工場法 – 世界史用語集

工場法(こうじょうほう、Factory Acts)は、資本主義の進展に伴って工場労働が拡大する中、長時間労働や児童・女性の過酷な就労、災害・衛生の問題に対して国家が最低限の規制を設けた法律の総称です。最初期は英国で生まれ、のちに欧米・日本・植民地世界に波及しました。典型的には、(1)年少者・女性の就労年齢や労働時間の上限、(2)夜業や休日の制限、(3)機械防護や換気・照明・便所などの安全衛生基準、(4)工場監督官による立入り検査と罰則、(5)出生届・就労台帳・医師診断などの手続が柱になります。工場法は、企業の自由と労働者の健康・教育・生活の保護とのせめぎ合いから生まれ、労働組合の運動、慈善家・宗教者・医師・統計学者の告発、議会の調査報告、公衆の世論を背景に徐々に整備されました。ここでは、成立の背景と基本構造、各国での展開、日本の工場法の特徴、そして社会への影響と限界を、分かりやすく解説します。

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背景と基本構造――なぜ国家が工場に介入したのか

18〜19世紀、機械制大工業が伸長すると、工場は大量生産の拠点として急速に増えました。都市への人口集中と賃労働化は、低賃金・長時間・無制限の就労をもたらし、事故や職業病、幼年者の教育放棄、女性の夜業による健康被害が社会問題化しました。市場に任せれば賃金や労働条件は「自然調整」されるという見方もありましたが、実際には労働力の供給超過と交渉力の非対称から、最低限の保護が働かず、公衆衛生や治安にも悪影響が波及しました。

このため、国家は二つの論理から工場に介入しました。第一は「人間の保護」です。年少者は教育の権利と発育の保障が必要であり、女性は当時の医学や家族観に照らして夜業・重量運搬の制限が求められるとされました(歴史的制約を含みますが、健康保護の発想が中核でした)。第二は「生産の安定」です。過労や事故は生産性の損失であり、最低限の規制は産業の持続に資すると理解されました。こうして、工場法は道徳と統計、経済合理と社会政策の折衷として形づくられます。

法の基本構造は次の通りです。①対象:一定規模以上の工場(労働者人数・動力使用・業種で定義)を適用範囲とする。②時間:日・週・年の上限、休憩・休日、夜業の禁止や例外を定める。③保護:就労最低年齢・就労許可(医師診断・就学証明)・母性保護(産前産後の休業)を置く。④衛生安全:機械防護・ボイラー検査・換気・採光・便所・飲料水・応急手当・避難導線・定期点検を義務化。⑤監督:監督官の立入り・改善命令・是正報告・罰金・公示。⑥記録:雇用台帳・賃金台帳・年齢証明・労働時間記録の整備、などです。これらは段階的に拡張され、鉱山、運輸、建設、化学工場へと波及していきます。

各国の展開――英国の出発点から欧米・植民地への波及

先鞭をつけたのは英国です。19世紀初頭、綿工場の児童酷使が告発され、1819年法で9歳未満の就労禁止、1833年工場法で工場監督官制度と児童・少年の就業時間制限・就学義務が導入されました。1844年法は機械防護と女性の労働時間規制を、1847年のいわゆる「十時間法」は女性と18歳未満の就業を一日十時間・週58時間へ制限しました。以後、対象業種は綿から毛・亜麻・絹・金属へ拡大し、1878年法は諸法を統合、20世紀初頭には産前産後休暇や労働災害補償の枠組みへ接続していきます。

フランスでは、1841年法が8歳未満の工場就労を禁止し、子どもの労働時間と夜業を制限しました。第二帝政・第三共和政の下で衛生・安全規制が整い、1892年法は女性・年少者の労働時間の上限や夜業制限、日曜休業の原則化を進めました。ドイツ帝国では、1869年の産業自由令を経て、1878年の社会主義者鎮圧法の時期でも、ビスマルクは社会保険(疾病・災害・老齢)の導入と並行して工場規制を厚くし、1891年産業法で女性夜業や児童労働を制約しました。アメリカ合衆国は州法中心で、マサチューセッツなどニューイングランド諸州が先行し、連邦最高裁の判断や進歩主義運動を経て20世紀前半に一般化します。ロシア帝国は1897年法で一日11.5時間制限などを掲げ、遅れながらも規制が導入されました。

殖民地・半植民地世界では、宗主国の経済的要請が先行し、規制の履行は不十分でした。とはいえ、国際世論と貿易上の圧力、宣教師・医師・記者の報告が重なり、最低年齢や夜業制限が段階的に取り入れられます。第一次世界大戦後には国際労働機関(ILO)が設置され、1919年の第1号条約(工業における一日の労働時間:8時間・週48時間)や、少年労働最低年齢(第5号)、女性夜業(第4号)などの国際基準が各国法制の整備を後押ししました。

日本の工場法――1911年制定・1916年施行、その特色と改正

日本では、明治中期以降に紡績・製糸・鉱工業が急伸し、女工・少年工の長時間労働、寄宿舎の衛生、サナトリウム不足、事故多発が問題化しました。官僚・医師・新聞人の調査と、労働運動の萌芽、国際的な視線を受けて、1911年に工場法が公布、1916年に施行されます。適用対象は概ね「常時15人以上を使用する工場」で、当初は紡績・製糸・製織・印染・製紙・製材・金属・化学・食品など主要業種が想定されました。

主な内容は、①年少者(満12歳未満)の就労禁止と就学義務、12〜15歳の就労時間制限、②女子と年少者の深夜業(原則午後10時〜午前4時)禁止、③一日の労働時間の上限(当初12時間、休憩を含む)と休日付与、④機械防護・ボイラー検査・換気・保温・便所・洗場など安全衛生、⑤監督官の立入り検査と罰則、⑥寄宿舎・食堂・浴場等の衛生管理、などでした。もっとも、事業主の反発と産業競争力への配慮から、多くの附則・例外が置かれ、小規模工場や農繁期、季節工に対する適用除外、許可制の例外深夜業などが残りました。

大正末から昭和前期にかけて改正が重ねられ、1923年改正で就労最低年齢の実効化、1929年改正で女子・年少者の労働時間短縮、1931年にはILO第4号(女性夜業)などの受諾に関連する整備が進みました。戦時期には生産第一の論理から制限の緩和や特例が拡大しますが、戦後、1947年の労働基準法が全面的な枠組みを与え、性別・年齢に基づく差別的条項の再整理、時間外・休日・深夜の割増賃金、安全衛生法制の独立など、近代的労働法制に移行しました。

社会への影響と限界――健康・教育・家族、企業経営と近代国家

工場法は、年少者の学校出席率を高め、過労や事故死傷を減らし、結核など職業病の蔓延を一定程度抑える効果をもたらしました。母性保護や産前産後休業の制度化は、家族生活のリズムを変え、女性の身体を生産の都合だけに従属させない原理を持ち込みます。公衆衛生の観点からは、飲料水・便所・換気・採光などの基準化が、都市住民の健康文化を底上げしました。

企業側にとっては、工場法はコスト増や柔軟性低下を招く一方、労働時間の標準化・休日の導入は作業管理と設備稼働の計画性を高め、機械防護・教育訓練は災害率の減少と欠勤率の低下、労働者の定着につながりました。また、規制が全国一律に近づくと、悪条件を武器にした不公正競争が抑制され、品質と生産性の競争へ軸が移る効果もありました。

とはいえ、工場法には限界もありました。適用除外や例外規定が多いと、最も脆弱な層(零細工場・季節工・在来工業)が保護の網からこぼれ、監督官の人数・権限・専門性が不足すると、違反の摘発と是正が進みません。性別年齢に基づく画一的規制は、当初の保護意図とは別に、女性の昇進機会や賃金水準に不利に働くこともありました。労働時間の短縮だけでは、賃金の引き上げ・住宅・育児・医療・年金といった生活保障の課題は残り、総合的な社会政策が不可欠でした。

国際的には、ILO条約と各国法の相互作用が、最低基準の「底上げ競争」を生みました。世界恐慌や戦争の局面では、規制と生産のバランスをめぐる葛藤が露わになり、戦後は福祉国家の枠組みと結びついて、労働基準・安全衛生・労災補償・母性保護・児童福祉が統合的に設計されるようになります。今日の視点から見ると、工場法は労働法制の原点であり、最低基準の設定、監督・記録・統計の制度化、職場の安全文化の醸成といった遺産を残しました。

総じて、工場法は、自由放任の産業社会が自らの持続性を確保するために選び取った制度的回答でした。人間の成長と健康を守るための最低線を引き、その線を引く根拠を統計と医学、教育と倫理で裏付けるという作法は、のちの労働法・社会保障・公衆衛生へと枝分かれしながら、現在にいたるまで社会の常識として定着しています。歴史の中で何度も改正・再定義されつつも、「工場の扉の内側に公共の原理を持ち込む」という発想こそが、工場法の核だったのです。