ジェニー紡績機(Spinning Jenny)は、18世紀のイギリスで考案された手動式の多軸(多錘)紡績機で、1人の作業者が同時に多数の紡錘(スピンドル)を回して糸を紡げるようにした道具です。ハーグリーヴズ(James Hargreaves)が1760年代半ばに発明したとされ、従来1本の糸しか紡げなかった糸車に比べて飛躍的に生産性を高めました。ジェニーは水車や蒸気機関を要しないため家内工業の場にも置ける簡便さがあり、綿工業の初期的な機械化を一気に押し進めました。他方で、出力が増えると手織りとのバランスが崩れ、熟練紡ぎ手の仕事が脅かされるとの不安や失業への恐れから破壊運動も起きました。やがて水力紡績機(アークライト)、ミュール紡績機(クロンプトン)といった後続の機械に主役の座を譲るものの、「多軸化」という発想と家内工業から工場制への橋渡しを担った点で、産業革命の加速装置だったと言えます。
仕組みと特徴――多軸化がもたらした生産性の飛躍
ジェニー紡績機の基本構成は、(1)多数のスピンドルを並べた枠、(2)繊維束(ロービング)を挟んで引き延ばすクランプ(クレードル)やスライディング・キャリッジ、(3)スピンドルを一斉に回転させる手回しハンドル(ホイール)から成ります。作業者は、まず綿の繊維束を各スピンドルに対応するクランプでつかみ、キャリッジを手前に引いて繊維をドラフト(延伸)し、同時にハンドルを回して撚りを与えます。つぎにキャリッジを戻しつつ、糸をスピンドルへ巻き取る――この一連の動作を繰り返すことで、複数本の糸が同時に紡がれます。
初期のジェニーは8錘程度でしたが、改良で16、24、40、最終的には80錘以上まで増えました。人数あたりの生産量は劇的に増し、たとえば8錘機で従来の数倍、40錘機では十数倍に達したと推定されます。操作は手動で、動力は人力のみのため設置の自由度が高く、家屋や小さな作業場でも稼働できたのが大きな利点でした。
ただし、糸の品質には限界がありました。ジェニーのドラフトは簡易で撚りの均一性が十分でないため、強度の高い経糸(たていと)には適さず、主として緯糸(よこいと)向けとされました。経糸は切れにくさが求められるため、より強い撚りと均一な細さを実現する水力紡績機や、その後のミュール紡績機が優位です。この「品質の壁」が、さらなる機械革新を促す要因になりました。
ジェニーの技術的発想の核心は「並列化」です。1人の熟練が1本を速く紡ぐのではなく、動作を標準化して複数本を同時に処理することで、技能依存を下げつつ産出量を押し上げました。この並列化は後の工場制機械工業に通じる考え方で、動力化・自動化との結合によって、さらに規模の経済を引き出す基盤になりました。
誕生と普及――ハーグリーヴズ、家内工業、破壊運動と特許
発明者とされるジェームズ・ハーグリーヴズは、ランカシャーの織物職人で、妻や娘が糸車を使う様子から着想したという伝承が広く知られています(転倒した糸車の姿から多軸化を思いついたという有名な逸話もあります)。彼は1764年前後に試作を重ね、1760年代末には地元での販売を始めますが、生産性向上がかえって職を奪うとの反発を招き、1768年にはブラックバーン周辺でジェニー破壊の暴動が発生しました。彼は機械と家財を焼き払われ、のちにノッティンガムへ移って協同出資者と小規模工場を運営したと伝えられます。
ハーグリーヴズは1770年にジェニーの特許を取得しましたが、すでに多くの職人や小商人が模倣機を製造・販売しており、権利行使は困難でした。彼自身は巨利を得たわけではなく、発明者の経済的境遇の脆さを示す事例としてしばしば言及されます。他方、特許取得や出資のノウハウに長けたアークライト(Richard Arkwright)は、水力紡績機で工場制を切り開き、資本集約的な事業へと綿工業を導きました。この対比は、産業革命の初期段階における発明・資本・制度の結びつきの重要性を象徴します。
普及について見ると、ジェニーは家内工業(アウトワーク)の枠組みと相性が良く、商人資本が原綿とロービングを配り、各家庭や小作業場で紡いだ糸を買い上げる形で広がりました。女性・子ども・高齢者など多様な労働力が参加でき、家計補助としての性格も強かったのが特徴です。フランスやドイツなど大陸にも比較的早期に伝わり、各地で「多軸紡績機」という一般名で呼ばれました。もっとも、地域や資本の条件、織機側の受け皿(手織り・飛び杼の普及度)によって普及速度には差がありました。
産業革命の中での位置――水力紡績機・ミュール紡績機との関係
綿工業の機械化は、しばしば「飛び杼(1733)→ジェニー(1760年代)→水力紡績機(1769年頃)→ミュール紡績機(1779)→動力織機(1780–90年代)」という連鎖で説明されます。この中でジェニーの役割は、(1)手動のままであっても決定的な並列化によって糸供給を増やし、(2)家内工業の枠の中で「準機械制」を実現し、(3)後続機の需要(より強い経糸、均一な細番手糸)の圧力を高めたことにあります。
アークライトの水力紡績機(ウォーターフレーム)は、ローラーによる精密なドラフトと水車動力を用い、強く均質な経糸を大量生産できました。しかし装置が大掛かりで、河川沿いに大工場を建てる必要があります。クロンプトンのミュール紡績機は、ジェニーの多軸・巻取り方式と、アークライトのローラー・ドラフトを融合し、細く強い糸を高品質で生産できる画期的機械でした。のちに蒸気機関と結合して巨大化し、19世紀の綿糸生産の主流となります。
このように、ジェニーは技術系譜の基層で「多軸化のアイデア」を提供し、水力化・蒸気化・自動化に先行する橋渡し的存在でした。ジェニーの限界(糸質の不均一、経糸不適)が、より高度な制御と動力の導入を促した点で、負の能力も歴史的意義の一部です。さらに、ジェニーの普及で糸が潤沢になるにつれ、織布側では飛び杼の拡散や賃織の増大、最終的には動力織機の導入が必然化し、産業全体の均衡点が工場制へ移動しました。
社会・経済への影響――労働と生活、地域経済、世界綿業への波及
ジェニーの導入は、労働の性格を変えました。手紡ぎの熟練と「糸車のリズム」に依存していた仕事は、一定の手順を覚えればこなせる標準化された作業へと再編され、女性・子どもも含む多人数が同時に関与できるようになりました。これは賃金体系や労働の評価、家庭内分業の再構成を伴い、農閑期の副業としての紡ぎから、より恒常的な賃労働への移行を促す契機になりました。
地域経済では、綿糸の供給増によって家内織布が活況を呈し、商人資本が原料・糸・布の流れを組織する度合いが強まりました。やがて水力・蒸気力の工場が各地に建てられると、ジェニーは工場の周辺で下請け・補助的役割に回るか、より高性能機への更新を迫られます。都市周縁の労働集積が進み、居住環境・衛生・教育・救貧といった社会問題が顕在化するのは、さらに後の段階ですが、その前史としてジェニーは「機械が暮らしの速度を変える」体験を広範に拡散させました。
国際的には、綿糸・綿布の需要増が、アメリカ南部・インド・エジプトなど原綿生産地の再編を誘発しました。特に19世紀前半、英国綿工業の拡大は米南部の綿花プランテーションの拡張と奴隷制の固定化に影響し、世界市場と労働の搾取が結びつく構図を強めます。ジェニー単体の責任ではありませんが、初期機械化が需要側のエンジンとなった連鎖の起点の一つであったことは否めません。
文化・教育面でも影響はありました。作業の標準化は、作業日誌・帳簿・簡易算術・機械の保全知識を普及させ、読み書き計算の実用的価値を高めました。地域の見世物小屋や実験講義で「新しい機械」を見物する習慣は、科学・技術への大衆的関心を喚起し、模倣や改良のインセンティブを育てました。ジェニーは、発明が特定の天才だけでなく、多くの職人・商人・家族の試行錯誤から生まれ、拡散することを示す象徴でもあります。
総じて、ジェニー紡績機は、技術的には多軸化というシンプルな工夫で手仕事の論理を塗り替え、制度的には家内工業と工場制の隙間を埋め、社会的には労働と生活の速度を上げました。のちに工場の本格的な動力機械へ主役が移っても、ジェニーが切り開いた並列化・標準化の道筋は消えず、産業革命の立ち上がりを理解するための不可欠の鍵であり続けます。糸の一本一本はか細くても、それを同時に多数束ねる方法を思いついたこと――その発想の転換こそが、時代を動かしたのです。

