ヴィジャヤナガル王国(1336頃〜17世紀半ば)は、南インドに広大な領域国家を築き、デカンのイスラーム政権と拮抗しながら約3世紀にわたり政治・経済・文化の中心として繁栄した王国です。首都は現在ハンピ遺跡として知られるヴィジャヤナガルで、巨大な寺院都市を核に市場・工房・貯水池・堤防が周到に配置され、王権・宗教・商業が一体化した都市文明が開花しました。王朝はサンガマ家に始まり、サルヴァ、トゥールヴァを経て、終末期のアラヴィードゥ家へと交替します。最盛期のクリシュナ・デーヴァ・ラーヤ(在位1509–1529)は北のガジャパティ国やデカン諸スルタン国に連勝して勢威を示し、テルグ文学やドラーヴィダ様式建築を擁護しました。一方で、騎兵の軍馬供給を西海岸の海上交易に依存する軍事・財政構造には脆さがあり、1565年ターリコータ(ラクシャサ=タンガーディ)の敗戦で王都が壊滅的打撃を受けると、首都移転と領域の分解が進みます。それでも、ナーヤカ制の地方政権や寺院—水利—市場の結合は長く生き残り、後世のマドゥライ、タンジャーヴール、ジェンジーなどの「ナーヤカ政体」や南インドの文化基層に大きな遺産を残しました。
成立と対外関係:デカンとの拮抗、海と馬のネットワーク
ヴィジャヤナガルの建国は1336年頃、トゥンガバドラー川流域で兄弟ハリハラ(ハッカ)とブッカが据えた政権にさかのぼるとされます。師友とされる賢者ヴィディヤーラニャの後押しのもと、カンナダ語圏・テルグ語圏・タミル語圏を跨ぐ高原と平野の接点に都城を置き、崩壊過程にあったホイサラ・カーカティヤ・パンディヤの旧領を継承しました。14世紀後半以降はデカン高原に台頭したバフマニー朝と国境地帯(ラーイチュール・ドゥアーブなど)をめぐって長期の抗争を繰り返し、次第に「北のイスラーム王国—南のヴィジャヤナガル」という大構図が固定化していきます。
15世紀、デーヴァ・ラーヤ2世の時代には攻守が機動的に入れ替わり、都市の防衛線と騎兵・象兵・歩兵の混成運用が洗練されました。王権は沿岸の港湾都市(ホーナヴァル、バータカル、ナガパッティナムなど)を介してペルシア湾・アラビア海交易に深く関与し、戦略物資である馬の輸入を特権的に掌握しようと努めます。16世紀初頭にゴアを押さえたポルトガル勢力とは、敵対と協調を織り交ぜながら、馬・銃器・胡椒や宝石の流通で利害を調整しました。王権の軍事力は、沿岸—内陸—都城を結ぶこの物流ネットワークの安定に大きく依存していたのです。
クリシュナ・デーヴァ・ラーヤの治世は王国の頂点でした。彼は東部でガジャパティ朝(オリッサ)に圧力をかけ、北のデカン諸国(アフマドナガル、ビーダル、ビジャープル、ゴールコンダなど)とも局地戦で優位に立ちました。外交では、敵対勢力を分断する同盟策を積極的に採用し、南インドの広範な諸王侯に対し宗主権を及ぼします。文学では自らテルグ語の叙事詩『アムクタマーリヤダ』を著したと伝えられ、宮廷はサンスクリット・テルグ・カンナダ・タミルの文人を保護しました。旅行者ドミンゴ・パエスやニコロ・デ・コンティ、アブドゥッラザークらの記録は、首都の大きさと富、祭礼と軍事パレードの壮観、都市計画の精妙さを生々しく伝えています。
統治構造と経済:ナーヤカ制、寺院—水利—市場の複合体
統治の骨格は、王直属の中枢官僚と地方の軍事領主(ナーヤカ、アマラナーヤカ)による分権的支配でした。王は征服地に「アマラ」と呼ばれる軍役付与地を与え、受領者のナーヤカは徴税・治安・兵の供出義務を負いました。これはイスラーム政権のイクター制と比較されますが、寺院・在地有力者との三者関係を通じて地域統合を進めた点に特色があります。王都では評定機関が財政・軍事・儀礼を統括し、王名の刻まれた金貨パーゴダ(ヴァラー)や銅貨が通用し、租税は現物と貨幣納の併用でした。
経済のエンジンは、灌漑施設の建設と維持に支えられた農業生産と、鉱物・森林資源・工芸の複合でした。トゥンガバドラー川や支流に築かれた堰(アナイカッツ)、タンク(貯水池)、運河網は、乾燥と洪水の両リスクを調整し、二期作や園芸作物の生産を可能にしました。米・キビ・甘蔗に加え、綿・藍・香料・果樹が栽培され、都市近郊では青銅器・鉄器・宝飾・織物の工房が連なりました。特にダイヤモンドや貴石の流通、胡椒・香辛料の再輸出は王都の市場を賑わせ、細長い参道(バザー・ストリート)は宗教祭と商業を結びつける「信と利」の回廊として機能しました。
寺院は宗教施設であると同時に、土地開発と福祉・信用の中核でした。巨額の寄進は寺領の拡大・水利の新設・祭礼の運営に投じられ、寺院は穀倉・金庫・雇用の場として地域の安全網を提供しました。僧官・祭官・楽師・舞姫(デーヴァダーシー)・職人・商人が寺院経済に連なり、王権はこれを保護しつつ課税・軍役の台帳管理を進めました。都市は「寺院—市—貯水池—堤防—城塞」という重層の輪で守られ、宗教的中心と都市的生活が渾然一体となる「寺院都市」モデルが形成されました。
軍事は歩騎象砲の複合で、16世紀には火器・火砲が重要度を増します。西海岸の港を通じた火縄銃・大砲の調達、砲術の人材登用は進みましたが、騎兵の質は依然として馬の輸入に左右されました。都城防衛では花崗岩の巨石地形を利用した同心円状の城壁・関門・壕が設計され、要地の丘陵には見張りと烽火台が連なりました。王都には兵站・厩舎・武具庫・象房が整備され、行軍路は貯水池と市場で支えられました。
文化と都市・建築:ドラーヴィダ様式の成熟と多言語の宮廷
ヴィジャヤナガル文化の象徴は、ドラーヴィダ様式寺院建築の成熟です。ラーヤ・ゴープラムと呼ばれる高層門塔は、粘土塑像と漆喰装飾で彩られ、遠方からの視認性と王権の威容を示しました。マンダパ(柱廊)には神話や王の行列、祭礼の場面が浮彫で刻まれ、戦象・馬・踊るヤクシャ—ヤクシニー、天女—武士が連続するレリーフは、力動感に満ちています。ヴィッタラ寺院の石造戦車(ラタ)、ハザーラ・ラーマ寺院の叙事壁面、アチュタラーヤ寺院の長いバザー街は、宗教—市—王権の一体性を視覚化した代表例です。
王宮区には蓮の池(ロータス・マハル)や象房、広大な会議場跡が見られ、イスラーム建築のアーチやドーム意匠の折衷も確認されます。これは、ムスリム系の工匠・砲術家・商人の存在が宮廷と都市に深く浸透していたことを示唆します。音楽・舞踊ではカルナータカ音楽の体系化が進み、舞踊劇やバジャナ(讃歌)が都市の祭礼で演じられました。文学は多言語で開花し、テルグ詩が隆盛する一方、カンナダ・タミル・サンスクリットの学匠も宮廷に集い、宗教ではヴィシュヌ派・シヴァ派のバクティ運動が庶民と宮廷を横断しました。宗教的寛容は実利的でもあり、寺院群の共存、ジャイナ教施設の存続、イスラーム墓廟の存在が混淆の文化相を形作りました。
都市計画は、自然地形の利用と人工インフラの精緻な結合に特徴があります。巨石群を天然の城壁として取り込み、谷筋に貯水池と堰を連ね、街路は市・神域・宮域を結ぶプロセッション・ルートとして設計されました。水利は単に農業のためでなく、祭礼の沐浴・市井の衛生・消火・石切場と工房の冷却など多目的に用いられ、都市の生態系を支えました。今日のハンピ遺跡に残る石樋・水路・階段井戸は、その工学的合理性と審美性を同時に物語ります。
衰退と継承:ターリコータの敗北、首都移転、ナーヤカ政体の時代
1565年、デカン諸スルタン国(アフマドナガル・ビジャープル・ゴールコンダにビーダルが連合)がラクシャサ=タンガーディ(ターリコータ)でヴィジャヤナガル軍を撃破し、実権を掌握していたアリヤ・ラーマ・ラーヤが戦場で捕縛・処刑されました。敵は王都へ雪崩れ込み、宮城と市街は略奪・焼亡の惨禍を被ります。王権はペヌコンダ、のちチャンドラギリやヴェッロールへと首都を転々とし、最後のアラヴィードゥ家は17世紀半ばにかけて威信を保とうと努めましたが、領域支配の実質は急速に痩せ細りました。
しかし、衰退は直ちに崩壊を意味しませんでした。地方ではナーヤカが自立化し、マドゥライ・タンジャーヴール・ジェンジーなどで独自の宮廷文化・建築・水利事業・寺院パトロネージを発展させます。これら「ナーヤカ政体」は、ヴィジャヤナガルの行政・軍事・儀礼の遺産を受け継ぎ、17世紀の南インド政治と文化の主役となりました。東岸・西岸の港湾では、ポルトガル・オランダ・イギリス・デカン勢力が交錯し、織物・香料・宝石の交易は形を変えつつ継続します。寺院—市場—水利の結合は、ムガル帝国南下やマラーター勢力の進出、さらに18世紀のイギリス東インド会社の支配期に至るまで、地域社会の生存基盤であり続けました。
学術と記憶の領域でも、ヴィジャヤナガルは長い影を投げます。碑文・銘文は土地贈与・税免・軍役・儀礼の細部を伝え、旅行者記録は都市の規模と経済の厚みを描写しました。ハンピの考古学は、都市計画・水利工学・工房跡の発掘から「寺院都市国家」の実像を復元しつつあります。今日、ヴィジャヤナガルは、宗教と都市、軍事と市場、在地と海のネットワークを束ねた「南アジア型の領域国家」の完成形の一つとして注目されます。その核心にあったのは、王権の権威を寺院の聖性と都市の活力に接合する設計思想であり、同時に馬と火器と海上交易に依存するグローバルな脆弱性でもありました。繁栄と断絶の双方を刻むこの王国の軌跡は、インド洋世界とデカン高原のダイナミクスを理解するうえで欠かせない手がかりです。

