王莽(おう もう、前45頃?―23)は、西漢末から新(しん)王朝(在位9―23)を樹立した政治家で、儒教の古典に基づく理想主義的な制度改造を断行したことで知られる人物です。彼は名門・王氏(外戚)に生まれ、叔母の王政君(元帝の后、成帝・哀帝・平帝の皇太后)を後ろ盾に、若年で高位に上りました。やがて幼帝の後見(摂政)として実権を握り、前漢の皇統を簒奪して「新」を建てます。王莽の政治は、土地の公有化や奴婢の売買禁止、通貨制度の再編、度量衡と官制の改変、周礼の復古と天人相関論による瑞兆(天命)演出など、広範な改革を伴いました。ところが、豪族・官僚・商人の利害を逆撫でし、頻繁な改定で現場を混乱させ、加えて黄河の氾濫や飢饉・疫病・異民族動乱が重なって、各地で緑林・赤眉などの反乱が勃発します。23年、長安は包囲され、王莽は宮城で戦死し、新は滅亡、劉氏が漢を再興(更始政権を経て後漢へ)します。王莽の評価は、古典復古の理想主義と、社会経済の実態を読み誤った破綻の二面を併せ持つ点にあります。以下では、出自と簒奪への道、改革の体系、崩壊の過程、歴史的評価を整理します。
出自と台頭――外戚王氏の清廉派から摂政へ
王莽は名門・王氏の一族に生まれ、伯父や従兄の多くが高官でしたが、若い頃は質素と勤学で知られました。狩猟や音楽に耽る一族の中で、彼は儒書の素読と倹約で名声を築き、清廉な人材を好む士大夫層の支持を得ます。この「清名」は、のちに政治的資源として大きく作用しました。
前漢末、外戚と宦官、士大夫と宮廷勢力の角逐が激化するなか、王政君(皇太后)が権門として君臨し、甥の王莽を重用しました。哀帝が崩じ、幼い平帝が擁立されると、王莽は大司馬・仮黄鉞として軍政を掌握、やがて「安漢公」と称し、恩賞や恩赦を巧みに使って官僚と郡国の支持を拡げます。平帝の死後は更に摂政を強化し、周礼復古を名目に官制と儀礼を作り替え、「天命」の移動を示す瑞兆・符命の物語を積み重ねて、ついに紀元9年、自ら帝位に登り「新」を建てました。
この過程で王莽は、姻戚や名士を巻き込み、贈与・叙爵・恩典を用いた支持連合を組み立てます。同時に、反対派に対しては法の文言を駆使した糾弾や左遷で圧力をかけ、直接的な流血を最小化しつつ実権を奪取しました。彼の台頭は、単純な軍事クーデターではなく、儒教的正統論と宮廷政治の術を組み合わせた「合法性の演出」によって達成されたことが特徴です。
改革の体系――古典復古と社会改造の試み
王莽の改革は、しばしば「周礼の復古」と総称されますが、内容は行政・経済・社会規範にわたって多岐に及びます。核心は、(1)土地・戸籍・奴隷制の是正、(2)貨幣・度量衡・市易の再編、(3)官制・爵制・地名・礼制の古典準拠への改造、(4)対外・辺境政策の再設計、に整理できます。
第一に土地制度です。王莽は「王田制(おうでんせい)」を掲げ、土地の私的売買を禁じ、原則として土地は王土であり、民はその受益権を持つと位置づけました。豪族による土地兼併の是正を狙い、売買による貧富の固定を断とうとしたのです。また、奴婢の売買を禁じ、すでに奴婢化した者の多くを良民に編入する政策を打ち出しました。これは弱者救済の理念に合致しましたが、現実には豪族・商人の激しい抵抗を招き、合法・非合法の抜け道が横行しました。郡県の役人も既得権に絡んでいたため、執行は徹底しませんでした。
第二に貨幣・度量衡です。新は短期間に幾度も貨幣制度を変更し、刀銭・布銭・円形銭・金貨・白金など、多種類の貨幣を発行しました(布泉・大泉五十・小泉直一など)。理屈では交易の区分・等級化と、国家による「正しい貨幣」を普及させる狙いがありましたが、発行の頻繁さと複雑さが市場を混乱させ、偽造・悪貨横行・価格の乱高下を招きました。度量衡の統一は理念としては正当でしたが、各地の商慣行を無視した上意下達が反発を呼び、徴税・価格申告の実務が麻痺しました。
第三に官制・爵制・地名・礼制の改造です。王莽は周代にならって官名・爵位・封建の語彙を復活させ、地名や官職名を大規模に改称しました。諸侯王・列侯の性格も修正され、中央の監督を強める一方、名目上は「古制の再興」を装いました。出土文書や金石資料に見える印章・官名の変遷はその痕跡を示します。儀礼面では、色(五行)・暦・廟号の改定を行い、天人相関論に基づく瑞兆を積極的に宣伝しました。宝璽・符命・予言書(讖緯)の利用は、正統性の演出としては効果的でしたが、懐疑派の冷笑も招きました。
第四に市易と救済です。王莽は「平準」や「常平」に似た価格安定策を打ち、官が市に介入して在庫を調整し、飢饉時には籾や金を放出して価格を抑える構想を提示しました。また、貧民への貸与や農具の支給、灌漑・治水への投資も掲げます。理念は妥当でしたが、財政基盤が脆弱で、黄河の氾濫(11年の大規模な流路変動)や蝗害が追い打ちをかけ、実施は断続的でした。救済の偏在と官の汚職が、かえって不満を増幅させる結果にもなりました。
対外政策では、匈奴との関係再編を図り、羈縻的な称号付与や冊封の枠組みを調整しましたが、北辺の緊張は続きました。南方・西域でも支配の手直しを試みるものの、国内の混乱が外交を掣肘し、長期的な安定を築くには至りませんでした。
崩壊への道――自然災害・反乱・官僚制の硬直
新の命運を決定づけたのは、制度と現実のズレに、異常気象と水害が重なったことでした。11年の黄河大決壊は流路を大きく変え、華北平野の膨大な農地を破壊し、難民を生みました。税収の落ち込みと治水費の増大は財政を直撃し、物価は上昇、貨幣の信認はさらに低下します。地方では盗賊化した流民と、豪族私兵の衝突が常態化しました。
このなかで、南陽・楚地周辺には「緑林(りょくりん)」の勢力が、山東・関中周辺には「赤眉(せきび)」の勢力が台頭します。彼らは当初、租税負担と役務から逃れる生活防衛の集団でしたが、やがて反新・復漢の旗印を掲げ、豪族や地方官の一部を取り込みながら大軍へ成長しました。官軍は士気と補給で劣り、王莽のたび重なる制度改定は現地行政の柔軟性を奪い、軍事対応は後手に回ります。王都・長安では、讖緯と瑞兆に頼る政治演出が続きましたが、民心の離反は止まりませんでした。
23年、緑林の流れを汲む更始帝(劉玄)勢と赤眉の諸軍が関中に殺到し、長安は包囲されます。内応と離反が相次ぐなか、王莽は未だ自信を失わず、宮城の守備で抗戦しますが、ついに陥落。『漢書』は王莽が戦闘のさなかに斬られたと伝え、彼の首級は晒されました。新はこれで滅亡し、劉氏が漢の正統を回復します。しかし、更始政権は短命で、内訌と赤眉の乱暴によって瓦解し、25年に劉秀(光武帝)が洛陽で後漢を創建して、長期の安定に向かいました。
評価と意義――理想主義の限界か、社会保障の先駆か
王莽の評価は、史書の叙述と近現代研究で揺れてきました。伝統的史観では、王莽は「偽善の簒奪者」であり、瑞兆・讖緯を弄して権力を奪い、社会を混乱させた暴政として描かれます。『漢書』班固の筆は、劉氏王朝の正統を支える立場から、新王朝を厳しく断罪しました。他方、近代以降の社会経済史の観点からは、王莽が掲げた土地・貨幣・救済の改革は、豪族的土地所有の専横を抑え、脆弱層を保護しようとした制度実験であったと再評価する声もあります。王田制の理念、奴婢売買の禁止、価格安定策、度量衡の統一などは、方向性としては妥当で、実装の拙さと政治連合構築の失敗が悲劇を招いたという理解です。
この二つの見方は対立するようでいて、実は接続します。すなわち、王莽の理念は一定の正しさを含みつつ、(1)執行体制と官僚の利害調整が不十分、(2)財政と救済の持続可能性への配慮が不足、(3)貨幣制度の頻繁な改編による市場信認の破壊、(4)天命と瑞兆に依拠した政治宣伝の過剰、が破綻を決定づけた、という整理です。改革は、理念・制度設計・執行能力・政治連合・マクロ環境(自然・外敵)の五つがそろって初めて成果を出す――王莽の失敗は、この教訓を後代に強烈に刻みました。
また、王莽の物語は、中国史における「易姓革命」と「外戚・宦官・豪族」の力学を理解する格好の教材です。前漢末の政治危機は、外戚(王氏)と皇帝権の距離、豪族の土地兼併、貨幣経済の進展、辺境防衛のコスト増大といった構造要因の集積でした。王莽はそれを古典復古で解こうとしましたが、現実の社会変動は古典の語彙だけでは統御できませんでした。後漢の成立と、のちの曹魏・晋、隋唐へと続く制度変遷は、王莽の「先走った理想」を現実にどう折り合わせるかの長い試行の歴史でもあります。
人物像の面では、王莽は単なる野心家ではなく、若年期の清廉と学問、年長期の制度設計の執念、そして最後の瞬間の頑強さという、多面性を持つ政治家でした。彼の周礼復古は、冷笑の対象であると同時に、政治が物語と象徴、制度と数値、福祉と秩序のバランスの上に成り立つことを教えています。王莽を学ぶことは、改革の〈何を〉ではなく〈どう実装するか〉、誰の協力を取り付け、どの速度で進め、どのタイミングで修正するかというマネジメントの問題に目を開かせます。
最後に、用語上の注意です。王莽の「王田」は「井田制の再現」と単純に同一視されがちですが、実態は井田の完全復原ではなく、「売買禁止・租佃規制」による兼併抑制策の総称と見るのが適切です。また、貨幣の呼称(大泉五十・小泉直一・貨泉・布泉など)は年代ごとの変更が多く、試鋳や地方流通の差もあるため、具体的な年次・地域を確認して学ぶ必要があります。こうしたディテールの検討は、王莽の改革が理念と実務の間でどのように揺れたかを、より鮮明にしてくれます。

