「サルデーニャ王国」とは、中世末にアラゴン王権のもとに成立し、近世を通じてスペイン=サヴォイア家へと継承され、最終的には19世紀のイタリア統一運動(リソルジメント)を主導して「イタリア王国」へ衣替えした国家を指します。地名のとおり地中海のサルデーニャ島を由来としますが、19世紀に実際の政治・経済・軍事の中心はアルプス麓のピエモンテ(トリノ)側に置かれていました。つまり、名は「サルデーニャ」でも、実体はサヴォイア家の本拠ピエモンテを核とする複合国家で、ここが後にイタリア統一のエンジンになります。この記事では、(1)成立からサヴォイア家への移譲、(2)18~19世紀の改革と「完全国制(フジオーネ・ペルフェッタ)」、(3)外交と戦争を通じた統一への道、(4)法制度・経済社会の特徴、の流れで、長い歴史をつかみやすく説明します。
成立と版図の変遷――「名は島、力は大陸」の複合国家
中世末の1297年、教皇ボニファティウス8世はアラゴン王家に「サルデーニャおよびコルシカの王国」の称号を与え、アラゴン連合王国は14世紀前半にサルデーニャ島の支配を固めました。コルシカは実効支配が不安定で、のちにジェノヴァの勢力圏に移りますが、「サルデーニャ王国」の名は以後も使われ続けます。16世紀にはアラゴンとカスティーリャの合同を経てスペイン・ハプスブルクの一部となり、島は帝国の戦略的海軍拠点として重要視されました。
スペイン継承戦争(1701〜1714)の余波で、サルデーニャ王国の王号は欧州列強の取引材料となります。1718年にサヴォイア家は一時シチリア王を名乗りましたが、1720年のロンドン条約・ハーグ条約の調整で、シチリアと引き換えにサルデーニャ王国の王号と領有を得ました。以後、トリノを首都とするサヴォイア家は「サルデーニャ王」を称し、ピエモンテ・サヴォイ・ニース・リグーリア(19世紀半ばに併合)など大陸側領土と、サルデーニャ島とを合わせた連合王国として国家を運営します。この「名目は島・中枢は大陸」という構造が、のちの統一運動の母体を形づくりました。
ナポレオン戦争期、ピエモンテはフランスに併合され、サヴォイア家は一時サルデーニャ島へ退避します。ウィーン体制(1815)で王政が復古すると、旧ジェノヴァ共和国領(リグーリア)がサルデーニャ王国に編入され、アルプスからティレニア海へ抜ける交通の扇の要を獲得しました。これにより、王国は人口・産業・港湾を抱えた「近代国家の素材」を手にし、後の経済成長と軍事動員の基盤が整います。
18~19世紀の改革と統合――フジオーネ・ペルフェッタと島内の変化
19世紀前半、サルデーニャ王国は保守と改革の振幅を経ます。カルロ・フェリーチェの時代は反動色が濃かったものの、1831年に即位したカルロ・アルベルト(カルロ・アルベルト)は、軍制・行政・教育の近代化を段階的に進めました。1847年には「フジオーネ・ペルフェッタ(完全国制)」と呼ばれる制度統合が断行され、ピエモンテ本土・リグーリア・サルデーニャ島などの旧来の法区分を廃し、単一の官制・財政・関税圏に再編されます。これにより、島は名実ともに王国内の一州として統合され、中央集権的な意思決定が加速しました。
1848年、カルロ・アルベルトは立憲憲章「スタトゥート・アルベルティーノ」を発布し、二院制議会・臣民の自由・王権の広い権限などを規定しました。これは当初王国内の憲制でしたが、のちにイタリア王国の憲法として1948年まで生き延びることになります。1848〜49年の第一次イタリア独立戦争では、王国軍がオーストリア帝国とロンバルディアをめぐって戦いますが敗北し、カルロ・アルベルトは退位。後を継いだヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、敗戦の痛手を引き受けつつ改革路線を継続しました。
サルデーニャ島そのものの社会経済についても触れておきます。島では封建的負担の遺制が長く残り、1836年の法改正で封建地代の買上げ(いわゆる封建廃止)が進められました。一方、18世紀末からの囲い込み(キウデンデ、土地囲い)と牧畜・農耕の調整は社会摩擦を生み、山地の盗賊・治安問題、マラリアなどの公衆衛生、道路・港湾の遅れが持続的課題でした。フジオーネ以後、中央政府は道路・港・教育・衛生の投資を段階的に増やしますが、本土との格差は容易に埋まりませんでした。19世紀後半には季節労働や海外移民が島の人口流動の一部を形成します。
財政・行政面では、統合関税・度量衡・通貨の標準化、商法・民法の整備、鉄道敷設(トリノ—ジェノヴァ—ノヴァーラなど本土で先行、その後島内にも狭軌鉄道が展開)が進みました。トリノを中心とする絹・金属・機械の軽工業が育ち、港湾ではジェノヴァが外洋航路の拠点となります。こうした近代化の成果は、のちの統一戦争での軍需・兵站能力に直結しました。
外交と戦争――クリミアからプロンビエール、統一への跳躍
統一への決定的転機を作ったのは、カミッロ・ベンソ・ディ・カヴール伯の登場です。1852年に首相となったカヴールは、自由主義改革と現実主義外交を両輪に据えました。国内では関税の引き下げ、国有企業・教会財産への節度ある介入、鉄道・通信への投資を進め、対外的には英仏と関係を深めます。
1855年、サルデーニャ王国はクリミア戦争に英仏側として参戦し、小国ながら遠征軍を派遣しました。軍事的な決定打ではなかったものの、この派兵により王国はパリ講和会議(1856)で発言権を得て、「イタリア問題」を欧州外交の議題に押し上げます。この外交的成功が、のちのフランスとの二国間合意の地ならしになりました。
1858年、カヴールはナポレオン3世と密談(プロンビエールの合意)を交わし、オーストリアを挑発して開戦に導く戦略を固めます。見返りとして、オーストリアに勝利した暁にはロンバルディアを獲得し、代償としてサヴォイとニースをフランスへ割譲するという骨子が合意されました。1859年の第二次イタリア独立戦争で、マジェンタ・ソルフェリーノの戦いを経てサルデーニャ=フランス連合軍はロンバルディアを得ます。続いて中部諸邦(パルマ・モデナ・トスカーナ、教皇領の一部)で住民投票により併合が進み、1860年にはジェノヴァからの港湾力も活かして国土が連結していきました。
同年、ジュゼッペ・ガリバルディが率いる「千人隊」がシチリアに上陸し、ナポリ王国(両シチリア王国)を席巻します。北から進撃する王国軍と南から進むガリバルディはテアーノで会見し、併合の手続きを経て南部がサルデーニャ王国に編入されました。こうして1861年、トリノで「イタリア王国」の成立が宣言され、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が「イタリア王」を称します。法的には、サルデーニャ王国が国名と国号を拡大・改称した継承体としてイタリア王国に移行したと理解されます。
なお、フランスへの割譲(1860)により、サヴォイとニースは王国の版図から離れました。統一後もヴェネト(1866)とローマ(1870)は段階的に編入され、統一は完成へ向かいますが、これらはイタリア王国期の出来事であり、サルデーニャ王国の枠の最終盤に接して起きた領土調整と捉えられます。
体制・法制度・経済社会――「スタトゥート」と近代国家の骨格
サルデーニャ王国の統治の背骨は、1848年のスタトゥート・アルベルティーノでした。これは国王大権(軍の統帥権、条約締結、行政への広い影響)を前提にしながら、法の前の平等、信仰・出版・集会の自由(一定の制限下)、二院制議会(貴族院と代議院)を制度化した「立憲君主制のミニマム・セット」でした。議会政治は漸進的に定着し、内閣は議会多数派との関係を重視する方向へ動きます。検閲の緩和、近代的裁判所・弁護士制度、民商法の整備は、投資と企業活動を支える法環境を整えていきました。
行政は、中央省庁(内務・財務・戦争・外務など)と県・郡・市町村の階層で組織され、県知事(プレフェット)を通じて中央の方針が末端へ伝達されます。外交・軍事では徴兵制の整備、装備の更新、参謀本部の近代化が進み、食糧・輸送・医療を合わせた兵站の能力が強化されました。鉄道・電信・道路が戦時にも平時にも共通の基盤として機能し、国家統合の「物理的インフラ」となりました。
財政面では、統一前から地租・間接税・関税に依存する収入構造で、軍事とインフラ投資に多額の歳出を割きました。国債発行と英仏金融資本の導入により資金調達を拡大しつつ、税制の平準化と徴税能力の向上で信用力を高めました。本土では絹糸・金属・機械・化学などの産業が育ち、港湾都市ジェノヴァが商船・保険・金融で中核を担います。
一方、サルデーニャ島の社会は、地中海の周縁に特有の課題を抱え続けました。土地所有の偏在と囲い込みをめぐる対立、マラリアに象徴される衛生、交通の遅れ、教育の普及などです。中央からの投資は増えましたが、地理的制約と歴史的慣行の厚みは短期に変えがたく、近代国家の標準化のなかで「地域の時間差」が現れました。それでも、法と行政の一体化、徴兵・学校・郵便・鉄道といった制度の浸透は、島と本土を結ぶ日常の回路を広げ、王国全体の結合を実体化させました。
こうして、サルデーニャ王国は「島の名を冠したピエモンテ国家」として成熟し、外交・軍事・財政・法制度を梃子に半世紀足らずでイタリア統一へと跳躍しました。その過程で作られたスタトゥートや行政・司法の枠組みは、国名が変わった後も長く生き続け、20世紀半ばの共和政憲法にバトンを渡すまで、イタリア国家の背骨であり続けたのです。

