新ベオグラード宣言(しんベオグラードせんげん)とは、1988年3月にソ連共産党書記長ミハイル=ゴルバチョフが、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の首都ベオグラードを訪問した際に発表した対外・対東欧政策に関する声明を指します。ここでゴルバチョフは、かつて社会主義諸国への武力介入を正当化してきたブレジネフ=ドクトリン(制限主権論)を事実上否定し、各社会主義国がそれぞれの道を自主的に選択する権利を認める姿勢を明確に打ち出しました。
表向きには「ソ連・ユーゴスラビア関係の修復・発展」をうたう共同宣言でしたが、その内容はソ連の東欧政策を大きく転換させるものでした。従来、ソ連は「社会主義共同体全体の利益」を理由に、チェコ事件(1968年)などで同盟国内に軍事介入してきました。しかし新ベオグラード宣言は、他国の社会主義のあり方にソ連が上から口を出さないこと、すなわち内政不干渉と完全な主権尊重を掲げた点で、それまでの原則を根本から見直すサインとなりました。
この宣言が出された直後から、ポーランドの「連帯」政権の成立やハンガリー・東ドイツ・チェコスロヴァキアなど東欧諸国の民主化が一気に進み、1989年の東欧革命、さらには東西ドイツ統一・ソ連解体へとつながっていきます。世界史の学習では、新ベオグラード宣言は「冷戦終結のカウントダウンを告げた外交的転換点」として位置づけられます。
背景:ブレジネフ=ドクトリンとユーゴスラビア
新ベオグラード宣言を理解するためには、まずそれが覆そうとしたブレジネフ=ドクトリン(制限主権論)と、ユーゴスラビアという国の特殊な位置づけを押さえておく必要があります。ブレジネフ=ドクトリンとは、ソ連の指導者ブレジネフが1968年のチェコ事件に際して公式化した考え方で、「各社会主義国の主権は、社会主義共同体全体の利益によって制限され得る」とするものでした。
具体的には、「どこか一国で社会主義体制が危機に陥ることは、全社会主義陣営への脅威であり、その場合ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍が介入することは正当である」という論理です。これに基づき、ソ連は1956年のハンガリー事件、1968年のチェコスロヴァキア「プラハの春」などで軍事行動に踏み切り、東欧諸国の改革路線を力ずくで押さえ込んできました。その結果、東欧の共産党政権はソ連の意向を強く意識し、自主的な改革に踏み出しにくい状況に置かれていました。
一方、ユーゴスラビアは、第二次世界大戦後にチトー率いる共産党政権が成立したものの、1948年に「チトー・スターリン論争」を経てソ連・コミンフォルムから排除され、その後は「自主管理社会主義」と呼ばれる独自路線を歩んできました。ユーゴスラビアは東西両陣営の中間に位置するバルカン半島の国家として、ソ連とも西側とも一定の距離を保ちながら、非同盟運動の中心的存在としてふるまっていました。
1955年には、フルシチョフがベオグラードを訪問し、かつてユーゴを排斥したコミンフォルム決議の誤りを認め、両国関係の修復を図る「ベオグラード宣言」が出されています。しかし、その後もソ連とユーゴスラビアの関係は完全に安定したわけではなく、ユーゴの「独自の社会主義」路線に対してソ連が警戒を示す局面も続きました。
こうした歴史的経緯のうえに、1980年代後半の新しい局面が重なります。ソ連では1985年にゴルバチョフが書記長に就任し、国内ではペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を掲げて体制改革に乗り出しました。対外的には「新思考外交」と呼ばれる方針転換を行い、東西対立の緩和、軍縮、国際協調を積極的に打ち出します。その延長線上で、ソ連とユーゴスラビアの関係を再定義し、さらに東欧政策全体を見直す意図から生まれたのが、新ベオグラード宣言でした。
ベオグラード訪問と新ベオグラード宣言の内容
1988年3月、ゴルバチョフはユーゴスラビアを訪問し、ベオグラードでユーゴスラビア指導部との会談や連邦議会での演説を行いました。その結果として発表された共同宣言が、通称「新ベオグラード宣言」です。名称に「新」が付くのは、1955年のベオグラード宣言と区別するためであり、「1950年代の和解を継承しつつ、新しい時代にふさわしい関係原則を確認する」という意味合いがこめられていました。
宣言の最も重要なポイントは、「完全な同権・自主・相互尊重」の原則を明確にうたったことです。ソ連とユーゴスラビアは、互いに体制の違いや外交路線の差異を認め合い、いかなる形の覇権や指導性も否定する、とされました。ここでゴルバチョフは、過去にソ連がユーゴスラビア共産党を「逸脱」などと非難してきたことを事実上誤りだったと認め、今後はユーゴスラビアの独自路線を尊重する姿勢を打ち出しました。
同時に、新ベオグラード宣言は、社会主義運動全体に対してもメッセージを発していました。それは、「社会主義の建設には唯一のモデルは存在せず、各国は自国の歴史的・民族的条件に応じて異なる道を選びうる」という考え方です。この認識は、ブレジネフ=ドクトリンの前提であった「ソ連型社会主義こそが唯一の正しいモデルであり、それに対する逸脱は共同体全体の危機である」という発想を根底から否定するものでした。
宣言の文言には直接「ブレジネフ=ドクトリン」という言葉は出てこないものの、ソ連が他の社会主義国に対して指導性を主張しないこと、内政に干渉しないことを公式文書で初めて明言した点で、事実上のドクトリン放棄と受け止められました。とりわけ、「主権は完全であり、いかなる外部勢力もそれを制限し得ない」といった趣旨の表現は、1968年以降のソ連外交路線と明確に一線を画すものでした。
さらに、宣言は東西関係全体についても、「対立ではなく協調」「軍拡ではなく軍縮」を志向する新思考外交の立場から、ヨーロッパにおける緊張緩和と相互安全保障の枠組みを重視する姿勢を示しました。これは、のちの中距離核戦力(INF)全廃条約や米ソ首脳会談の流れとも連動しており、冷戦構造の変化を象徴する文書でもありました。
ブレジネフ=ドクトリン否定と東欧民主化への影響
新ベオグラード宣言が歴史的に注目されるのは、それがただの二国間声明にとどまらず、東欧諸国の民主化・東欧革命、さらには冷戦終結全体に大きな影響を与えたからです。宣言から1年たらずの1989年、ポーランド・ハンガリー・東ドイツ・チェコスロヴァキアなどで共産党一党支配が相次いで崩れ、多党制・自由選挙にもとづく新政権が誕生しました。
東欧の改革派にとって、新ベオグラード宣言は、「改革を進めてもソ連軍が攻め込んでくることはない」という重要な政治的保証と映りました。1970〜80年代にかけて、ポーランドでは「連帯」運動が繰り返し弾圧され、ハンガリーやチェコスロヴァキアでも自由化の試みがソ連や自国共産党の圧力によって押し戻されてきました。その背後には常に、「行き過ぎれば1968年のプラハの春のように戦車が来る」という恐怖がありました。
ところが1988年以降、ソ連の最高指導者自身が「他国の道に干渉しない」と宣言したことで、東欧諸国の改革派や市民運動は、より大胆に政治システムの変革を求めることができるようになりました。ポーランドでは1989年に円卓会議が開かれ、連帯を含めた野党勢力と共産党政権の対話が進み、部分的自由選挙を通じて連帯主導の政権が成立します。その過程で、ソ連はかつてのような軍事圧力を加えることなく、事実上「内政に任せる」姿勢を貫きました。
ハンガリーでは、共産党指導部が自ら「民主化」と「市場経済への移行」に舵を切り、鉄のカーテンの一部であるハンガリー=オーストリア国境の開放に踏み出します。ここから多くの東ドイツ市民が西側へ脱出し、それが1989年のベルリンの壁崩壊へと直結しました。チェコスロヴァキアでは「ビロード革命」と呼ばれる非暴力の民主化運動が成功し、ルーマニアでは流血を伴いながらもチャウシェスク独裁政権が崩壊しました。
これら一連の東欧革命の背後には、「ソ連が軍事力で押さえ込まない」という前提がありました。その前提を明文化したのが、新ベオグラード宣言をはじめとするゴルバチョフ期の新思考外交です。もちろん、東欧諸国の内部要因――経済停滞、生活水準の低下、自由への渇望、知識人や市民運動の努力――が決定的に重要であったことは言うまでもありません。しかし、外からの軍事介入がないという条件が整わなければ、これほど短期間に体制転換が連鎖することは難しかったでしょう。
また、新ベオグラード宣言は、ソ連国内の改革派にとっても追い風となりました。ゴルバチョフのペレストロイカは、当初は共産党支配を維持しつつ経済と政治を部分的に開く試みでしたが、東欧の変化と相互作用しながら、ソ連自身の連邦構造や共産党一党体制を揺るがしていきます。バルト三国をはじめとする各共和国の民族運動や主権宣言が相次ぎ、最終的には1991年のソ連解体へと至りました。
冷戦終結における位置づけとその後の評価
新ベオグラード宣言は、冷戦史の中でどのように位置づけられているのでしょうか。しばしば引用されるのは、「モスクワが自らの覇権を制限し、衛星国の自立を認めた瞬間であり、帝国の終わりを告げるサインであった」という評価です。ブレジネフ=ドクトリンが「社会主義陣営を保つための鉄の鎖」であったとすれば、新ベオグラード宣言はその鎖を自ら外す行為でした。
ゴルバチョフ自身は、新思考外交を通じて東西対立を解きほぐし、平和と協調の枠組みの中でソ連型社会主義を近代化しようと考えていました。彼にとって、新ベオグラード宣言は、「力の論理」に頼らない外交、新しいソ連像を示すステップでもありました。しかし結果として、その路線は東欧の社会主義体制を次々と崩壊させ、最終的にはソ連自身の解体を招くことになります。この点から、保守派や旧体制支持者の中には、ゴルバチョフの決断を「自国の国益を損ねた無謀な譲歩」と批判する声も存在しました。
一方で、東欧諸国や西側諸国、多くの歴史家にとって、新ベオグラード宣言は「流血を最小限に抑えた冷戦終結」の前提条件をつくった大胆な決断として高く評価されています。もしソ連がブレジネフ=ドクトリンを維持したまま東欧の民主化を武力で抑え込んでいたなら、冷戦終結ははるかに長引き、より多くの犠牲を伴った可能性が高いからです。
また、新ベオグラード宣言は、主権と内政不干渉という原則を、社会主義陣営内部で再確認した文書としても意味があります。冷戦期、資本主義陣営も社会主義陣営も、ときに「自陣営の正義」を理由に他国への干渉や介入を正当化してきました。その中で、ソ連という大国が自ら「他国の進路選択を尊重する」と宣言したことは、国際関係史の観点から見ても重要な一歩でした。
もっとも、その後の世界が必ずしも「非干渉」と「主権尊重」の理想通りに進んでいないことも事実です。冷戦後のユーゴスラビア自身が内戦と分裂を経験し、NATOの介入を受けたこと、世界各地で人道的介入をめぐる議論が続いていることなどを見ると、新ベオグラード宣言が掲げた原則は、いまもなお検討と再解釈が必要なテーマであり続けています。
世界史の学習で「新ベオグラード宣言」という用語に出会ったときには、単に「ゴルバチョフがブレジネフ=ドクトリンを否定した宣言」と覚えるだけでなく、その前提となったブレジネフ=ドクトリンと東欧支配の構造、ユーゴスラビアの独自路線、新思考外交とペレストロイカ、そして1989年の東欧革命・冷戦終結へとつながる一連の流れの中で位置づけてみてください。そうすることで、この短い一つの宣言文書が、巨大な歴史の転換点の象徴であったことが、より具体的に感じられるはずです。

