ジェノヴァ – 世界史用語集

ジェノヴァ(Genoa)は、イタリア北西部リグーリア海岸に位置する海上都市国家で、中世から近世にかけて「海の共和国(レプッブリケ・マリッティメ)」の一角として地中海交易で大きな役割を果たした町です。ピサやヴェネツィアと競い、十字軍期には地中海・黒海に商業拠点を広げ、やがて金融と国家財政運営で卓越した技術を発達させました。近代初頭にはスペイン帝国の資金調達を支えた「ジェノヴァの世紀」と呼ばれる局面があり、海軍提督アンドレーア・ドーリアの下で政治体制も再整備されました。のちにコルシカ島の統治を失い、ナポレオン期にはリグーリア共和国として再編、ウィーン体制でサルデーニャ王国に編入されます。今日の旧市街には「ストラーデ・ヌオーヴェ」と「ロッリの宮殿群」などの壮麗な邸館や、港を見守る灯台ラネルタが残り、交易都市としての記憶を今に伝えています。

スポンサーリンク

起源と都市国家の形成――共同体の自治、海軍と商人の連携

ジェノヴァの起源は古代ローマ期までさかのぼりますが、中世盛期に都市共同体(コムーネ)として自立性を高め、貴族家門と市民層が合議で運営する体制が整いました。背後にはアルプスへ通じる峠道とポー平原、目の前にはティレニア海という地理的利点があり、山の木材や塩、布地や金属製品を積んだ船が地中海各地を往来しました。都市は港湾の拡張と造船技術の向上に投資し、ガレー船を中核にした艦隊を整備します。商人組合や航海仲介人、保険・為替の担い手が現れ、海上交易の「制度」を一つの都市のなかに組み込んだことが、ジェノヴァの強みでした。

政治面では、当初「コンスル」制で有力家門が年次の執政を務め、のちに「総督(ドージェ)」がシンボルとして置かれるようになります。しかしヴェネツィアのような終身制ではなく、家門間の均衡や外部勢力の影響によって総督の任期や権限は変動しやすかったのが特徴です。港湾都市の常として、内部では貴族派と民衆派、外部では神聖ローマ帝国・教皇・フランス・アラゴンなどとの関係が絡み、都市政治はしばしば抗争の場となりました。

地中海・黒海への進出――十字軍、商館網、ピサ・ヴェネツィアとの競争

十字軍時代、ジェノヴァは輸送船と武装商船を提供し、軍事的な貢献の代価としてレヴァント(シリア・パレスティナ沿岸)や小アジアの港に商館・居留区の設置特権を獲得しました。とりわけキプロス、アンティオキア、アッコーなどでの活動は顕著で、倉庫・教会・裁判権を備えたジェノヴァ人街が形成されます。さらに、ビザンツ帝国(ニカイア帝国)と結んだニンファエウム条約(1261年)によって、コンスタンティノープル奪回後の特権を確保し、金角湾対岸のガラタ(ペーラ)に拠点を築きました。ここは黒海への玄関口で、カッファ(テオドシア)やトゥルヒ(トラブゾン方面)などの黒海岸に連なる商業網のハブとして機能します。

ライバルとの抗争も激烈でした。西地中海ではピサとの覇権争いが続き、メロリアの海戦(1298年)でピサを破ったことは決定的転機でした。東地中海ではヴェネツィアとの競争が長期にわたり、チョッジャの戦い(1378–81年)では一時ヴェネツィアを追い詰めるものの、最終的には決定的優位を築けず、二大海上共和国は消耗を重ねます。14世紀半ばの黒死病の拡大は、カッファ攻囲戦でモンゴル軍の攻囲とジェノヴァ商人の撤退に伴う感染拡散の逸話と結びつき、ジェノヴァ人の広域ネットワークが病の拡大経路としても記憶されました。

オスマン帝国の膨張は、ジェノヴァの黒海拠点に致命的な影響を与えます。1453年のコンスタンティノープル陥落を経て、1475年にはカッファを含むクリミアのジェノヴァ植民市がオスマン勢に制圧され、黒海貿易は大きく後退しました。この地政学的変動は、ジェノヴァが「商品物流の都市」から「金融とサービスの都市」へ比重を移す契機になります。

金融と国家経営――サン・ジョルジョ銀行、国債、スペインの資金調達

ジェノヴァの特質は、商業都市としての顔に加えて、金融と国家財政運営で先進的な制度を育てたことにあります。都市国家は戦費や港湾整備のために借入を行い、その返済原資として関税や消費税などの税目を担保に「年金(ルオーリ、ルオーギ)」と呼ばれる国債を発行しました。これらの債権は譲渡可能で、都市の富裕層に広く保有され、いわば「市民の国債市場」が形成されます。

この仕組みを統括したのが「サン・ジョルジョ銀行(Banco di San Giorgio)」です。15世紀に設立されたこの機関は、単なる銀行というより、税の徴収と国債管理、港湾・植民地の経営まで担う準公的団体でした。国家(コムーネ)と民間投資家の間に立って財政を運営し、しばしば国家よりも信用力が高いと見なされるほどでした。コルシカ島の統治をサン・ジョルジョが請け負った時期もあり、金融が直接領土経営を担うユニークな例として知られます。

16世紀、アンドレーア・ドーリアがハプスブルク家(カール5世)と提携して都市政治を安定させると、ジェノヴァの金融はスペイン帝国の資金調達と結びつきます。ジェノヴァ商人・銀行家は「アシエント」と呼ばれる国庫貸付を請け負い、フランドル戦争や艦隊維持、銀流通の決済に不可欠の役を果たしました。この時期はしばしば「ジェノヴァの世紀(c.1557–1627)」と呼ばれ、国際金融の中心が一時アントウェルペンからジェノヴァへ移ったとも評されます。レパントの海戦(1571年)では、ドーリア家の艦隊が神聖同盟側で参戦し、軍事・金融の両面でハプスブルク世界に貢献しました。

もっとも、スペイン王室の度重なる支払停止(1557年、1575年、1596年など)は金融網に打撃を与え、17世紀にはアムステルダム・ロンドンの台頭に押されて相対的地位が低下します。1684年、ルイ14世によるジェノヴァ砲撃は都市に大きな被害を与え、地中海におけるフランス覇権の浸透を象徴しました。18世紀にはコルシカの反乱が長期化し、1768年に島はフランスへ譲渡、翌年にはナポレオンがそこに生まれるという歴史の皮肉も生まれます。

都市文化・人物・遺産――ストラーデ・ヌオーヴェ、航海者、象徴の継承

経済の力は都市景観に刻まれました。16世紀後半から17世紀にかけて、丘陵の斜面に「ストラーデ・ヌオーヴェ(新しい街路)」が整備され、そこに並ぶ「ロッリの宮殿群」は、外交使節の接遇(ロッリ制度)にも用いられる華麗な邸館群でした。ファサードのフレスコ、壮麗な階段、アトリウムと中庭、絵画・タピスリーのコレクションは、交易と金融で蓄積した富の表象です。これらは現在ユネスコの世界遺産に登録され、ジェノヴァの黄金期の文化資産として評価されています。

人物では、探検家クリストーフォロ・コロンボ(コロンブス)がジェノヴァ出身として著名です。彼の航海はスペイン王室の庇護のもとで行われましたが、港湾都市に育った航海術と地中海的ネットワークが背景にありました。また、詩人や音楽家、銀行家、地図製作者など、多彩な専門が都市の国際性を支えました。旗章の面では、白地に赤十字の「聖ゲオルギウスの十字(サン・ジョルジョの旗)」がジェノヴァの象徴で、のちにイングランドや他地域の紋章にも影響を与えたとされます。

宗教・慈善の面では、同業組合や信心会が病院・孤児院・施療院を支え、市民の寄進が公共事業に生かされました。港には外国人居留区が形成され、ギリシア人・ユダヤ人・アルメニア人などのディアスポラ・ネットワークが商業文化の多層性を生んでいます。言語としてのリグーリア語(ジェノヴァ方言)は、海洋語彙や商業用語に富み、地名・姓氏・料理(ペースト・ジェノヴェーゼなど)にその痕跡が残ります。

近代の転換と現在――ナポレオン以後、イタリア統一、港湾都市としての再生

フランス革命とナポレオン戦争はイタリアの都市国家体制を一掃しました。1797年、ジェノヴァはフランスの影響下で「リグーリア共和国」として再編され、封建特権の廃止や行政改革が進みます。1815年のウィーン会議では、反仏体制の一環としてサルデーニャ王国に編入され、独立都市としての歴史に終止符が打たれました。19世紀のイタリア統一運動(リソルジメント)では、ジェノヴァは港湾・造船・金融の拠点として重要性を保ち、移民の港として多くの人々を新世界へ送り出します。20世紀には工業化とともに都市問題も噴出しましたが、戦後の復興と港湾再開発、大学・研究機関の整備により、多面的な都市機能を持つ地域中枢としての地位を維持しています。

現代の旧港地区(ポルト・アンティーコ)は再開発により文化施設・水族館・展示空間へと転用され、観光と市民の憩いの場として再生されました。ラネルタ(ラ・ランテルナ)と呼ばれる歴史的灯台は、海の都市としてのアイデンティティを象徴し続けています。旧市街の迷路のような路地(カッルーギ)と壮麗な大通りの対比は、海商都市に特有の「公共の華やぎ」と「私的な緊密さ」を今も可視化しています。

総じて、ジェノヴァは、海と山にはさまれた狭隘な地形を逆手にとって、航海・交易・金融・造船・都市計画を組み合わせ、地中海世界の変動に応じて自らの役割を変えてきた都市です。十字軍期の商館網、黒海植民市の喪失、金融による国家運営、スペイン帝国の資金循環への組込み、フランスの圧力とナポレオン期の再編――それぞれの局面で、ジェノヴァは自立と協調の間合いを探り続けました。残された宮殿群と旗、地図の上の無数の〈ジェノヴァ人街〉、そして世界へ漕ぎ出した人びとの記憶が、都市の厚みを物語っています。交易都市は消えたのではなく、形を変えて生き続けている――ジェノヴァの歴史は、そのことを静かに示しているのです。