金城(慶州) – 世界史用語集

「金城(きんじょう)」は、朝鮮半島の新羅王国の都として機能した都市、のちの慶州(キョンジュ)を指す呼称です。史書には「金城」のほか「徐羅伐(そらぼる)」「鷄林(けいりん)」など複数の別名が見えますが、いずれも新羅の政治・宗教・文化の中心を意味します。金城=慶州は、三国時代から統一新羅期(7~9世紀)にかけて繁栄し、唐との交流や仏教文化の成熟、骨品制による身分秩序の運用など、朝鮮古代史の核心的出来事の舞台となりました。王宮跡(月城=半月城)や東宮と月池(旧称・雁鴨池/安鴨池)、瞻星台、巨大な前方円墳状の積石木槨墳群、さらに郊外の仏国寺・石窟庵に象徴される宗教建築群は、この都が軍事・政治・信仰・科学・芸術の結節点であったことを今に伝えています。現在の慶州一帯はユネスコ世界遺産に登録され、東アジア古代都市のあり方を示す実物の「歴史アーカイブ」として高い評価を受けています。

理解の鍵は三つあります。第一に、金城は新羅国家の形成・拡大・統一の動力源であり、王権と貴族が集住し、対外戦略と内政改革を同時に進める「政治工房」だったことです。第二に、都城と周辺の宗教・葬送空間が緻密に配置され、仏教儀礼・祖先祭祀・天文観測・水利管理が一体化することで、王権の神聖性と秩序が可視化されていたことです。第三に、金城は海陸の交通の結節点に位置し、唐・渤海・倭(日本)・宋以前の華南世界などへの回路を通じて、技術・人材・思想・文物が往来するハブであったことです。以下では、名称と位置・歴史的変遷、都市構造と主要遺構、政治社会と対外交流、文化遺産とその継承の順に整理して解説します。

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名称・位置・歴史的変遷:金城から慶州へ

金城は新羅の王都の雅称で、漢字による表記は時代と文脈によって揺れがあります。「金」は金氏王統(朴・昔・金の三姓王統のうち、のちに主流となる金氏)や輝き・富饒を示す文字的象徴とも結びつき、「城」は王都としての城柵・都城を示します。新羅は三国時代に高句麗・百済と対峙しつつ、慶州盆地を基盤に勢力を伸ばしました。7世紀後半、唐との協力と競合を経て百済・高句麗を滅ぼし、統一新羅を成立させます。その政治・儀礼の中心が金城でした。

地理的には、金城(慶州)は慶尚北道の内陸に位置し、盆地を貫く形で流れる玄武岩質の低丘陵と川(代表的には洛東江水系に通じる形の泗川や形式上の支谷)に囲まれます。東へ進めば浦項・蔚山方面から東海(日本海)に出られ、西は慶州—大邱—忠清方面を経て陸路で半島の内陸交通に接続します。こうした海陸の回路は、国際交易や朝貢・遣使、軍事動員の基盤となりました。

王都の歴史は長く、古くは小国連合の中心地としての性格を持ち、のちに王権の強化とともに宮城・市街・宗教施設・墓域が階層化されます。7~8世紀、文武王・神文王・景徳王らの代には、律令の整備と行政区域(九州・五小京など)の再編が進み、金城は中央集権化の司令塔として機能しました。9世紀後半から10世紀にかけて後三国期の混乱が深まると、都の威勢は相対的に低下し、最終的に935年、新羅は高麗に降伏して王朝史を閉じますが、金城/慶州はその後も宗教・学術・記憶の中心地として存続しました。

都市構造と主要遺構:宮城・天文台・水景・墳墓・寺院

金城の核心は王宮区画で、代表遺構が「月城(ウォルソン、半月城)」です。外形が半月形を描く土城で、内側には王宮施設や官衙、儀礼空間が配されました。月城の北東には「東宮と月池(トングンとウォルジ)」があり、かつては雁鴨池(安鴨池)と呼ばれていました。これは王太子宮(東宮)に付属した人工池庭で、石組みの築堤と島・湾曲した岸線が巧みに組み合わされ、王都の美観と水利・園池工学を象徴します。池から出土した瓦・木簡・器物は、儀礼・饗宴・行政実務が交差していたことを物語ります。

科学・観測施設として著名なのが「瞻星台(チョムソンデ)」です。整然と積まれた石材で構成される瓶状の塔は、天文観測・暦作成・吉凶判断など王権の神聖性と政治決定に関わる知の装置でした。天象観測は農耕や儀礼の日取りに直結し、唐をはじめとする周辺文明の天文知識を受容・変容しながら、独自の暦法運用が行われたと考えられます。

慶州の市街と周辺には、王侯貴族の墳墓群(大陵苑など)が圧倒的な存在感で広がります。新羅の古墳は積石木槨墳と呼ばれる独特の構造で、木槨(木製の棺室)を置き、その上を小石で覆い、さらに盛土を重ねて築成します。盗掘が容易ではないため、出土品の保存状態が良く、金冠や耳飾り、帯具、玉器、馬具、ガラス玉などの副葬品が新羅工芸の高度さと国際交易の広がりを示します。金冠に見られる樹木状・角状の突起は、シャーマニズム的象徴と王権の神秘性を視覚化した意匠として知られます。

宗教建築では、都心からやや離れた山麓・渓谷に展開する仏国寺・石窟庵が統一新羅の宗教美術の到達点を示します。仏国寺は壮大な伽藍配置と石造建築・橋梁(青雲橋・白雲橋)で知られ、石窟庵は人工石窟の中心に釈迦如来坐像と菩薩・羅漢を配した精緻な空間を持ちます。両者は王権・貴族の篤い仏教扶持を背景に、国家的事業として造営され、王都金城の宗教的権威を地形と建築で可視化しました。都市近郊には他にも芬皇寺・皇龍寺などの大寺院が存在し、塔心礎や金堂跡から当時の規模が推測されます。特に皇龍寺は九層木塔で名高く、国家守護の象徴でした。

水利・街路・市場も重要です。金城の盆地は洪水と渇水の両方に備える必要があり、堰や水路の整備、池の調整機能が重視されました。直線と曲線を織り交ぜた街路は宮城から放射状・格子状に延び、市場(市)や手工業の工房が分布しました。瓦・鉄器・漆工・玉細工などの生産は都の需要を支え、官営工房と民間工房の相互補完が見られます。

政治社会と対外交流:骨品制・花郎・唐・倭との往来

金城を中心とする新羅社会の統治原理として著名なのが「骨品制(こっぴんせい)」です。聖骨・真骨・六頭品以下に区分される身分秩序は、王位継承や官職任用、婚姻、衣服・住居・乗り物に至るまで細かな規定を設け、貴族社会の序列を維持しました。王都金城では、この骨品制に基づく官僚機構が機能し、中央六部制や官司の分掌、律令の運用が行政の骨格を成しました。身分の固定性は社会の安定と統治の予見可能性をもたらす一方、流動性の不足という硬直も内包しました。

武と徳の涵養を担った青少年組織「花郎(ファラン)」は、宗教儀礼・山水修行・武芸訓練を通じて王権への忠誠と共同体倫理を育み、金城の政治文化に独自の色彩を与えました。道徳的規範(花郎五戒)や修行の伝承は、仏教的慈悲と武士的勇気の折衷として語られ、外征や統一戦争の人的基盤を提供します。

対外的には、唐との関係が最重要でした。統一戦争の過程で新羅は唐の軍事支援を受けつつも、戦後の領有問題で対立し、金城は外交交渉と軍事対処の司令塔となります。唐からの制度・文物・学問の受容は積極的で、律令・科制・年号・仏教経典・建築技術・楽舞・服制など、多方面にわたりました。また、渤海や日本(倭)との交流も盛んで、遣新羅使・入唐求法僧の往来、商人による海上交易が金城の市場と文化に新風をもたらしました。倭との間では、外交の緊張と交易の実利が交錯し、海上の治安や漂流民処遇、工人・僧侶の移動が国際関係の具体相を形づくります。

王都はまた、地方統治のハブとして、文書行政と物流を統括しました。木簡・墨書土器・碑文などの史料は、租税(貢調)や労役(庸)の徴収、軍団の編成、工事の割当てが精密に運用されていたことを示します。金城の官僚は地方の州・郡・県に派遣され、戸籍・田籍の管理や治安維持、宗教施設の監督を担いました。これらのネットワークは、王都での儀礼と法制の権威づけによって支えられていました。

文化遺産とその継承:美術工芸・仏教思想・世界遺産

金城文化の可視的な結晶は、美術工芸に顕著です。金冠・金製耳飾り・透彫金具・ガラス玉・金銅仏・青銅器は、金属加工と宝飾技術の粋を示し、シルクロード経由の技術・素材・意匠(花鳥文、葡萄唐草、グリフィン風のモチーフなど)の受容をうかがわせます。漆工や木工、瓦・土器の文様も、王権儀礼と貴族生活の美学を支えました。石造建築・石塔・塔心礎は、木造寺院の失われた上部構造を補助的に再現させる鍵であり、建築史の復元に不可欠です。

思想面では、仏教が国家理念として定着しました。新羅仏教は戒律・教学・禅の諸潮流を取り込み、元暁・義湘らの思想家が華厳思想や一心思想を展開し、王権の正統と慈悲の政治を理論化しました。金城の寺院は教育・福祉・外交の拠点でもあり、僧侶は通訳・文書作成・外交儀礼に携わる知的エリートとして機能します。仏教はまた、葬送儀礼や都市の景観設計(伽藍配置・塔のシルエット)を通じて、市民の時間感覚と空間感覚を方向づけました。

現在、慶州歴史地域(月城地区、山城地区、皇龍寺地区、邑城地区、南山地区、仏国寺・石窟庵地区など)はユネスコの世界遺産に登録されています。保存・整備は長期にわたる考古学調査と文化財保護政策に支えられ、出土遺物の展示・活用、遺跡公園の整備、景観保全の取り組みが続いています。観光振興と遺跡保全の両立は難題ですが、発掘成果の公開、デジタルアーカイブ化、地域住民の参加型マネジメントが進み、過去の都城を現在の公共資源として生かす試みが重ねられています。

金城/慶州は、単なる古都ではなく、古代東アジアの国家形成、宗教政治、国際交流、都市工学、美術工芸が交差した総合現象の現場でした。王宮の土塁や池のさざめき、天文台の静けさ、墳墓の盛り上がり、寺院の石組みは、それぞれが王権の象徴にとどまらず、科学知と宗教知、実務と儀礼が融合した統治の装置でした。今日の私たちは、遺跡と遺物を通じて、金城がどのようにして住民の生活を組織し、遠い海の彼方と結びつき、自然環境と折り合いをつけながら、持続可能な都城の運用を試みていたのかを立体的に読み解くことができます。慶州の大気に積み重なった時間は、新羅の栄枯盛衰を超えて、古代都市が持っていた知の厚みと、地域社会に根ざしたガバナンスの可能性を静かに語り続けているのです。