ヴァレンヌ逃亡事件は、1791年6月20日夜から21日未明にかけて、フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが家族と共にパリを脱出し、東部国境方面へ逃走を図って失敗した出来事です。目的地はロレーヌ方面のモンメディ周辺で、王党派軍を率いるブイエ侯の保護下に入り、革命の進路を立て直すことにありました。ところが一行は、道中で身分を見破られてアルゴンヌの森の小町ヴァレンヌで足止めされ、護送されてパリへ連れ戻されました。この事件は、立憲君主制の信頼を決定的に損ない、王の「国民の父」像を崩し、のちの共和政樹立へ向かう政治過程を一気に加速させました。国外では、同年8月のピルニッツ宣言など、列強の対仏姿勢を硬化させる契機にもなりました。要するに、ヴァレンヌ逃亡事件とは、王権と革命の同居が現実には成り立たないことを露呈させた、フランス革命の転換点です。
背景と計画:王権の窮地、脱出の構想、道中の破綻
1789年の革命勃発から2年、王権は大幅に制約され、王家は実質的にテュイルリー宮殿に「幽閉」される状況でした。教会財産の国有化、紙幣アッシニャ(Assignat)の発行、聖職者民事基本法への誓約をめぐる対立、パリ民衆と国民衛兵の高い政治化は、王・宮廷・貴族に深い不信と恐怖をもたらしました。王妃はハプスブルク皇女としての人脈を持ち、国境の向こうで王党派軍を集めるブイエ侯(フランソワ=クロード・アムリ・ド・ブイエ)と連携して、王家を安全圏へ移し、立憲秩序の再交渉を図る構想を温めました。
計画の細部は秘密裏に練られました。スウェーデン貴族フェルセン伯は、密書の運搬や馬車の手配などで重要な役割を果たしました。脱出は、身分を偽装した王妃と子女、その後に控えめな衣装で歩く王という二段構えで、衛兵の注意をそらす段取りでした。大型で重い旅行馬車の選択は、乗り心地や体裁を優先した反面、速度と目立ちやすさという致命的な弱点を抱えました。深夜にテュイルリーを抜け出した一行は、サン=メヌーへ、さらに東方の幹線へと進路を取り、モンメディ近郊でブイエの部隊と合流するはずでした。
しかし道中、綻びが生じます。遅延や乗継の不手際で予定時刻から大きくずれ、沿道の哨戒部隊との接触も乱れました。サント=ムヌールドの郵便役人ジャン=バティスト・ドルーエは、アッシニャ紙幣の肖像で見慣れた王の顔立ちに気づいたと伝えられます。すぐさま彼は馬で先回りし、ヴァレンヌの市当局に通報、橋を封鎖して一行を足止めしました。王が身分証の提示を求められた場面や、地方役人たちが憲法と国民の名において護送を決定する緊迫のやり取りは、後世の記憶に強烈な印象を残しました。
6月21日から24日にかけて、王家は国民衛兵と地方民兵の監視のもとで逆ルートを辿り、沿道では沈黙と敵意が入り混じる視線に晒されました。6月25日、パリ帰還。国民議会は王の権限を一時停止し、事件の調査と憲法制定作業の続行を決めました。王家はテュイルリーに再び留め置かれ、民衆の失望と怒りは、立憲君主制の土台を下から侵食していきました。
政治的帰結:立憲君主制の失速、共和国への傾斜、対外関係の硬化
事件の最大の帰結は、立憲君主制の正統性が致命的に傷ついたことです。王が国民代表と憲法に忠実な「立憲君主」であるなら、首都からの逃亡は起こりえないはずでした。議会多数派(憲法制定国民議会の穏健派)は、国家の安定のために「王は拉致・誘拐同然で連れ出された」と解釈し、王の地位を即時には剥奪しませんでした。実際、1791年9月に完成した「1791年憲法」の公布に先だって、ルイ16世は憲法を受諾し、立憲君主として復位する形を取りました。
しかし、民衆や急進派は納得しませんでした。7月17日のシャン・ド・マルス事件では、王の退位と共和政を求める請願集会に対し、ラファイエット率いる国民衛兵が発砲し、流血の事態となりました。穏健派は秩序維持の名のもとに急進派を抑え、王政と憲法の並立を試みましたが、信頼の崩壊は止まりません。新聞・パンフレットは、王妃の外国干渉疑惑や王家の「裏切り」を追及し、街頭の政治文化は王政否認へと傾きました。
対外的にも事件は波紋を広げました。王妃の実兄にあたる神聖ローマ皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は、8月にピルニッツで会談し、フランス王権の安全とヨーロッパの秩序維持のために「必要な措置」をとる用意があると示唆しました(ピルニッツ宣言)。これは直ちに軍事介入を意味したわけではないものの、フランス革命を国際問題化し、翌1792年の対外戦争(第一回対仏大同盟)への道を開く心理的圧力となりました。国内では、外敵の脅威がかえって「祖国防衛」の情念を高め、王政への疑念はますます深まりました。
制度面では、1791年憲法が成立しても、三権関係は緊張をはらみました。国王には拒否権(停止的拒否権)が与えられ、これが国会の法案成立を遅延させる摩擦要因となりました。国王の拒否と議会の再可決の応酬、国境情勢の緊迫、経済の不安定が重なるなか、1792年夏以降、事態は急進化します。8月10日事件でテュイルリーが襲撃され、王権は停止を通り越して実質的崩壊に至り、1792年9月の国民公会において王政廃止と共和国宣言がなされました。ヴァレンヌ以降の1年は、立憲王政の可否をめぐる「猶予期間」に見えながら、実は不可逆的な下り坂だったのです。
世論・宣伝・記憶:地方の視線、新聞とパンフレット、逃亡のディテール
ヴァレンヌ逃亡は、パリだけでなく地方社会の政治化を進めました。町や村の自治体は、国民衛兵の編成、通行証の管理、宣誓の確認、情報の掲示といった実務を担い、王家護送のニュースは各地で議論と論争を呼びました。地方の司祭や貴族の一部は、良心と秩序のはざまで態度を決めかね、共同体の分断が深まりました。王の「人間としての弱さ」への同情と、「国家元首としての裏切り」への憤りは、家庭や職場、酒場や市場で交錯しました。
印刷メディアは、事件の意味付けを競いました。穏健派の新聞は、王を擁護しつつも責任の所在を曖昧化し、再統合の必要を説きました。急進派紙は、王妃を「オーストリア女」と呼んで外国陰謀の象徴とし、王政打倒の論理を練り上げました。パンフレットは、逃亡経路や偽装の滑稽さ、王の鈍重さ、王妃の冷酷さを面白おかしく描き、宮廷の秘密書簡やフェルセンとの関係を暴露する文書が出回りました。政治の「物語化」は、識字の進む都市大衆に強い効果をもたらし、民兵や区民会議の決議に反映されました。
逃亡のディテールは、しばしば象徴化されました。重厚な馬車、豪奢な衣装、侍女や子供を伴った一行の行列は、平時の宮廷文化の延長としての「離宮への小旅行」のようにも見え、革命の緊急時における感度の鈍さを露呈しました。対照的に、ドルーエの通報、町役人の即断、橋の封鎖、地方国民衛兵の迅速な動員は、新しい主権が末端で作動した瞬間を象徴しました。「王を見た」人々の証言は、民衆史の素材となり、王権神話を打ち消す多数の小さな物語を生みました。
王家帰還の際、沿道の沈黙は政治的ジェスチャーでした。歓呼も罵倒も極力抑えられた無言の行進は、「主権者はわれわれだ」という冷たい視線で王を包みました。これは、恐怖や憎悪の爆発とは別種の、制度的な拒絶の表現でした。やがて、王の裁判と処刑をめぐって、民衆の感情は再び高ぶりますが、ヴァレンヌで始まった「距離」の感覚は、その後の政治文化に長く影を落としました。
史料と評価:何が転換点だったのか、なぜ戻れなかったのか
事件の復元には、多様な史料が用いられます。議会議事録、地方自治体の記録、王と王妃の書簡、護送に関与した役人・将校・市民の証言、新聞とパンフレット、版画、回想記などが相互に検証されます。王妃の手紙やフェルセン書簡は、外交と私情の交錯を示し、王の政治的判断の揺れと家族としての心情を同時に伝えます。地方記録は、市民が法の名において王を拘束するという「主従逆転」の瞬間を生々しく記録しました。
歴史学の評価は、おおむね二つの軸で整理できます。第一は、ヴァレンヌを「立憲君主制の破綻点」とみる立場です。ここでは、議会の寛大な取り扱いにもかかわらず、王が憲法政治に適応する意思を欠き、君主制と国民主権の両立が不可能であったと結論づけます。第二は、ヴァレンヌを「戦時化への加速装置」とみる立場です。ピルニッツ宣言を含む国際環境の緊張と、国内の不信が相互に増幅し、外的脅威が内政の急進化(共和政・非常法廷・総力動員)を招いたと説明します。いずれの立場でも、事件が政治体制の選択肢を狭め、妥協空間を縮小させた点では一致します。
では、なぜ戻れなかったのか。制度設計上、1791年憲法は王に停止的拒否権を与え、行政の継続性を確保しようとしましたが、信頼が消えたとき、その権限は「妨害権」に見えました。経済不安、貨幣価値の動揺、対外危機の深刻化は、政治の忍耐力をすり減らしました。王の宗教的良心や王妃の血縁外交といった「正直な動機」も、国家の危機管理にとっては悪手となり、象徴君主としての振る舞いと衝突しました。ヴァレンヌは、個々の失策の集積であると同時に、旧体制と新体制の論理が同じ船に乗れないことを示した事件だったのです。
総括すると、ヴァレンヌ逃亡事件は、フランス革命における「見えない分水嶺」でした。銃声や流血ではなく、王の不在という空白が政治の中心にぽっかりと穴を開け、そこに「国民」が座り直した日だったからです。以後の出来事—シャン・ド・マルス、ピルニッツ、1792年の戦争、8月10日、9月の共和国宣言—は、この分水嶺の片側に雪崩れていく連鎖として理解できます。ヴァレンヌを学ぶことは、権威の象徴が信頼を失ったとき、制度がどのように変形し、社会がいかにして新しい主権を獲得するのかを考える手がかりになります。

