魚鱗図冊(ぎょりんずさつ、yúlín túcè)は、中国明代に整備された土地台帳・地籍図の総称で、耕地の位置・面積・地目・所有・課税額などを地図(図)と帳簿(冊)の二本立てで記録したものです。斑に連なる小区画の描写が「魚の鱗」のように見えることからこの名が付きました。国家が税と労役を安定的に賦課するための「見える化」の装置であり、同時代の戸籍台帳(黄冊)と並ぶ明代行政の中核資料です。住民がどの土地をどれだけ耕し、どれほどの負担を担うのかを、村単位・里甲単位・県単位で整理した結果は、後の時代の改革(里甲制の運用、一条鞭法、清代の地丁銀制)にも受け継がれました。魚鱗図冊は、単なる税務技術ではなく、国家が社会を把握しようとする視線そのものであり、土地の測量・境界の確定・地域社会の合意形成・紙と印の文化・情報の更新という、多くの要素が結びついた制度でした。以下では、用語の輪郭と成立背景、仕組みと運用、効果と限界、比較と史料価値の観点から詳しく説明します。
用語の輪郭と成立背景
魚鱗図冊は、明の建国期に進められた全国的な土地調査の成果物です。洪武年間に、明政府は農本主義を掲げ、軍戸・民戸・匠戸に分かれた身分秩序のもとで租税・徭役を再編しました。税負担を公平にし、隠田(申告されない隠し田)や豪強の闘斥(領地の横取り)を抑えるには、まず土地区画を確定し、筆ごとの面積と地力を把握しなければなりませんでした。そこで中央は、各県に地籍の作成を命じ、村・里甲単位で図と冊を作成して県衙に提出させました。図は地形・河川・道路・堤防・村落と畝段の配置を簡略化して描いたもので、冊は田名・所有者・地目(田、園、宅地、荒地など)・等級・面積・課税基準・境界(四至)を文字で記した帳簿です。
名称の由来は、畝段が細かく区切られて斜め格子状に塗り分けられ、互いに噛み合う様子が鱗のように見えることにあります。実際の図は、村の中心と溝渠・堤・林・丘陵を基準に、各筆の形状が不規則な多角形として連続し、その一つ一つに番号や記号が付されます。冊面では、図上の番号と照応し、所有者や耕作者の氏名、地目、面積(畝・段・尺などの単位)、等級(上中下)や徴税方法が列ねられます。こうした図冊は、三年・五年・十年などの周期(地方差あり)で更新が命じられ、変動(売買・相続・開墾・荒廃)を記録していきました。
背景には、里甲制による基層統治もあります。里甲は十戸を一甲、十甲を一里とする相互監督・共同責任の枠組みで、戸口と土地の把握に住民自体を組み込む制度でした。図冊の作成・検認には里長・甲首が動員され、境界をめぐる争いの仲裁と合意形成に関わりました。彼らの署名や印は、後日の紛争解決における証拠にもなりました。
仕組みと運用:図と冊、測量と境界、更新と保存
魚鱗図冊は、図(絵図)と冊(文字台帳)の連携が命です。実務では、まず村ごとに踏査隊が編成され、郷紳・里甲の代表、書吏、測量人が参加しました。測量は、縄や竹尺・測棒を用いて畦と畦の距離、辺の長さを測り、面積は伝統的な換算(不規則多角形を三角形や長方形に分解)で計算しました。地目の判定は、実際の耕作状況や水利条件、土質などに基づき、田(灌漑稲田)・麻田・畑(旱田)・園地・林地・荒地に分けられます。収穫の良否により上・中・下等の等級が付され、税率に反映されました。
境界(四至)は、東西南北それぞれに隣接地の所有者や自然物(河・堤・道・林)を明記し、後日の争いに備えました。実測後、図面には筆ごとに番号を振り、色分けや斜線で地目・等級を識別し、村境・里界・県界を太線で示しました。図の片隅には方位・縮尺・凡例が置かれ、作成年月日、関係者の署名、官印が加押されます。冊には、図の番号順に各筆の詳細が列記され、所有・耕作・役負担の実態が反映されました。
更新(換修)は重要です。売買・贈与・相続・荒蕪化・開墾・水害による河道変更などが起きれば、里甲・保甲の代表が届け出、県役所の吏房で審査し、必要に応じて再測量を行いました。更新サイクルは地域と時代で差がありますが、定期的な再検認がなければ現実と台帳が乖離し、課税の不公正と紛争を生みます。そのため、中央は折に触れて図冊の重修を督促しました。
保存体制も整えられました。図冊の原本は県衙に保管され、写本が里甲や郷紳の手元に置かれることもあります。黄冊(戸籍台帳)は中央(京城)にも副本が送られたのに対し、魚鱗図冊は主に地方の課税実務で用いられ、県・府の倉庫に綴られて保管されました。大火・戦乱・水害で散逸した例も多く、現存史料は地域に偏りがありますが、残ったものは地域社会の構造を映す貴重な鏡です。
図冊は課税と連動しました。課税は面積×等級×税率で計算され、徴収方法は穀納・銀納・労役代替の組み合わせでした。村の総負担を里甲内で配分する「保甲配賦」は、郷紳の影響力を通じて調整され、ときに不公平の温床にもなりました。他方、図冊が可視化することによって、露骨な隠田や二重徴税を防ぐ効果も働きました。
効果と限界:公平化の梃子、回避の技法、改革との接続
魚鱗図冊の効果としてまず挙げられるのは、税負担の透明化です。村の誰がどれだけの土地を持ち、どの等級に属し、どれほどの負担を分担するかが可視化され、村内交渉の基礎が整いました。国家側にとっても、各県・各里甲の総耕地面積と生産力が把握され、軍糧・工役・救荒の計画に役立ちました。税の根拠が明記されることで、恣意的な増徴や臨時課税の反発に対し、一定の歯止めが働きます。
しかし限界も明白でした。第一に、測量と等級付けの誤差です。不規則地形の換算や、数え方の慣行差は、面積の過小・過大申告を誘発しました。第二に、権力と富の偏在です。郷紳や里長が図冊編成を主導する場面では、自家や同族に有利な配賦が行われたり、隠田の温存が暗黙裡に容認されたりしました。第三に、更新の遅れです。売買や荒廃が多発する地域ほど、図冊の現実適合性が急速に低下します。
図冊の「回避の技法」も多彩でした。豪家は名義を分散して小作人の名で登録し、実地の支配と税負担を分離しました。山林や湿地を低等級に申告して実態の収益との差を抜く手法、連接する畝段を一筆に見せかけて境界を曖昧にする手法、官との癒着による帳外地の温存などが挙げられます。国家は、巡按や按察使、監察御史の臨検で是正を図りましたが、地域社会の抵抗と妥協の中で運用は揺れました。
明末から清初にかけての制度改革は、図冊の位置づけを変えました。一条鞭法(田賦・丁税・諸雑役を銀納に一本化する流れ)は、負担の基礎を土地に集約し、図冊の重要性を相対的に高めました。清代に入ると、康熙帝の地丁銀制(丁税を地税に合併し人頭税を実質的に廃止、以後の増税を禁じる方針)が採られ、土地課税の基盤として旧来の図冊・丈量簿が活用されました。とはいえ、清代は人口増加と開墾の拡大で土地の分割・共有・佃作関係が複雑化し、図冊の更新が追いつかない問題が顕在化しました。
災害と環境変動も影響します。黄河の氾濫や河道変更、湖沼の拡大・縮小は境界を根底から揺るがし、図と現地が一致しなくなります。このとき、旧図を根拠に課税を続けるか、現況優先で再測量するかは政治的判断を要しました。地域により、郷約や祠堂の会議で妥協線を引くなど、社会の自律的調整も見られます。
比較と史料価値:世界の地籍と向き合う、地域史の窓
魚鱗図冊を世界史の文脈に置くと、諸国家の地籍制度と多くの共通点が見えてきます。中世イングランドの『ドゥームズデイ・ブック』は領地と収穫・課税能力の台帳であり、ナポレオン期のカダストル(地籍図)は正確な測量と統一縮尺の「図」と法的効力を備えた「台帳」をセットにしました。日本の太閤検地は、村単位の検地帳と絵図を作成し、石高制に基づく年貢と軍役を整えました。魚鱗図冊はこれらと比べ、(1)村—里甲—県という行政‐自助の連動、(2)図と冊の相互参照、(3)自然物を基準とした境界記述、(4)地目と等級評価の細分、という特色を持ちます。
史料としての価値は計り知れません。第一に、土地所有・耕作の微細な実態が再現できます。筆ごとの面積・境界・所有者名は、系譜・宗族・同族集団の動き、売買・抵当・相続のパターン、村内の階層関係を読み解く鍵です。第二に、水利・堤防・溝渠の配置は、農業技術と共同労働のあり方を示し、災害史・環境史の分析に直結します。第三に、村の空間構造(祠堂・市集・寺観・道路)も読み取れ、空間史・景観史の素材になります。第四に、図冊の余白に記された注記(修補記、異動記録、訴訟の記載)は、制度の運用と社会の交渉の「生の痕跡」です。
研究上の留意点もあります。現存図冊は地域差が大きく、保存状態や筆写の誤り、後補の注記による混乱が避けられません。地名の変遷、度量衡の違い、単位の換算(畝・頃・尺)には慎重な検討が必要です。さらに、図は必ずしも実測図ではなく、象徴的・略図的表現が強いため、地理情報システム(GIS)で現地の地形・衛星画像と照合しつつ読み解く方法が有効です。口碑資料や祠堂文書、土地契約文書(契書)との突き合わせで、図冊に記載されない実態(共有地、借地、季節的利用)が浮かび上がることもしばしばです。
総じて、魚鱗図冊は、明清期の国家—社会関係を可視化する装置であり、税制・土地制度・地域社会史を横断するキードキュメントです。国家の把握権と住民の交渉力がせめぎ合う現場に、図と冊は立ち会っていました。そこには、測ること・記すこと・保存することの力と限界が、魚の鱗のように重なり合って見えます。図と冊の一枚一枚を丁寧に読み解くことは、単に過去の税台帳を復元する作業ではなく、地域の人々が土地と向き合い、国家と折り合いを付けようとした営みそのものを辿ることにほかなりません。

