イスラーム世界とは、7世紀にアラビア半島で起こったイスラーム教の信仰共同体(ウンマ)を基盤としつつ、その後数世紀にわたり広大な地域へと拡大し、宗教・法・言語・学術・都市文化・交易ネットワークなどの諸領域で共有性をもった文明圏を指す概念です。単にムスリム多数地域を寄せ集めた地理的総称ではなく、聖典と法、巡礼や教育ネットワーク、商人・学者の移動、建築・美術・日常規範、貨幣・信用の流通など、多層の結びつきが織りなす文化的・社会的連関を意味します。また、イスラーム世界は一枚岩ではなく、地域・時代により表現と制度が大きく異なるモザイク的実体であることを強調しておく必要があります。
この用語を理解するうえで重要なのは、宗教としてのイスラーム(信仰・礼拝・倫理)と、イスラーム文化圏(宗教以外の領域も含む広義の文明現象)を区別する姿勢です。後者はしばしば「イスラーム的(イスラーミケイト)」と呼ばれ、イスラームの宗教法に依拠しない要素――例えば宮廷詩や世俗文芸、服飾・食文化、ギルドや市場の慣行――までをも含みます。イスラーム世界はアラブ世界や中東と同義ではありません。アラブ語が支配的でないペルシア語圏やトルコ語圏、南アジア・東南アジア・サハラ以南アフリカの広大な地域も、イスラーム世界の中核的領域を構成します。
時間軸では、ムハンマドの活動とヒジュラ(622年)を起点に、正統カリフ期・ウマイヤ朝・アッバース朝による統合ののち分権化が進み、中央ユーラシアのトルコ系勢力やペルシア系王朝、インド洋・サハラ交易の結節点で多様な「地域イスラーム世界」が生まれました。近世にはオスマン・サファヴィー・ムガルの三帝国が並立し、近代以降は植民地化と国家形成、宗教改革や教育刷新を経て今日に至ります。以下では、用語と範囲の整理、空間構造とネットワーク、社会制度と知の体系、歴史的展開と地域多様性の四つの視点から概説します。
用語と範囲—宗教共同体と文明圏の二重性
イスラーム世界を語る際、まず「ダール・アル=イスラーム(イスラームの家)」という古典概念が参照されます。これはイスラーム法が公に機能する領域を指し、対概念として「ダール・アル=ハルブ(戦の家)」や「ダール・アル=スルフ(講和の家)」が置かれました。ただし、現実の歴史では境界は流動的で、交易・休戦・自治協定により多様な中間帯が広がりました。したがって境界線で世界を二分する理解は避け、往来と妥協の空間として捉えることが適切です。
用語上は、宗教のイスラーム(Islam)と、その文化的表現全般を含む「イスラーム的(Islamicate)」を区別することが有用です。前者は六信五行などの教義と儀礼を指し、後者はイスラーム社会で生まれたが必ずしも宗教的ではない現象――宮廷詩、装飾美術、料理、都市生活の様式など――を含みます。この区別により、例えばペルシア語文学やトルコ語の叙事詩、スワヒリ海岸の石造都市文化を、宗教的正統性の有無だけで評価する偏りを避けられます。
言語の面では、アラビア語が啓典の言語として広域の学知の共通語(リングワ・フランカ)となり、神学・法学・科学の標準語を形成しました。同時に、ペルシア語は行政・文芸・宮廷文化の主要言語としてイランからインドにまで広がり、トルコ語(オスマン語)は東地中海世界の官僚語として定着しました。インド・マレー・スワヒリなど各地域語も、イスラーム語彙を取り込みながら独自の文芸を開花させています。したがって「アラビア語化」「イスラーム化」「ペルシア化」「トルコ化」は一致せず、それぞれ異なる速度と位相で進行しました。
宗教的多数派がムスリムであっても、ユダヤ教徒やキリスト教徒、ゾロアスター教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒などが共存する都市が珍しくなかった点も、イスラーム世界の特徴です。被保護民(ズィンミー)制度は制限と保護を併せ持ち、通商・学芸・金融で重要な役割を担いました。近世オスマン帝国ではミッレト(宗教共同体)制度が発達し、宗派ごとに身分法や教育を自律的に運用する枠組みが整いました。
空間構造とネットワーク—陸海の動脈と都市の連鎖
イスラーム世界の骨格は、陸のキャラバン路と海のモンスーン航路の結節点に形づくられました。サハラ横断交易ではラクダが塩・金・奴隷・布を運び、オアシス都市とサハラ縁辺の王国(ガーナ、マリ、ソンガイ)を結びました。インド洋では、アラビア海・ベンガル湾・ジャワ海を季節風に合わせて往復する帆船(ダウ船)が、香辛料・綿織物・陶磁・象牙・木材・知識・人材を運び、スワヒリ海岸、インド西岸、アラビア、ペルシア湾、東南アジアを結ぶ広域市場を形成しました。地中海と紅海、ペルシア湾とメソポタミアは、欧亜の交易動脈を束ねる要衝で、関税と倉庫業は国家財政の柱となりました。
都市はこのネットワークのノードとして機能しました。バグダード、ダマスクス、カイロ、フェズ、コルドバ、グラナダ、サマルカンド、ブハラ、タブリーズ、イスファハーン、デリー、アグラ、ラホール、イスタンブル、ザンジバル、マリンディ、マラッカ、アチェ、パレンバン、メディナ・メッカなどは、宗教・教育・金融・手工業・国際商業の中心でした。都市空間は、主モスク(ジュアーミ)、スーク(市場)、カールヴァンサライ(隊商宿)、ハンマーム(浴場)、サビール(給水施設)、病院(マールスタン)、学院(マドラサ)、スーフィー宿舎(ハーンカーフ/ザーヴィヤ)などの施設で構成され、ワクフ(寄進財産)が維持費を支えました。
移動と巡礼は人と知の循環を促しました。ハッジ(メッカ巡礼)は、宗教的義務であると同時に情報・商品・書籍・法学見解が交換される巨大な公共圏を形成し、マグリブからインド、東南アジアに至る信徒の往来が記憶と文書に刻まれています。ウラマー(学者)や書記、工匠、商人は、推薦状と師弟関係(イジャーザ)を携えて都市から都市へ移動し、学説・技術・信用が広域で連鎖しました。信用取引では、為替手形(スフタジャ)や送金ネットワーク(ハワーラ)が活用され、長距離交易のリスクを軽減しました。
農業と水利は、都市と交易を支える基盤でした。オアシスのカナート(地下水路)やナリア(揚水車)、氾濫農業の管理、段々畑の整備が各地で発達し、果樹・綿花・サトウキビ・柑橘・ナス科作物・コメなど多様な作物が広がりました。しばしば「アラブ農業革命」と呼ばれる生産と作物の拡散は、地域差と時期差が大きいものの、料理・医薬・園芸・衣生活に長期の影響を与えました。
社会制度・法・知の体系—ウラマー、法学、学芸、芸術
イスラーム世界の社会的骨組みは、法と学知の制度化にあります。イスラーム法(シャリーア)は、啓典とスンナを基礎に、法学(フィクフ)の諸学派が解釈を与え、判事(カーディー)と法学権威(ムフティー)が具体的判断(ファトワー)を提示しました。スンナ派ではハナフィー、マーリク、シャーフィイー、ハンバルの四学派が広域に分布し、シーア派(十二イマーム派)ではジャアファル法学が発展しました。国家の成文規(カーヌーン)や宮廷慣例と法学の折衷は常態で、地域ごとの実務が形成されました。
教育制度は、モスクに付設された初等教育から、寄進財産で維持されるマドラサへと展開し、法学・神学・言語学・論理学・数学・天文学・医学が教授されました。翻訳運動を通じてギリシア語・シリア語・ペルシア語の文献がアラビア語に取り込まれ、代数学、光学、薬学、地理学、哲学が発展します。天文学の天文台、病院と薬局の制度、紙の普及と書誌学は、知の生産と流通を加速させました。これらの知は、アンダルスやシチリア、十字軍・商人ネットワークを介してラテン世界に伝わり、ヨーロッパ中世後期から近世の学術に影響しました。
社会構造では、都市の商人・工匠ギルド、学者層、軍事奴隷(マムルーク)や遊牧的戦士集団、農村の小農市民が相互に依存し、女性は家族・市場・宗教教育に多様に関与しました。女性の財産権や相続権は法的に保障されつつ、実践面では地域差が大きく、上層のパトロネージ(寄進、教育、学問への後援)から庶民の商取引・手工業への参加まで、幅広い事例が確認されます。奴隷制は軍事・家内・行政補助などで存在しましたが、マムルークのように軍事エリートへ上昇する制度も併存しました。
宗教文化では、礼拝空間と聖なる文字が美術の中心となりました。偶像的像の忌避は、書の美(カリグラフィー)、幾何学・植物文様(アラベスク)、ムカルナスを用いた建築的装飾へと創造的に展開され、モスク・霊廟・学院・宮殿に独自の美学を与えました。音楽・詩歌・説教は都市の公共圏を彩り、物語文学(『千一夜』)やアダブ(教養文学)が宮廷と市民の双方で愛好されました。食文化ではコーヒーとコーヒーハウスが近世オスマンの都市社会に新たな社交空間を生み、宗教論争と共存しながら拡がりました。
スーフィズム(イスラーム神秘主義)は、都市と農村の双方で道統(ターリカ)を形成し、霊的修行と慈善・教育を通じて社会統合の機能を果たしました。ナクシュバンディー、カーディリー、シャーズィリーなどの道統は、中央アジアからマグリブ、南アジア、東南アジアまで広がり、布教の担い手としても重要でした。スーフィー聖者の霊廟は巡礼・市場・祝祭の中心となり、地域社会のアイデンティティ形成に寄与しました。
歴史的展開と地域多様性—統合・分権・帝国・周縁の星座
初期の統合期には、正統カリフとウマイヤ朝がアラビア半島外へ急速に領域を拡大し、行政のアラビア語化、貨幣改革、道路網の整備が進みました。アッバース朝の下でバグダードは学芸・商業の世界都市となり、翻訳運動と官僚制が成熟します。しかし9世紀末以降、地方王朝が自立し、ファーティマ朝、ブワイフ朝、サーマーン朝、セルジューク朝、ムラービト・ムワッヒド朝などが各地で覇を競いました。分権化は衰退ではなく、多中心化と地域文化の成熟を意味し、サマルカンドやイスファハーン、カイロやフェズ、コルドバのような都市がそれぞれ独自の黄金期を経験しました。
十字軍期は、軍事的緊張とともに交易と知の交流を促し、海商と金融の発展、軍事技術と医療知の共有が進みました。モンゴルの侵入は1258年にバグダードを破壊しますが、イルハン朝のイスラーム化やマムルーク朝の学芸保護により、知と宗教の再編が進みました。ティムール朝期には中央アジアの都市文化が爛熟し、サマルカンドの建築群はその象徴です。
近世には、オスマン・サファヴィー・ムガルの三帝国が広域秩序を再編しました。オスマンは地中海・黒海・紅海を統合する軍事海上帝国として、ティマール制・ミッレト制で多民族・多宗教の管理を行い、イスタンブルを巨大な宗教都市・商業都市に発展させました。サファヴィーは十二イマーム派シーアを国教化し、イスファハーンを中心とした都市美術と商業を発展させました。ムガルはインドの多宗教社会を統治するための行政・財政制度を整え、宮廷文化の合成美術を開花させます。これらの帝国はしばしば競合しつつ、商人・学者の移動、外交・婚姻・芸術の交流を通じて相互に影響しました。
イスラーム世界の周縁とされがちな地域も、実は中心と同等に重要です。西アフリカではトンブクトゥが学術都市として栄え、写本文化が豊かに発達しました。スワヒリ海岸はインド洋交易の要で、石造都市、イスラーム法廷、コーラン学校が海商社会を支えました。東南アジアではマラッカやアチェ、ジャワの宮廷がイスラーム法と王権儀礼を融合し、ムスリム商人とスーフィーのネットワークが地域的イスラームを定着させました。南アジアではデリー・スルターン朝とムガル帝国が、ペルシア語官僚制とイスラーム法、ヒンドゥー社会の秩序を調停しながら複雑な統合を図りました。
近代以降、ヨーロッパの軍事・経済的優位と植民地支配は、イスラーム世界の政治的主導権を摇るがしました。これに対して宗教改革や教育近代化、法整備による再生が各地で模索され、新聞・印刷・公共圏の拡大と結びつきます。国家形成と資源経済、移民の拡大は、イスラーム世界の重心をさらに多中心化させ、湾岸・トルコ・イラン・北アフリカ・南アジア・東南アジア・アフリカ大陸内陸の都市群が、それぞれ新しいネットワークを形成しました。現代のイスラーム世界は、宗教権威の分散、メディア空間の拡張、グローバル金融とハラール産業、ディアスポラの公共圏を通じて、かつてない形で相互接続されています。
総じて、イスラーム世界は、宗教共同体としての結束と、地域ごとの言語・制度・文化の多様性が併存する「網の目」のような文明圏です。陸海の交通路と都市の鎖が血管のように張り巡らされ、法と学知がその循環を律し、巡礼と商業、学問と敬虔が人々の時間を組み立ててきました。単純な中心―周縁の図式では捉えきれない複眼的世界として理解することが、この用語を正確に把握する一助となります。

