「国土分割(中国分割)」とは、19世紀末から20世紀初頭にかけて清朝末期の中国で、列強諸国が租借地や租界、鉄道・鉱山の利権、通商・関税制度への支配を通じて広域の「勢力範囲(スフィア・オブ・インフルエンス)」を設定し、中国の主権を著しく制約した過程を指す言葉です。1894~95年の日清戦争と下関条約を契機に加速し、1897~1899年にかけてドイツ・ロシア・イギリス・フランス・日本などが相次いで港湾の租借や鉄道敷設権を獲得しました。しばしば「分割」と表現されますが、アフリカのような形式的領有の切り分けではなく、名目上は清の領土を保ちながら、外交・軍事・経済の実権を列強が握る半植民地的支配が中心でした。これに対して、米国は1899年・1900年の門戸開放通牒で市場の平等主義を唱え、1900年の義和団事件と列強の北京占領、1901年の北京議定書を経て、主権制限は一層制度化されます。他方、中国側でも洋務運動・変法自強・新政、立憲運動や革命派の活動が活発化し、最終的には辛亥革命(1911)で清朝が崩壊、近代国家建設と主権回復の長い闘争が続きました。本稿では、この「中国分割」を、背景・主要事件・利権の仕組み・国際政治・中国社会の応答・その後の収束と長期的影響の観点から整理して解説します。
背景と導火線:不平等条約体制から下関条約、そして「三国干渉」へ
19世紀の中国は、アヘン戦争(1840年代)以降の一連の不平等条約によって、条約港の開放、領事裁判権(治外法権)、協定関税制(低関税固定)、居留・伝道の権利などを列強に与え、沿岸と大河流域に国際商業ネットワークが広がりました。19世紀後半の洋務運動は海軍・兵工・鉄道・鉱山などの近代化を試みましたが、国家規模での制度改革は遅れ、内乱(太平天国、回民蜂起など)と対外圧力の重複が国家の体力を削りました。
1894~95年の日清戦争は、朝鮮半島の宗主権をめぐる対立から勃発し、清軍の敗北により下関条約(1895)で遼東半島・台湾・澎湖の割譲、賠償金、通商特権の拡大が定められました。ところが直後に、ロシア・ドイツ・フランスが「三国干渉」で遼東半島返還を清に要求し、日本が譲歩すると、今度は諸列強が清廷に対して自国の権益確保を競う「借款と利権のラッシュ」に踏み込みます。こうして、沿海の良港・内陸の資源地帯・幹線鉄道の敷設権や鉱区の採掘権をめぐる国際的な争奪が本格化しました。
利権の地理とメカニズム:租借地・租界・鉄道・鉱山・海関
「分割」の核心は、形式上の主権を残しつつ権利束を細かく奪う「権益の細切れ化」にありました。代表的な仕組みを整理します。
租借地(リージョンの長期貸与):1897年のドイツによる膠州湾(青島)占領を皮切りに、1898年にはロシアが遼東半島南部(旅順・大連)を租借、イギリスは山東の威海衛と香港新界を、フランスは広州湾(広東省雷州半島対岸)を租借しました。租借地は治外法権的に列強の行政・警察・軍事が及び、港湾・ドック・倉庫・電信・鉄道の整備拠点となりました。
租界(条約港内の外国人居留・自治区域):上海・天津・漢口などの条約港には英米仏日などの租界が形成され、都市インフラと商業が発展する一方、中国官憲の権限は制限されました。上海では英米の共同租界(のち国際共同租界)とフランス租界が併存し、銀行・海運・綿紡績・新聞・文化が集中する近代都市が生まれましたが、その繁栄は同時に主権の空洞化を意味しました。
鉄道・鉱山利権:列強は借款と引き換えに、特定地域の鉄道敷設・運営の独占権や、鉱山開発権を獲得しました。ドイツは山東省に山東鉄道(済南—青島)、ロシアは満洲の中東鉄道(ハルビン—ウラジオストク)と旅順大連への南満洲支線、イギリスは揚子江流域での鉄道・通商優先権、フランスは広西・雲南方面からの連絡線や鉱区に影響力を及ぼしました。鉄道は軍事・通商の動脈であり、線路の敷設は実質的な勢力範囲の境界線を描く行為でもありました。
海関・関税と借款:清朝の対外税収を担った中国海関(税関)は、欧米人総税務司の下で運営され、関税自主権は著しく制約されました。列強は清国債の担保として海関収入を押さえ、賠償金や借款の返済を優先的に回収しました。これにより、財政主権の中核が外国人官僚と金融に握られ、内政改革の財源配分も外圧の影響を受けました。
列強の勢力圏:山東・満洲・揚子江・華南の「色分け」
1898年前後の「色分け」は概ね次のように整理できます。ドイツは山東半島とその内陸の鉄道・鉱山、日本は台湾割譲後に福建・浙江沿岸や南満洲への関心を強め、ロシアは満洲全域と朝鮮半島への鉄道・港湾権益を押さえ、イギリスは揚子江流域の通商・金融・海運の優位を維持し、フランスは仏領インドシナから広西・雲南へ浸透、アメリカは門戸開放を唱えつつ主に商業・宣教で進出しました。これらは絶対的な排他ではなく、しばしば重なり合い、借款・抵当・共同事業など金融のネットワークで結びついていました。
こうした勢力圏は、現地の商人層・官僚・軍閥・会党と結びついて成立し、地方ごとに異なる権力地図を生みました。たとえば満洲ではロシアの鉄道利権と軍事駐屯が「ロシア化」を進め、これに対抗する日本は1904~05年の日露戦争に勝利して南満洲鉄道(満鉄)と遼東半島南部の租借地(関東州)を承継します。山東ではドイツの存在感が第一次世界大戦まで残り、戦後は日本が青島・山東権益の継承を主張して学生・市民の激しい反発(五四運動)を招きました。
義和団事件と北京議定書:主権制限の制度化
列強の進出と経済不況、旱魃・蝗害の苦難は、地方社会に反洋運動と排外感情を高めました。1899~1901年にかけて山東・直隷で拡大した義和団は、扶清滅洋のスローガンを掲げて教会・鉄道・電信・外国人を襲撃し、清廷内の強硬派の後押しもあって北京の公使館包囲に至ります。これに対し、列強八カ国連合軍が出兵し、北京・天津を占領しました。
1901年の北京議定書は、巨額の賠償金(海関収入などを担保)、北京の公使館区域の拡張と常駐軍、沿海・沿線の砲台撤去、軍需品の輸入規制、義和団支持官吏の処罰などを清に課し、すでに進んでいた主権侵害を制度として固定しました。中国の財政・軍事・外交はさらに列強の監視下に置かれ、教育・警察・税制の改革にも外資と顧問が深く関与する構図が一般化します。
中国側の応答:改革・立憲・革命、そして国権回復運動
中国社会は受け身ではありませんでした。康有為・梁啓超らの変法派は1898年に戊戌変法を試み、挫折後も立憲と制度改革の世論を形成しました。清廷も義和団事件後に新政(科挙廃止、軍制・教育・財政・地方行政の改革)を推進しますが、財政基盤の弱さと外債依存が限界となります。孫文ら革命派は海外華僑ネットワークと都市労働者・学生を動員し、鉄道国有化に伴う地方の反発(保路運動)などの不満をすくい上げ、1911年の武昌起義から辛亥革命へと繋げました。
共和国成立後も、列強の利権は即座には消えませんでしたが、第一次世界大戦・ロシア革命・ワシントン会議といった国際環境の変化が、主権回復の隙間を生みます。1919年のヴェルサイユ講和で日本の山東継承が容認されると、北京・上海の学生・市民は五四運動を起こし、反帝・反封建の新文化運動が広がりました。1922年のワシントン会議では、九カ国条約が中国の主権と領土保全、門戸開放・機会均等を再確認し、列強間の露骨な「色分け」は後退します。1920年代の国民政府は、関税自主権の回復(1928年以降の関税改定)、治外法権撤廃交渉、租界の返還(廃止・回収)を段階的に進め、上海公共租界についても日中戦争前後に実効支配が変化しました。
米国の門戸開放通牒と国際政治:競合から調整へ
米国務長官ヘイの門戸開放通牒(1899・1900)は、(1)中国の領土保全、(2)各勢力圏での通商機会の平等(関税・港湾料金の無差別)、(3)列強の租界・租借地の既得権の相互尊重、を掲げ、中国市場への参入機会を確保しつつ、列強の全面的な領有分割を抑止しようとするものでした。実際には、利権の現状追認を含み、列強の競合と共存のルール化という性格が強かったものの、のちのワシントン会議や国際連盟における「領土保全・機会均等」の原則へと連なり、中国側の外交カードにもなりました。
日露戦争後の満洲では、日本とロシアが南北で権益を分け合う「南北満洲分割」が事実上成立し、満鉄・東清鉄道を通じて鉄道附属地・関東州などの行政的特区が継続しました。日本はさらに1915年の対華二十一カ条要求で勢力圏を広げようとし、国内外の反発を招きます。第一次大戦後、国際協調の枠組みの中で「分割」は修辞のうえでも抑制されますが、現場では軍閥と列強、企業と金融が絡み合う実利の政治が続きました。
都市社会と経済の変容:租界の近代と主権の空洞
上海・天津・漢口・広州などの租界都市は、電灯・上下水・電車・電話・銀行・証券取引・近代工場が集積した「近代」のショーケースでした。中国人企業家や労働者、ジャーナリスト、作家・映画人もここで活躍し、新文化・新中間層が育ちました。一方で、警察・司法・租界評議会は外国人主導で、中国人に対する差別的運用が横行しました。労働運動や学生運動はしばしば租界の境界を政治空間として利用し、政権・軍閥・外国勢力の三角関係を巧みに突きました。租界の繁栄は、主権の空洞化と引き換えの近代化という逆説を体現していたのです。
「分割」の収束とその後:協調の時代、そして新たな侵略へ
1920年代末から30年代にかけて、中国は関税自主権の回復と治外法権撤廃を段階的に達成し、一部租界は返還・解体が進みました。九カ国条約体制の下で、列強の露骨な勢力圏主張は抑えられ、借款・企業投資・技術協力の形で関与が続く「協調の時代」が訪れます。しかし、1931年の満州事変と日本の満洲国樹立、1937年の全面戦争は、この流れを破壊し、列強間の調整は破綻しました。第二次世界大戦後、カイロ宣言・ポツダム宣言などを経て、台湾・澎湖・満洲・外蒙古に関する処理、租界・租借地の撤廃、関税自主権・司法主権の全面回復が実現します。
評価と視角:なぜ「分割」と呼ぶのか、何が分割されたのか
「中国分割」という表現は、アフリカの「分割」と異なり、地図上の線引きではなく、主権の機能—外交・軍事・財政・司法・経済—が権利束として列強へ切り売りされた事態を強調するための比喩です。領土の名目は保たれても、関税自主権の喪失、治外法権、租界自治、鉄道附属地の特区化、海軍基地の租借といった制度で、国家主権の中身が実質的に「分割」されました。したがって、歴史を学ぶ際には、港湾や鉄道の地理、借款と担保の金融回路、租界の行政と警察、法廷の管轄といった具体の制度を一つずつ追うことが、空疎な比喩を避ける近道です。
同時に、「分割」は一方的な外圧だけでなく、国内の権力構造・情報・利害の分断を通じて受け入れられた側面も見逃せません。地方官僚や商人、軍閥、留学生・知識人、都市労働者・農民が、それぞれ異なる仕方で国際秩序に接続され、抵抗と適応の混成が現場で進みました。洋務運動の企業や江南製造局、商紳主導の近代企業、学校とメディアのネットワークは、外圧のもとで生まれた近代の器であり、のちの国権回復と国家建設の基盤にもなりました。
学習のヒント:年表・地図・制度でつかむ
このテーマを学ぶ際は、(1)1895年下関条約→1897~99年の租借・鉄道利権ラッシュ→1899・1900門戸開放→1900~01義和団・北京議定書→1904~05日露戦争→1911辛亥革命→1919五四運動→1922九カ国条約→1928以降の関税自主権回復、という年表の骨格を持つと流れが見えます。(2)山東・満洲・揚子江・華南の四つの空間に、どの国の何の利権が重なったかを地図で押さえると、勢力圏の実像が具体化します。(3)租界・租借地・鉄道附属地・海関・領事裁判権といった制度用語を定義し、誰が、どの権限を、どの財源で、どの地域で行使したかを表にしてみると、主権の「分割」の意味が理解しやすくなります。
要するに、国土分割(中国分割)は、列強の軍事・外交力と金融・企業の実力が、清末・民初の政治社会の脆弱さに浸透して生じた、主権の内容の切り売りでした。そこから派生した都市の近代、産業・教育・メディアの変容、ナショナリズムと国権回復運動の胎動は、20世紀中国の長いドラマの土台となりました。地図の線ではなく制度と利権の束を追うこと—それが「分割」の実相に迫る最短ルートです。

