アルゼンチンの民政移行とは、軍事独裁(1976–83)から選挙で選ばれた文民政府へ統治を戻し、その後に文民統制・人権・法治・政党政治を定着させていく過程を指します。直接の転機は1982年のフォークランド(マルビナス)戦争の敗北と経済破綻で、1983年10月の総選挙、同年12月10日のアルフォンシン政権発足へとつながりました。アルゼンチンの移行は、(1)選挙の自由化と政党間競争の回復、(2)国家犯罪への司法的対応(真相究明と刑事責任追及)、(3)軍の政治からの退場=文民統制の制度化、(4)ハイパーインフレや対外債務危機への経済対応、という四つの課題が同時進行した点に特徴があります。とくに「真相・正義・記憶(真実委員会=CONADEP、軍政幹部裁判、記憶運動)」の三点を早期に進めたことは、南米の移行の中でも際立っていました。
以下では、軍政期から移行の開始、移行の設計(司法・軍制・制度)、経済・社会と政治の再編、そして意義と教訓という順に整理し、用語上の注意も示します。
軍政から移行開始へ:危機の連鎖と1983年選挙
1976年のクーデタで成立した軍政(「国家再編成過程(Proceso de Reorganización Nacional)」)は、左派武装組織と反体制に対する組織的な抑圧を行い、多数の「行方不明者(失踪者)」を生み出しました。拷問・秘密拘禁・新生児の奪取などの人権侵害は国内外の批判を呼び、経済運営は累積債務とインフレの悪循環に陥りました。1982年のフォークランド(マルビナス)戦争は軍の威信を回復する試みでしたが、敗北は統治の正統性を決定的に損ない、早期の民政移管の日程が具体化します。
1983年10月、自由で競争的な総選挙が実施され、急進市民同盟(UCR)のラウル・アルフォンシンが勝利しました(ペロニスタ陣営はイタロ・ルーデル)。同年12月10日に就任した新政権は、まず治安部門の統制と過去の人権侵害への対応を最優先に据え、国家と社会の信頼を取り戻す方針を明確にしました。この日付はのちに「民主主義の日」として記憶され、以後の政権移行の節目でも重視されます。
移行の設計:真相究明と裁き、文民統制、制度の再建
第一に真相究明と司法的責任です。アルフォンシン政権は、就任直後に大統領令で国家失踪者調査委員会(CONADEP)を設置し、被害証言・現場調査・記録収集を進めました。1984年に提出された報告書『Nunca Más(二度と繰り返すな)』は、国家によるテロの実態を体系的に可視化し、社会の共通認識を形成しました。これを受けて、1985年には軍政中枢の幹部を裁く「フンタ裁判」がブエノスアイレスの連邦法廷で行われ、複数の元最高司令官に有罪判決が下されました。移行直後に民間の裁判所で現役・元軍最高幹部を裁いたことは、国際的にも画期的でした。
ただし、軍内部の反発は強く、1987年の「カラピンターダス(顔を塗った兵士)」の反乱など、断続的な兵士蜂起が生じました。政権は緊張緩和と統制維持のため、訴追の範囲を制限する「最終閉鎖法(Punto Final, 1986)」と「職務命令服従法(Obediencia Debida, 1987)」を通過させ、末端兵の責任を一定範囲で免責しました。これらの法は国内外で激しい論争を呼び、のちに無効化・違憲化(2000年代)され、裁判は再開されていきますが、当時の危機管理としては「民主政の生存」と「正義の追及」の均衡を模索した苦渋の選択でした。1989–90年には次のメネム政権が広範な大統領恩赦を出し、移行期の司法戦略には大きな揺り戻しも経験されます。
第二に文民統制の制度化です。防衛・治安の区分を明確化し、軍の役割を対外防衛に限定する方向で法整備が進みました。1988年の国家防衛法は文民の統帥権と軍の任務範囲を規定し、1991年の国内治安法は内務・警察・憲兵の管轄を整理しました。軍の予算・人事・教育に対する文民監督、情報機関の再編、国境と平時治安の線引きなど、見えにくい実務の改革が積み重なります。対外的にも、1984年のビーグル水道紛争に関する国民投票で教皇庁仲介案を受け入れ、チリと平和条約を結んだことは、軍事的緊張を低減し、文民統制に追い風をもたらしました。
第三に制度の再建と政党政治です。議会・司法の自律性を回復し、政党間の競争と妥協のメカニズムがよみがえりました。選挙制度の整理、最高裁の構成、連邦・州の関係調整、とくにブエノスアイレス自治と中央政府の権限配分が論点となります。1993年のオリーボス協定を経て、1994年には憲法改正が実現し、大統領の即時再選(1期)や首相に相当する内閣官房長官の新設、人民投票・政党に関する規定強化など、分権と抑制均衡の設計が一歩進みました。
経済・社会の試練と政治の再編:危機の中で民主政を保つ
移行期のアルゼンチンは、政治改革と並行して深刻な経済危機に直面しました。1985年のアウストラル計画(通貨単位変更・財政引き締め)で一時的にインフレを抑制したものの、構造的な財政赤字と債務、価格賃金のスパイラルは解消せず、1989年にはハイパーインフレが爆発し、アルフォンシンは任期を数か月残して退任、カルロス・メネム(正義党=ペロニスタ)が前倒しで就任しました。1991年の平価固定(コンベルティビリダ)は物価安定をもたらす一方、民営化と金融自由化のリスクを高め、1990年代末以降の外部ショックに脆弱性を残します。
それでも、民主政は持ちこたえました。労働組合(CGT)と企業団体、州知事・市長と中央政府の交渉、連邦裁判所の判断、人権団体の監視、メディアの批判など、複数のアクターが互いを牽制し合う環境が、軍による再介入を抑止しました。とくに五月広場の母たち/祖母たち(Madres/Abuelas de Plaza de Mayo)による記憶運動、1987年に創設された国家遺伝データバンクによる奪取児の身元回復は、移行正義を社会の土台に定着させる役割を果たしました。1990年代の大統領恩赦の時期を経ても、2003年以降には国会の無効化決議・最高裁の違憲判断を通じて訴追が再開され、多数の人権裁判が21世紀に入ってからも継続しています。
外交では、1980年代末〜1990年代にブラジル・ウルグアイ・パラグアイとメルコスールを発足させ、南米の地域統合と相互信頼は軍事の非政治化を後押ししました。国際人権レジーム(米州人権裁判所・国連条約体制)への接続も、国内改革の参照枠となりました。
意義・教訓・用語:早期の裁き、記憶の制度化、均衡の政治
アルゼンチンの民政移行の意義は、第一に「早期の真相究明と裁き」を国家が正面から引き受け、独裁の加害を法廷で可視化した点にあります。これは被害社会の尊厳回復のみならず、軍の政治的特権を解体する実効的手段となりました。第二に、反動や恩赦の波を経ながらも、記憶の制度化(記念日・博物館・教育・身元回復制度)を通じて「二度と繰り返さない」規範を公共空間に根づかせたことです。第三に、深刻な経済危機の下でも、政党間競争と合意形成(憲法改正・文民統制法制)が機能し、クーデタに回帰しない均衡の政治が機能したことです。
用語上の注意として、①「民政移行」は1983年の選挙と就任という政治的転回を指す狭義と、90年代初頭の制度整備までを含める広義があり、文脈で範囲を示すこと、②CONADEP(国家失踪者調査委員会)と『Nunca Más』、1985年のフンタ裁判、1986–87年のPunto Final/Obediencia Debida、1989–90年の恩赦、2000年代の無効化・違憲化という時系列を押さえること、③「カラピンターダス」の反乱は軍の政治復帰ではなく、むしろ文民統制法制の強化を促した逆説的契機として捉えること、の三点を挙げます。
総括すれば、アルゼンチンの民政移行は、選挙だけで完結しない「長い移行」でした。司法・軍制・記憶・経済・外交が組み合わさる複合工程を経て、民主主義は少しずつ不可逆性を高めました。比較史の視点では、ウルグアイやブラジル、チリと並ぶ南米の移行の中で、「真相・正義・記憶」の先行例としての位置づけが重要です。現在も、貧困・不平等・公共安全・制度信頼に関する課題は残りますが、1983年に始まった枠組みは、政権交代を重ねつつ維持されており、12月10日が象徴する「民主政の常態化」は、同国の現代史を理解するうえで不可欠の基準点になっています。

