3C政策は、19世紀末から20世紀初頭にかけての大英帝国が掲げた地政学的構想を指し、アフリカ北東端のカイロ(Cairo)、南端のケープタウン(Cape Town)、そしてインドのカルカッタ(Calcutta、現コルカタ)という三つの「C」で始まる拠点を、政治・軍事・経済・通信の各面で連結しようとする戦略を意味します。よく「ケープ・カイロ鉄道」だけが強調されますが、実際には鉄道・港湾・海底電信・石炭補給港の網を重ね、紅海—インド洋航路とアフリカ縦断軸を一体で確保する総合的な帝国戦略でした。背景にはスエズ運河の支配、ボーア戦争に代表される南ア支配の固め、エジプト・スーダン経営、そしてインドの対露防衛などがあり、フランスのサハラ横断構想やドイツの「3B政策」とのせめぎ合いのなかで推進されました。以下では、構想の起源と狙い、実施手段と進展、国際関係と衝突、限界と影響を順に整理して解説します。
起源と狙い—海と陸を束ねる帝国の動脈づくり
3C政策の根には、海上覇権とインド防衛を中核に据える大英帝国の安全保障観がありました。1869年のスエズ運河開通により、英本国—インド間の航路は喜望峰回りに比べて劇的に短縮され、エジプト・紅海の要衝化が進みます。ロスチャイルドの支援で英国政府がエジプト会社の株を取得したのち、1882年にはエジプトに軍事介入して実効支配を確立し、運河と地中海—インド洋の連絡線掌握を決定的にしました。3Cの北の起点であるカイロは、単なる都市ではなく、運河防衛・スーダン経営・紅海沿岸管理を統括する司令塔として位置づけられたのです。
一方、南端のケープタウンは、インド洋へ向かう航海時代以来の補給港であり、19世紀後半には南ア内陸のダイヤモンドと金鉱が帝国経済を牽引しました。ケープ植民地の政治家セシル・ローズは、ケープからカイロへ鉄道と電信を「ビクトリア女王の赤い線」でつなぐ夢を唱え、アフリカを縦に結ぶイギリス勢力圏の創出を帝国の使命と捉えました。この南北軸は、横に広がるフランスの西アフリカ横断構想(セネガル—ジブチ)を遮断し、ドイツやベルギーの植民地を分断して戦略的優位を確保する狙いを持ちました。
3つ目のCであるカルカッタは、ベンガル総督統治以来のインド統治の中枢であり、茶・黄麻・アヘン・綿製品の輸出港として大英帝国経済の重要な結節点でした。インドは帝国の「宝石」であり、ここを守り補給するために、東アフリカ沿岸やアラビア海の石炭補給港(コーリングステーション)、アデン・ゼイラ・ベルベラ等の拠点整備が推し進められました。3Cは、海の動脈(スエズ—紅海—アデン—インド)と、陸の背骨(ケープ—ローデシア—中央アフリカ—ナイル—カイロ)を束ねる、二重の安全保障アーキテクチャだったのです。
実施の中身—鉄道・電信・港湾と植民地行政の連動
3C政策を支えた第一の手段は鉄道でした。南部ではケープ植民地からキンバリー(ダイヤモンド鉱)を経てトランスヴァール・オレンジ自由国方面に伸びる線路が拡充され、北へはベチュアナランド(現ボツワナ)を経て北ローデシア・南ローデシアへと延びました。東アフリカでは、英国東アフリカ保護領(現ケニア)でウガンダ鉄道(モンバサ—ナイロビ—キスム)が建設され、ナイル上流域の掌握とヴィクトリア湖周辺支配の足がかりとなりました。これらの鉄路はしばしば赤字でしたが、軍事輸送・行政・入植の促進、港湾と内陸の結節という戦略価値が優先されました。
第二は通信です。帝国は19世紀後半から海底電信網の構築に注力し、「オール・レッド・ライン」と呼ばれるイギリス領のみを経由する安全な通信経路を志向しました。ケープ、ダーバン、アデン、ボンベイ、カルカッタなどの主要港は電信と郵便で結ばれ、危機時の指令伝達を迅速化しました。通信の独自回線は、仮に中立国や対立国の領域が遮断されても、戦略情報の流れを維持する生命線でした。
第三は港湾と石炭補給です。蒸気船の時代、石炭は海軍と商船の血液でした。ケープやシモンズタウン、アデン、ペンガレン(ダーバン近傍)、セイロン(コロンボ)などに炭庫とドックを整備し、補給と修理の体制を固めました。これにより、地中海艦隊—紅海—インド洋艦隊のローテーションが可能となり、海上封鎖や通商保護の運用に柔軟性が生まれました。
第四は行政の連動です。エジプト(保護国化)—スーダン(英埃共同統治)—ウガンダ—ケニア—ローデシア—ケープという縦の行政帯は、司法・税制・土地制度・移住政策が相互に参照され、経験が横滑りしました。とくにスーダン征服(オムダーマンの戦い)後、ナイル水系の管理はカイロの政策と直結し、上流域の治安・灌漑・綿花栽培が帝国経済の供給網に組み込まれました。東アフリカの白人入植やインド系移民の労働導入は、鉄道建設・農園経営の担い手として位置づけられ、社会構造の変容を加速させました。
国際関係と衝突—ファショダ、ボーア戦争、3B政策との対抗
3C政策は、他の列強の大陸戦略と交錯し、度々衝突を招きました。フランスは西アフリカからチャド湖—ウバンギ—コンゴ—ジブチへ至る横断軸の形成をめざし、1898年のファショダ事件では、ナイル上流の要地をめぐって英仏軍が対峙しました。最終的にフランスが撤退し、英のナイル支配が確定しましたが、これは3Cの「背骨」を護持する象徴的な局面でした。
南部では、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国に対する支配権をめぐってボーア戦争(1899–1902年)が勃発します。ダイヤモンド・金鉱をめぐる利権、自治と帝国の主権の対立、そして鉄道・港湾の制御をめぐる戦略が絡み合い、英国は苦戦の末に勝利して南ア連邦(1910年)を成立させました。これにより、3Cの南端の安定が確保され、ケープ—内陸—北方への連続性が強まりました。
ドイツの「3B政策」(Berlin–Byzantium–Baghdad)との競合も重要です。独資で推進されたバグダード鉄道は、ベルリン—バルカン—小アジア—メソポタミア—ペルシャ湾を結ぼうとするもので、オスマン帝国の近代化と独の中東進出を後押ししました。これは英のペルシャ湾—インド航路と利害が正面衝突する構想であり、英はエジプト—紅海—インドの連絡と、ペルシャ湾での海軍優位をテコに牽制しました。結果として、3Cは3Bに対する海上・植民地側からの包囲網という性格も帯びました。
さらに、ロシアとの「グレート・ゲーム」も3Cの文脈に影を落とします。中央アジアからインド北西辺境への露の南下は、インド防衛の永続課題であり、3Cの東端であるカルカッタ—デリー—ボンベイの防衛戦略と結びつきました。1907年の英露協商は、ペルシア・アフガニスタン・チベットに関する勢力圏調整を通じて、インドの背後関係を安定化させ、3Cの海陸連結に余裕を与えました。
限界と影響—未完の大動脈と帝国の遺産
3C政策は構想として壮大でしたが、鉄道の「南北一本貫通」は最後まで実現しませんでした。ベルギー領コンゴやドイツ領東アフリカ(第一次大戦後は委任統治領)など、中部アフリカの政治状況・地形・資金の制約が、カイロ—ケープ直結を阻みました。ウガンダ鉄道やローデシア鉄道など、区間ごとの建設は進んだものの、全通という象徴的目標は叶わず、実態は「複数のハブと短距離リンクの集合体」に近いものでした。
それでも、3C的発想が残した影響は小さくありません。第一に、港湾・通信・鉄道の整備は、植民地支配の道具であったと同時に、後世の国家建設の基盤ともなりました。ナイロビやハラレ(旧ソールズベリー)、ルサカ、カイロ、ダーバン、モンバサ、ケープタウンといった都市は、鉄道と港の結節点として発展し、独立後も地域経済の中心であり続けました。第二に、行政の境界線は、帝国の軍事・通信の利便を優先して引かれたため、民族や生態系の境界とずれを生み、独立後の国境問題や資源管理の摩擦の種となりました。
第三に、社会構造の変化です。鉄道建設やプランテーション労働のためにインド系・アジア系の移民が東アフリカに流入し、商業・運輸で重要な役割を果たすようになりました。これは現代のケニア・タンザニア・ウガンダの多文化社会の形成に寄与する一方、差別と排除、国籍・土地権の問題を引き起こしました。南部アフリカでは、金・ダイヤモンド経済と治安立法が、労働管理・居住空間分離の制度化(のちのアパルトヘイト体制の前史)に繋がる負の遺産を残しました。
第四に、環境への影響です。大規模な鉄道・港湾・灌漑事業は、野生生物の移動や水系のダイナミクスを変え、保全と開発の対立を生みました。狩猟規制と保護区設定は帝国の管理下で始まりましたが、それはしばしば在地社会の土地利用を制限し、伝統的な資源管理を揺るがしました。
最後に、3C政策は帝国の自己像—「海を制し、陸を貫き、通信で束ねる」—を具現化した構想でしたが、第一次世界大戦とその後の国際秩序の変動、航空輸送と石油燃料の時代の到来により、石炭補給と海底電信に支えられた旧来の帝国アーキテクチャは次第に相対化されました。とはいえ、航路と港、鉄道と都市の配置がつくった空間構造は容易に消えず、現代の物流・エネルギー・通信網の祖型として影を落とし続けています。
用語整理—「3C」と「3B」の対比、誤解の避け方
教科書的には、「3C政策」は英国の〈Cairo–Cape Town–Calcutta〉、「3B政策」はドイツの〈Berlin–Byzantium(コンスタンティノープル)–Baghdad〉を指します。両者はともに鉄道・通信で自国の勢力圏を連結しようとする「線の論理」ですが、前者は海上優位とインドの保持を核に、後者は中欧—オスマン—メソポタミアの陸の回廊を核にしています。混同を避けるコツは、イギリス=海と紅海・インド洋、ドイツ=陸とバルカン・小アジアという軸で覚えることです。また、3Cが必ずしも一本の鉄道だけを意味しない点(通信・港湾・軍事行政の総体)を押さえておくと、理解が立体的になります。
以上のように、3C政策は、単純な標語以上に、多層のインフラと国際政治を同時に動かす帝国の戦略でした。鉄道の地図線、海底電信のケーブル、港の炭庫、税関と法廷、そして兵站と移民—それらが一本の糸に束ねられて、赤い海図上に「C—C—C」を描いたのです。

