サッコ・ヴァンゼッティ事件 – 世界史用語集

サッコ・ヴァンゼッティ事件は、1920年に米国マサチューセッツ州で起きた強盗殺人をめぐり、イタリア系移民の無政府主義者ニコラ・サッコとバルトロメオ・ヴァンゼッティが逮捕・有罪・死刑となった一連の経過と、その後の再検証・論争を指す言葉です。事件は単なる刑事事件を越え、第一次世界大戦後の赤色恐慌(レッド・スケア)、移民差別、思想弾圧、陪審制度と証拠評価、死刑制度の是非といった近代社会の多層的問題を浮き彫りにしました。二人の有罪性そのものをめぐっては今なお見解が割れますが、「公平な裁判が行われたか」という問いについては、司法の中立性や偏見の影響を検討する代表的ケースとして世界的に参照され続けています。

舞台は1920年4月15日、ボストン南方サウス・ブレイントリーでの給与輸送襲撃・二名殺害事件です。二人は無政府主義者(ガレアーニ派)のネットワークに属しており、逮捕時には武装し、徴兵忌避・亡命歴など政治的に不利な事情を抱えていました。これらの事情が、当時の反急進・反移民感情と結びついて偏見の温床となり、司法手続や証拠評価にどのような影を落としたのか—それこそが事件の核心です。

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事件の発生と時代背景:赤色恐慌、反移民感情、ボストン郊外の銃声

1920年4月15日、マサチューセッツ州サウス・ブレイントリーの靴工場前で、ペイロール(給与)を運んでいた会計係フレデリック・パーメンターと警備員アレッサンドロ・ベラルデッリが、白昼、至近距離から銃撃され死亡、現金袋が奪われました。犯人は複数で、自動車で逃走したとされます。現場は労働者の出入りが激しく、目撃証言は混乱し、加害者の人相・服装・発砲の方向などが食い違っていました。

当時のアメリカ社会は、第一次大戦直後の不況とストライキの多発、1919年の郵便爆弾事件、ボリシェヴィキ革命の衝撃などで、不安と反急進主義が高まっていました。司法長官パーマーによる一斉検挙(いわゆるパーマー・レイド)に象徴される赤色恐慌の空気のなかで、急進派・移民労働者・無政府主義者は治安上の「脅威」とみなされがちでした。イタリア南部出身の移民で、無政府主義の小グループに出入りしていたサッコとヴァンゼッティは、まさにその偏見の的になりやすい属性を幾つも重ね持っていたのです。

5月5日、ボストン市内で警戒中の警官により二人は別件の疑いで拘束され、携行していた拳銃・弾薬、革命派の文書、徴兵忌避の経緯などが押収されました。以後、彼らはサウス・ブレイントリー事件の容疑者として本格的に追及されます。サッコは靴工場労働者で、家族持ちの熟練工。ヴァンゼッティは行商の魚売りで、英語はたどたどしく、政治談義を好んだといいます。両人とも無政府主義者ルイージ・ガレアーニの雑誌・集会の読者・参加者であり、過激派ネットワークとの関係が警察・検察の疑念を決定的に強めていきました。

捜査・裁判の経過と証拠:弾道鑑定、目撃証言、バイアスの交錯

刑事手続は二段階で進みました。まずヴァンゼッティは、事件に先立つ1919年12月のダッジ弾薬輸送車襲撃に関する武装強盗未遂で先に起訴・有罪となり、その判決言い渡しは後の本件裁判に不利な印象を与えました。続く1921年の本件強盗殺人の陪審裁判では、裁判長ウェブスター・セイヤー(Thayer)と郡検事のもと、多数の目撃証言と物的証拠が提出されます。

物証の中心は弾道鑑定銃器の同一性でした。サッコが逮捕時に所持していたのは.32口径の自動拳銃(コルト)で、検察側は致命傷を与えた弾丸(通称「弾丸III」)がこの銃から発射されたと主張しました。一方、弁護側は、当時の弾道学の限界と鑑定過程の不透明さ(試射弾と証拠弾の取り違え疑惑、検察側証人の先入観)を突き、確定性が低いと反論します。ヴァンゼッティの.38口径回転式拳銃については、警備員ベラルデッリから奪われた銃と同型・同メーカーであることが示されましたが、いかにして彼の手に渡ったかを立証する決定的証拠はなく、弁護側は「偶然の一致」または「押収時の混乱」を主張しました。

目撃証言は、言語・距離・時間・恐怖による記憶の混乱と、当時の写真照合・面通し手続の粗雑さから、互いに矛盾が目立ちました。帽子の形、口髭の有無、背格好の描写は一致せず、検察側有利の証言が誘導や偏見に左右された可能性も指摘されました。他方、弁護側の提示したアリバイも決定打に欠けます。サッコは「事件当日はボストンのイタリア領事館にパスポート申請に行っていた」と主張し、ヴァンゼッティは「故郷の祭日のため魚を売って回っていた」と述べましたが、時刻の詰めが甘く、証言の一貫性にも弱点がありました。

裁判官セイヤーの言動は後年の大きな争点です。閉廷外での被告人・思想に対する侮辱的発言(「アナーキストのやつら」等)や、弁護側の反対尋問・新証拠申請に対する強硬な却下は、裁判の公正さに疑念を抱かせました。さらに、1925年には囚人セレスティーノ・マデイロスが「本件の実行犯は自分と別の犯罪一味(モレッリ・ギャング)で、二人は無関係だ」とする自白を提出しますが、セイヤーは新証拠としての採用を拒み、州知事アルヴァン・フラーが任命した再調査委員会(ローウェル総長ら)も有罪維持の結論を出しました。かくして二人は最終的に上訴を退けられ、1927年8月23日に電気椅子で処刑されます。

世界的反響と文化的遺産:抗議運動、知識人の論争、言葉としての「サッコ・ヴァンゼッティ」

二人の裁判と死刑は、米国内外で大規模な抗議運動を引き起こしました。ボストン、ニューヨーク、ロンドン、パリ、ブエノスアイレス、東京などでデモや集会が相次ぎ、労働団体・移民コミュニティ・自由主義者・社会主義者・カトリック教会の一部が、判決の撤回や減刑を求めました。著名な知識人・芸術家—フェリックス・フランクフルター(後の米連邦最高裁判事)、ジョン・ドス・パソス、H・G・ウェルズ、ラビンドラナート・タゴール、ロマン・ロラン、アインシュタイン、バーナード・ショー—らが意見表明し、裁判の手続的正義が焦点化されます。

文学・芸術では、U・シンクレアの小説『ボストン』、ドス・パソスの詩的プロパガンダ、エドガー・リー・マスターズの詩篇、演劇・映画・音楽の作品群が相次ぎ、二人は労働者と移民の象徴として描かれました。死刑前後に獄中から発せられた書簡は『サッコとヴァンゼッティ獄中書簡集』として広く読まれ、自己弁明を越えて、家族への愛情、正義への信、仲間への連帯の言葉として感受されました。以後、「サッコ・ヴァンゼッティ」は、〈裁判の公正さをめぐる論争〉や〈国家と急進思想の衝突〉のメタファーとして国際語彙に定着します。

一方で、当時の米国社会における恐怖と暴力の連鎖—郵便爆弾事件、警察と労働者の衝突、KKKの台頭—も、対立を激化させました。事件の国際化は米国内では逆効果を生み、「外圧による司法への干渉だ」とする反発を招く面もありました。支持者と反対派の双方が、二人を〈象徴〉として動員する過程で、個別具体の証拠の吟味が置き去りになる危険も繰り返し指摘されました。

再検証と現在:後年の弾道再鑑定、州知事宣言、法制度に残した課題

処刑後も、事件は再検証の対象であり続けました。1930年代以降、銃器・弾道学の進歩により、証拠弾とサッコの拳銃の同一性を再評価する試みが重ねられ、1960年代の再鑑定では「致命弾はサッコの銃から発射された」とする結論が報告されました。しかし、この結論自体が証拠保全の不備(保管中の入替え・混入の可能性)や、当時のチェーン・オブ・カストディ(証拠管理の連続性)に起因する不確実性により、完全な決着とは言えませんでした。ヴァンゼッティについても、ベラルデッリの銃との同一性は決定的に証明されないままです。

1977年、事件50年にあたり、マサチューセッツ州知事マイケル・デュカキスは宣言を発し、「二人の裁判は公正さを欠き、偏見が結果に影響した。彼らの名誉に付された汚名は永遠に取り除かれるべきだ」と述べました。これは法的な無罪判決や恩赦ではなく、〈歴史的な名誉回復〉に近い政治的・道義的声明でしたが、州としての公式評価の転換を示す画期でした。

事件が法制度・法意識に残した宿題は少なくありません。第一に、裁判官・陪審のバイアス管理です。思想・出自・宗教・言語の違いが判断に混入しないための審理運営、陪審選任、裁判官の懲戒と再審の基準などが問い直されました。第二に、証拠の科学化と透明性です。弾道・指紋・DNAといった法科学は、手続的な可視化と反対尋問に耐えるプロトコル、証拠保全の厳格な連続性確認(チェーン・オブ・カストディ)によってのみ信頼を得る、という教訓が確認されました。第三に、国家安全と市民的自由のバランスです。非常時の治安対策(赤色恐慌・テロ対策)が、特定のコミュニティ(移民・宗教・政治的少数派)への偏見と結びついたとき、司法が最後の防波堤として機能し得るのか—この問いは今日にも直結します。

総括として、サッコ・ヴァンゼッティ事件は、二人の有罪・無罪を超えて、〈公正な裁判とは何か〉〈社会の不安と偏見は司法にどう影響するか〉を考える歴史教材です。ボストン郊外の一つの強盗殺人は、やがて世界中の街角で掲げられたプラカードとなり、学者の論陣と市民の叫びを巻き込む渦となりました。証拠の断片、裁判官の言葉、獄中の手紙、死刑前夜の最期の挨拶。それらのすべてが、一世紀を経た今もなお、「正義」の輪郭をなぞり直す材料であり続けています。