シナイ半島返還 – 世界史用語集

「シナイ半島返還」とは、1967年の第三次中東戦争(六日戦争)でイスラエルが占領したシナイ半島を、1979年のエジプト・イスラエル平和条約にもとづいて段階的にエジプトへ返還した過程を指す用語です。返還は一挙ではなく、停戦・段階的撤兵・平和条約・監視体制・国境画定という複数の段階を踏み、最終的に1982年4月25日の主たる撤収完了、さらに1989年のタバ地区の帰属確定をもって仕上げられました。背後には1978年のキャンプ・デービッド合意、米ソ冷戦下の大国調停、石油危機後のエネルギー利害、アラブ諸国の対エジプト関係の変動などが複雑に絡みます。返還は、エジプトにとって領土回復と経済再建の前提を整える一方、アラブ世界の分断や国内政治の緊張を招く結果も生みました。本稿では、(1)背景と合意形成、(2)平和条約と段階的返還の実際、(3)安全保障・監視体制・国境の技術、(4)地域・国内への影響と誤解の整理、の観点から分かりやすく整理します。

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背景と合意形成:戦争・停戦・交渉の長い弧

起点は1967年の第三次中東戦争です。エジプトはガザ地帯・シナイを失い、スエズ運河は前線となって長期閉鎖されました。その後の「消耗戦」(1969〜70年)を経て、1973年の第四次中東戦争でエジプト軍はスエズ渡河に成功し、戦術的成果と政治的梃子を獲得しました。米ソの危機管理と国連安保理決議により停戦が成立し、1974年と1975年にエジプト=イスラエル間で第一次・第二次の兵力引き離し協定(シナイ暫定協定)が締結されました。これにより、運河の非武装地帯化や緩衝地帯の設定、国連監視のもとでの段階的撤兵が進み、スエズ運河は1975年に再開通します。

こうした軍事・外交的前段を踏まえ、1978年9月、米国の仲介でエジプト大統領サダトとイスラエル首相ベギンが米メリーランド州の山荘キャンプ・デービッドに参集し、二つの「枠組み」文書に合意しました。一つは「中東における平和への枠組み」(パレスチナ自治問題の基本線)で、もう一つが「エジプトとイスラエルの間の平和条約の締結に関する枠組み」です。後者がシナイ返還の核心であり、国境線の原則、段階的撤収、航行自由、ティラン海峡の通行、航空路・通信・経済関係の正常化、そして安全保障手配(兵力制限と監視体制)を規定しました。

この合意はアラブ世界に衝撃を与え、エジプトは1979年にアラブ連盟から資格停止処分を受け、連盟本部もカイロからチュニスに移転しました。他方で米国は、エジプトとイスラエル双方に経済・軍事支援を拡充し、条約履行を後押ししました。サダトは国内で激しい賛否の中にあり、1981年に暗殺されますが、後継のムバーラク政権は条約の履行を継続し、返還プロセスは止まりませんでした。

平和条約と段階的返還:1982年の撤収完了と1989年タバ

1979年3月26日、ワシントンでエジプト・イスラエル平和条約が調印・発効しました。条約は、(1)国境を1906年のオスマン帝国と英エジプトの協定線に基づく国際境界として再確認すること、(2)シナイからのイスラエル軍の段階的撤退、(3)エジプトとイスラエルの相互承認と関係正常化、(4)スエズ運河およびティラン・アカバ海峡の通航自由、(5)シナイでの兵力制限区域の設定と第三者による監視、を柱としました。

撤退スケジュールは三段階に分かれ、国連監視の下で計画的に実施されました。第1段階ではスエズ運河沿岸からの撤収、第2段階では中部シナイからの撤収と監視体制の強化、第3段階でシャルム・エル・シェイクを含む半島東南部の撤退が行われ、1982年4月25日に主要地域の返還が完了しました。この日に合わせ、イスラエルはシナイに造成していた入植地(代表例としてヤミト)を撤去し、住民や活動家の激しい抵抗を排して解体しました。エジプト側では旗が掲げられ、領土回復の象徴日として記憶されるようになりました。

ただし国境の一部、紅海北端の保養地タバ(エイラート対岸)の帰属は、1906年境界標識の位置をめぐる解釈争いで未解決のまま残りました。双方は仲裁に付し、1988年に仲裁委員会がタバのエジプト帰属を支持する裁定を下しました。これに基づき、1989年3月、タバは正式にエジプトに引き渡され、返還プロセスの最終ピースが収まりました。国境通過点(タバ—エイラート)はその後、観光と物流の主要ゲートの一つとなり、平時の相互往来の象徴的スペースとなっています。

返還に伴い、シナイの石油・ガス、特にアブ・ルデイスなどの油田施設もエジプト側に復帰し、エネルギー収入は経済再建に寄与しました。一方で施設の老朽化や投資の必要性も顕在化し、エジプトは国際資本との提携や国内資本の動員を通じて資源開発の再編に取り組みました。観光面では、シャルム・エル・シェイク、ダハブ、ヌウェイバといった紅海沿岸のリゾート開発が加速し、返還は地域経済の構造転換を後押ししました。

安全保障・監視体制・国境の技術:ゾーニングとMFO

平和条約の大きな特徴は、シナイにおける兵力制限のゾーニングです。エジプト側は西から順にA・B・Cの三区域に区分され、A区域(スエズ運河に近い西部)には機械化師団規模の部隊配置が許容され、B区域(中部)では国境警備隊と限られた兵器のみ、C区域(イスラエル国境・ガザ境界に近い東部沿岸)は本質的に非武装化され、エジプトは警察力のみを配備します。イスラエル側も国境沿いに兵力制限が設けられました。このようなゾーニングは、相互の脅威認識を低減し、奇襲可能性を下げるための制度設計でした。

監視を担うのが多国籍軍・監視団(MFO)です。条約履行のため国連平和維持活動の設置が試みられましたが、安保理での合意が得られなかったため、米・エジプト・イスラエルを中心に、条約付属議定書にもとづく独立の国際機関としてMFOが1981年に設立されました。MFOは北部キャンプ(エル・ゴラ)と南部キャンプ(シャルム・エル・シェイク近郊)を拠点に、哨戒・監視塔・ヘリ巡視・検証チームで兵力制限の遵守を確認します。参加国は時期により入れ替わりますが、米国をはじめ複数の国が部隊・後方支援を提供し、ローマにある本部が運営を統括します。

国境画定の「技術」も重要でした。1906年のオスマン帝国と英エジプトの合意に基づく境界標識(ピラー)の再発見・再設置、座標の近代測量、地図投影法の統一、海岸線の変動やワジの地形変化への対応など、細部の作業が積み重ねられました。タバ仲裁では、旧写真・測量記録・地図群・証言が精査され、微小なずれが主権の帰属を左右しました。返還は、政治的合意だけでなく、測量・地理情報・法技術の協働によって初めて完結したといえます。

こうした安全保障設計は、その後の治安環境の変動に合わせて調整が行われています。アラブの春以後、北シナイで武装勢力の活動が活発化した局面では、エジプトとイスラエルが協議のうえで、C区域への一時的増派や装備の変更を認める措置がとられました。これは条約の枠内で運用上の柔軟さを発揮した例であり、ゾーニングが固定的な「拘束」ではなく、信頼醸成と危機管理のプラットフォームとして機能していることを示します。

影響・評価・誤解の整理:平和のコストと持続可能性

返還は、各方面に長期的な影響を及ぼしました。エジプトにとっては、(1)領土回復とスエズ運河・シナイ資源の回帰、(2)軍事支出の抑制余地と経済再建への注力、(3)米国との関係強化と対外支援の拡充、という利点がありました。他方、(4)アラブ世界での孤立や「エジプト抜き」の反イスラエル連携の進展、(5)国内の政治対立と過激派の台頭、というコストも伴いました。イスラエルにとっては、(1)最大の隣国との平和による戦略的安定、(2)米国支援の強化、(3)南部国境の平定という利益と引き換えに、(4)戦略的緩衝地帯の喪失、(5)入植地解体という内政的代償を負いました。

パレスチナ問題との関係では、キャンプ・デービッドの第一の枠組み(自治)に沿った交渉は大きな進展を見ず、占領地の自治は1990年代のオスロ合意まで具体化しませんでした。このため、エジプトの単独和平は「分断の和平」と批判される一方、後年のヨルダンとの平和条約や湾岸諸国との関係正常化の流れを先取りした先例として評価する見方もあります。返還の持続可能性は、シナイの治安・開発・環境保護を両立させる政策選択と、両国の安全保障協力の継続にかかっています。

誤解を避けるために、いくつかの点を整理します。第一に、「1982年で返還は完全に終了した」という理解は不正確です。タバの帰属確定は1989年であり、ここまでを含めて返還プロセス全体と捉えるのが妥当です。第二に、「国境は新たに引き直された」という言い方も誤りで、条約は1906年の国際境界を再確認し、その線に沿って画定を復元したのが実相です。第三に、「国連PKOが監視している」という表現も厳密には正しくありません。監視を担うのは国連ではなく、条約付属議定書で設立された独立機関MFOです。第四に、「完全非武装化」との表現も適切ではなく、ゾーンA・B・Cの区分に応じた兵力制限という設計になっています。

学習のコツは、年表と地図に「法的文書」と「運用装置」を重ねることです。年表では、1967(占領)→1973(戦争と停戦)→1974/75(引き離し協定)→1978(キャンプ・デービッド)→1979(平和条約)→1982(主要返還)→1988/89(タバ仲裁・最終返還)と並べ、地図にはA・B・Cゾーン、MFOの拠点、主要国境通過点と航路を記入すると理解が立体化します。返還は、戦争の「終わり」ではなく、平和の「始まり」を現地に根づかせる長い行政・軍事・法・経済のプロセスであったことを意識することが大切です。