭)」「中央と地方」の緊張関係を先取りするものでもあります。

第四に、ジロンド派内閣の崩壊は、その後のジロンド派全体の運命を暗示するものでした。彼らは王政打倒後の国民公会でも一定の勢力を保ちましたが、山岳派とパリ民衆の圧力のもとで次第に追い詰められ、1793年には多数の議員が逮捕・処刑されます。ジロンド派内閣の短い経験は、穏健ブルジョワ共和派が革命の急進化に対応しきれず、左右から挟撃されて敗北する過程の序章といえるでしょう。

世界史の学習において「ジロンド派内閣」という用語が出てきたときには、(1) 1792年春のジロンド派主導政府、(2) オーストリアへの宣戦布告による革命戦争開始、(3) 国王との対立と大臣更迭、(4) 8月10日事件と王政の崩壊への流れ、というポイントをまとめて押さえておくと理解が深まります。そのうえで、革命期フランスの政治が、単純な「王政対人民」という図式ではなく、王権・議会・民衆運動・地方勢力など多様なアクターの力関係の中で動いていたことを意識すると、「ジロンド派内閣」の意味がより立体的に見えてくるはずです。