新経済政策(しんけいざいせいさく、ネップ NEP)とは、1921年にソビエト政権が導入した経済運営の方針で、それまでの急進的な「戦時共産主義」を部分的に後退させ、市場や私企業の活動を一定範囲で認めた政策を指します。第一次世界大戦とロシア革命、内戦の混乱で壊滅的な打撃を受けた経済を立て直すために、レーニンがやむを得ない「一時的な退却」として導入したものだとよく説明されます。農民からの穀物の強制徴発をやめて「現物税」に切り替え、小規模な商業や軽工業の私的経営を許すなど、市場メカニズムを限定的に復活させた点に特徴があります。
ネップのもとでソ連経済は一定の回復を見せ、農業生産も都市の物資供給も改善しました。その一方で、国家が掌握する重工業・大銀行・対外貿易と、私企業が動かす小売・小規模工業との間にギャップが生まれ、「ネップマン」と呼ばれる新興の富裕層も登場します。これが社会主義の理想と矛盾するのではないかという党内の議論も激しく、最終的にはスターリンによる「五カ年計画」と強制的な集団化の開始(1928年頃)により、ネップは終わりを迎えます。
世界史の視点から見ると、新経済政策は、社会主義政権が現実の経済危機に直面したとき、どの程度市場や私有を認めるのかという悩みを具体的に示した例でもあります。同時に、戦争と内戦で疲弊した大国が、どのようにして生産を回復させ、社会を安定させようとしたのかを考えるうえでも重要なケースです。ネップを理解することは、ソ連史だけでなく、「計画経済と市場」「イデオロギーと現実」の関係を考える手がかりにもなります。
導入の背景:戦時共産主義の行き詰まり
新経済政策が導入された背景には、それ以前の「戦時共産主義」と呼ばれる非常措置の行き詰まりがありました。1917年のロシア革命でボリシェヴィキが政権を握った後、ロシアは内戦状態に突入します。赤軍(ソビエト政権)と白軍(反革命勢力)、さらに外国軍の干渉も加わり、国土のあちこちが戦場になりました。この非常時に、ソビエト政権は食料と軍需物資を確保するため、工業・銀行・大規模企業の国有化、農民からの穀物の強制徴発、私商業の禁止など、過激な統制政策を進めました。これが戦時共産主義です。
戦時共産主義は、短期的には赤軍への補給を確保するうえで一定の役割を果たしたものの、農民や都市住民には大きな負担を強いました。農民にとっては、収穫した穀物を市場で売ることができず、国家に半ば強制的に取り上げられる状況が続いたため、生産意欲を失わせました。都市の工場労働者も、物資不足やインフレ、配給の混乱に苦しみ、労働生産性の低下やストライキの多発につながりました。
内戦が終息に向かう頃には、ロシア経済は戦前水準と比べて極度に落ち込み、工業生産は数分の一に、農業生産も大幅に減少していました。都市人口は減り、多くの人が食料を求めて農村へ流出しました。さらに、1921年には生活苦と政治的不満が爆発し、ペトログラード(旧サンクトペテルブルク)近郊の要塞に駐屯していた水兵たちが、自由選挙や言論の自由を求めて反乱を起こします(クロンシュタット反乱)。この反乱は赤軍によって鎮圧されましたが、「革命の守り手」とされていた水兵たちがソビエト政権に牙をむいたことは、指導部に深刻な衝撃を与えました。
このような状況を前に、レーニンは「戦時共産主義は、内戦の非常時を乗り切るための一時的政策であり、平時には続けられない」と判断するようになります。革命直後は、私有財産の徹底的な否定や市場の全面的な廃止こそが「真の社会主義」と考えられることもありましたが、現実には農民の協力なしに社会主義経済を築くことは不可能だという現実が突きつけられました。こうしてレーニンは、イデオロギー的には後退に見える「新経済政策」への転換を決断するに至るのです。
ネップの内容:市場の部分的復活と国家の役割
1921年の第10回ロシア共産党大会で正式に承認された新経済政策は、いくつかの具体的な柱から成り立っていました。その中でももっとも重要なのが、農業政策の転換です。戦時共産主義下では、農民からの穀物は「余剰穀物徴発」という名目で実質的に強制的に供出させられていましたが、ネップのもとではこれを「現物税(食糧税)」に切り替えました。農民は収穫の一定割合を税として国家に納めれば、それ以外の分については自由に市場で販売することが認められたのです。
この変化により、農民は「たくさん作ればその分だけ自分の利益になる」というインセンティブを取り戻しました。市場で穀物や農産物を売れば、都市から工業製品や日用品を買うことができるため、農村と都市のあいだに再び商品経済の循環が生まれます。実際、ネップ導入後数年で農業生産は回復し、都市への食料供給も改善しました。もちろん、天候や地域条件による差はありましたが、少なくとも戦時共産主義期の深刻な飢餓状態からは一歩抜け出すことができました。
第二の柱は、私的経済活動の限定的な容認です。大工場・重工業・大銀行・対外貿易など、経済の「司令高地」に当たる分野は引き続き国家(ソビエト政権)の管理下に置かれましたが、小規模な工場、職人、商人などについては、私企業としての営業が認められました。これにより、都市部では露店や小売店、小さな工房などが復活し、サービスや日用品の供給が改善しました。
この時期に現れたのが、「ネップマン」と俗称された新興の私商人や私企業家です。彼らは市場の隙間をうまく利用して商品を仕入れ、都市と農村のあいだを動き回って利益を上げました。ネップマンの中には派手な生活スタイルをとる者もおり、革命直後の「平等な社会」のイメージとはかけ離れた姿として、労働者や党幹部の反感を買うこともありました。とはいえ、現実には彼らの活動が物資流通を支え、経済の再建に一定の役割を果たしていたのも事実です。
第三に、国家部門でも一定の柔軟化が図られました。国営企業の中には、国からの補助金に頼るのではなく、自らの収益と損失にある程度責任を持つよう求められたものもあり、企業経営に市場的な要素が部分的に導入されました。また、通貨制度の安定化も進められ、インフレの抑制と財政再建が試みられました。これらの措置は、完全な自由市場とはほど遠いものの、計画経済の枠内に市場メカニズムを組み込む試みとして位置づけられます。
まとめると、ネップは「国家が大きな産業と金融を握りつつ、農業と軽工業・小売では市場と私企業を部分的に許す」というハイブリッドな経済体制でした。レーニン自身はこれを「国家資本主義の一種」と呼び、資本主義的な要素を利用しながら、長期的には社会主義へと進んでいく過渡期の政策だと説明しました。この自己理解が、ネップの性格を考えるうえで重要なポイントです。
成果と矛盾:経済回復と「ネップマン」問題
新経済政策の導入後、ソ連経済は短期間で目に見える回復を遂げました。1920年代半ばまでには、農業生産は第一次世界大戦前の水準におおむね戻り、工業生産も徐々に回復していきました。市場での取引が活発になり、都市の商店には商品が並び、配給制のみに頼っていた時期と比べて、一般市民の生活はある程度の安定を取り戻しました。飢饉や暴動の頻度も減少し、ソビエト政権は内戦期のような極端な危機状態から脱することができました。
政治的にも、ネップは農民との関係改善に役立ちました。ロシアの人口の大多数を占める農民が、強制徴発ではなく税と自由販売の組み合わせのもとで生産を行えるようになったことで、ソビエト政権に対する不満の一部が和らぎました。レーニンは、農民との「同盟」を維持することが革命政権の安定に不可欠だと認識しており、ネップはこの農民同盟政策の具体的な形とも言えます。
しかし、ネップは同時に、新しい矛盾も生み出しました。まず、都市と農村、工業と農業のあいだで、価格や利益の配分をめぐる対立が顕在化しました。農産物の価格と工業製品の価格のバランスが崩れると、農民は物資を市場に出したがらなくなり、都市は再び物資不足に陥る危険があります。この問題は「ハサミ問題(価格のハサミ)」と呼ばれ、1920年代のソ連経済を悩ませました。
また、ネップマンなどの私企業家や裕福な農民(クラーク)と、貧しい農民・都市労働者とのあいだに、経済的格差が拡大しました。革命が約束したはずの「平等な社会」と、現実に現れた「金持ちと貧乏人の差」が、党内外で批判の的となります。ボリシェヴィキの一部には、「ネップは資本主義への逆戻りだ」「革命の成果を裏切っている」として、早期に廃止すべきだと主張する強硬派もいました。
党指導部の内部でも、ネップの方向性をめぐって議論が交わされました。レーニン自身は、ネップを恒久的な体制とはみなさず、「数十年はかかるかもしれないが、長い過渡期を経て徐々に社会主義に移行するための戦略的退却だ」と説明しました。しかし、レーニンの死後、ソ連の指導者たちは「いつまで退却を続けるのか」「どこで社会主義への前進に転じるのか」という問題に直面します。
トロツキーや左派反対派は、急速な工業化と計画経済の強化を主張し、ネップに批判的な立場を取りました。一方、右派とされたブハーリンらは、ネップを通じて農民経済を徐々に発展させ、穏やかなペースで社会主義を目指す方針を擁護しました。これらの路線対立は、やがてスターリンが権力を握る過程で大きな意味を持つことになります。
ネップの終焉と歴史的意味
1920年代後半、スターリンはソ連共産党内で主導権を確立し、「一国社会主義」の路線のもとで急速な工業化と農業集団化を推し進める方針を打ち出しました。1928年頃から始まる第1次五カ年計画は、重工業への集中的投資と、生産目標を上から割り当てる計画経済の本格的な導入を意味しました。同時に、農村では農民を集団農場(コルホーズ)や国営農場(ソフホーズ)に組織する強制的集団化が展開され、クラークとされた富裕農民への弾圧も行われました。
この路線転換は、ネップ的な要素――農民の個人経営や小規模私企業の活動、市場取引の比較的自由な余地――を大幅に縮小し、国家が経済のほぼすべてを直接コントロールしようとする方向への転換を意味しました。形式的に「ネップ廃止」という宣言が出されたわけではありませんが、実質的にはネップは終わりを告げ、ソ連経済は「計画経済+集団化」という新しい体制へと移行していきます。
ネップの終焉は、ソ連の発展に複雑な影響をもたらしました。一方では、スターリン期の急速な工業化が第二次世界大戦におけるソ連の軍事力の基礎を作ったと評価されることもあります。他方で、集団化に伴う農村の混乱や飢饉、政治的弾圧は、多大な人的・社会的コストを生みました。もしネップ的な路線がより長く続いていたらどうなっていたか、という反実仮想は、歴史学の世界でもしばしば議論されるテーマです。
歴史的意味という点では、新経済政策は「社会主義国家が市場をどう扱うか」という問題の一つのモデルケースとして重要です。ソ連以外にも、中国の改革開放政策やベトナムのドイモイ政策など、「社会主義を掲げながら市場経済的な要素を取り入れる」試みが後の時代に現れました。これらの政策とネップを比較すると、共通点もあれば相違点も見えてきます。とくに、中国の鄧小平が「黒い猫でも白い猫でも、ネズミを捕る猫が良い猫だ」と語って現実優先の路線を打ち出したとき、しばしばネップとの類似が論じられました。
また、ネップはイデオロギーと現実政治の関係を考える上でも示唆に富んでいます。レーニンは理論的には資本主義の徹底的否定を掲げながらも、現実には農民の協力なしには革命政権を維持できないことを認め、市場や私有を部分的に復活させる「柔軟さ」を示しました。その一方で、この柔軟さが後継者たちによってどのように受け止められ、どのように変更されていったのかを見ると、政治指導者の性格や権力闘争のあり方が歴史の進路を大きく左右することも分かります。
世界史学習の中で新経済政策(ネップ)に触れるとき、「戦時共産主義→ネップ→五カ年計画・集団化」という流れだけを暗記するのではなく、それぞれの段階で何が問題となり、どのような選択肢がありえたのかを考えてみると理解が深まります。ネップは単なる「一時的な後退」ではなく、革命政権が自らの理想と現実の矛盾に向き合った一つの試みとして、今なお多くの示唆を与えてくれる歴史的経験と言えるでしょう。

