「ヴェルダン」とは、一般に第一次世界大戦中の1916年に西部戦線で行われたフランス軍とドイツ軍の長大な会戦「ヴェルダンの戦い」を指します。フランス北東部の要塞都市ヴェルダン周辺で、約10か月にわたり攻防が続き、莫大な死傷者を出した出来事です。近代総力戦の象徴であり、国家と兵士の持久力、砲兵と要塞、補給と地形の意味を極限まで浮かび上がらせました。なお、同名の地名に結びつく用語として、843年にカロリング帝国を三分した「ヴェルダン条約」や、第一次世界大戦以外の局地戦もありますが、ここでは多くの文脈で中核となる1916年の戦いを中心に解説します。
背景と戦略目的――要塞地帯・政治的象徴・総力戦の交差点
ヴェルダンはマース川沿いに位置し、フランス東部防衛の要衝として19世紀末から要塞群が整備されてきました。普仏戦争の記憶を背に、フランスはメス・トゥールと並ぶ防衛線の支点としてヴェルダンを強化し、周囲の高地にはドゥオーモン要塞、ヴォー要塞などが置かれました。第一次世界大戦が塹壕戦の膠着に陥るなか、1916年初頭、ドイツ参謀本部は西部戦線の均衡を破るため、フランス軍にとって政治的・心理的に放棄できない拠点を攻撃し、救援と反撃で消耗させる「出血作戦」を構想しました。指揮の中心にいたファルケンハインは、決定的突破よりも相手の損耗を主眼に据え、相対的に短い補給線と高所の砲兵優位を見込んで、ヴェルダンを標的としたのです。
戦略的意義は軍事だけでなく政治に及びました。ヴェルダンはフランス史の記憶に重ねられ、国土防衛の象徴でした。ここを失えば政戦両略に与える打撃は大きく、政府・世論・軍の三つ巴の圧力が「絶対防衛」を要請しました。他方ドイツにとっても、英仏の資源連合が強化される前にフランスを消耗させる時間的圧力があり、東部戦線のロシアや、海上封鎖・潜水艦戦といった他戦域の要素と総合的に連動していました。すなわちヴェルダンは、持久と消耗をめぐる「総力戦の算盤」が弾かれた交差点だったのです。
戦闘の経過――砲兵の嵐、要塞の陥落と奪回、季節と泥との戦い
ドイツ軍は1916年2月21日に大規模砲撃で戦端を開きました。重砲・超重榴弾砲がフランス前線と要塞群、交通節点を徹底的に叩き、続く浸透歩兵の攻撃で地形の要点を浸食していきます。2月末にはドゥオーモン要塞がほぼ無血で占拠され、フランス側に衝撃が走りました。防衛の建て直しのため、ジョフル総司令は若き将軍ペタンをヴェルダン方面軍の指揮に任じ、ペタンは「補給道路」の維持と火力の再編、部隊の循環を徹底しました。
補給の生命線となったのが、バル・ル・デュックからヴェルダンへ通じる唯一の大動脈「聖なる道(ラ・ヴォワ・サクレ)」でした。膨大なトラック輸送と道路補修部隊、交通管制により、砲弾や糧食、予備兵力が切れ目なく前線に送り込まれました。ペタンはまた、前線部隊の滞在期間を短縮し、全軍でヴェルダンの負担を分有する「輪番制」を導入して疲弊を抑える工夫を行いました。春から夏にかけてフランス軍は火力と人員を増強し、6月のヴォー要塞の壮絶な攻防ののち、ドイツの進撃は鈍化します。ヴォーでは水不足と毒ガス、地下坑道戦の極限状況が生まれ、守備隊の降伏電報は象徴的な戦記として語り継がれます。
戦場の季節は兵士の敵でした。冬の泥と降雨、春のぬかるみ、夏の熱と腐臭は人の忍耐を削り、砲撃で churn(撹乱)された地面は地形の意味を失いかけます。前線の数百メートルの獲得と喪失に、数千・数万の砲弾と人命が費やされました。7月に入ると、英軍主導のソンム攻勢が北方で始まり、ドイツ軍は兵力と砲を分散せざるを得なくなります。秋以降、フランス軍は反攻に転じ、12月にはマンジアンの指揮下でドゥオーモン要塞とヴォー要塞を奪回し、戦線はほぼ戦前の位置に押し戻されました。戦術的な前進後退の「差」はわずかでも、そこで消耗した資源と士気の代償は計り知れないものだったのです。
兵站・技術・兵士の日常――砲弾の経済、医療と通信、塹壕の生活
ヴェルダンは砲兵の戦いでした。観測気球、前線観測所、測距と弾道計算、航空偵察が組み合わさり、反砲兵射撃が精密化しました。重砲の弾薬消費は天文学的規模に達し、製造・輸送・保管のあらゆる段階が「砲弾の経済」として国家を縛りました。要塞に対しては超重榴弾や掩体の破砕に適した砲が用いられ、塹壕正面では榴散弾とガス弾、迫撃砲が歩兵前進の前提を整えました。歩兵側では、浸透戦術や小隊単位の火力集中、軽機関銃と手榴弾の運用が標準化され、狭小な地形での小戦術が全体の帰趨を左右しました。
兵站では、鉄道と自動車の組み合わせが重要でした。前線に近い臨時線(デコーヴィル軽便鉄道)とトラック輸送、荷役の分業により、火力と人員の循環が可能となりました。医療体制は、前線救護所から後送病院までの段階的ネットワークが整えられ、救急搬送、麻酔・外科の改良、感染症対策が進歩しました。通信は電話線と伝令、光信号、鳩、のちには無線を補助として用い、砲兵観測と歩兵の同期を図りましたが、砲撃で通信線が切断されることは常態で、指揮の断絶がしばしば混乱を招きました。
塹壕の生活は劣悪でした。泥と水、鼠と虱、死体の臭気、爆風によるショック、睡眠不足と飢えが兵士を蝕み、戦争神経症(シェルショック)が社会問題として可視化されます。兵士たちは小さな儀式――手紙、煙草、温かい飲み物、仲間同士の冗談――で日常を保ちました。休憩期の後方では簡易の娯楽や宗教的慰めが提供され、軍楽や新聞は士気の維持に用いられました。ヴェルダンは人間の身体と精神の限界を試す場であり、同時に国家が医療・補給・士気管理を体系的に運用する現代的戦争のモデルでもありました。
結果・損害と記憶――「彼らはここを通らせない」、国民神話と和解
ヴェルダンの戦いは、1916年2月から12月まで続き、両軍合わせて数十万規模の死傷者を出しました。厳密な統計は資料により差がありますが、フランス・ドイツ双方でおおよそ30万人規模の戦死・行方不明、さらに多数の負傷者が生じたと推計されます。戦略的にはドイツの「出血作戦」は期待した決定的効果を得られず、ソンムでの英仏攻勢と相まって持久戦の消耗が加速した格好となりました。フランス側は象徴的防衛に成功し、士気と政治的結束を維持する上で決定的な勝利感を得ますが、代償はあまりにも重く、前線の疲弊は翌年のフランス軍反乱の伏線ともなりました。
記憶の領域では、ヴェルダンはフランスにとって「ここを通らせない(On ne passe pas !)」の合言葉で語られ、国民統合の神話となりました。戦後、ドゥオーモン納骨堂と無名戦士の墓、要塞と戦場跡は追悼と教育の場として整備され、学校教育や記念式典、文学・絵画・映画はヴェルダンを反戦と献身の象徴に仕立てました。ドイツ側でも戦没者追悼の文脈でヴェルダンは重要な記号となり、戦間期の和解運動では、両国の指導者が共同で献花を行う象徴的行為が繰り返されました。20世紀後半以降、ヴェルダンは仏独和解と欧州統合の記憶政治において、過去の敵対を超える「共通の痛み」の場として位置づけられていきます。
ヴェルダンの教訓は多層的です。第一に、消耗を意図した作戦の倫理と実効性の問題です。相手の損耗を狙う戦略は、自軍の損耗も招く鏡像であり、政治目的と手段の均衡を失った時、戦争は自己目的化します。第二に、兵站・補給・道路・通信という地味な要素が戦場の趨勢を左右する事実です。「聖なる道」の維持は、英雄的突撃以上に勝敗を決めました。第三に、記憶の政治です。犠牲の記憶が国民統合の資源にも、復讐心の燃料にもなり得ることを、ヴェルダンは示しました。実際、戦間期のナショナリズムは戦没者追悼を動員の装置に転化しましたが、同時に仏独和解の象徴としても機能し得たのです。
総じて、ヴェルダンは「戦術の技術史」「兵站の制度史」「ナショナル・メモリーの文化史」の交点に立つ出来事です。要塞と火力、道路と補給、兵士の身体と精神、国家の政治的意思――これらが絡み合い、近代戦の実相をむき出しにしました。教科書的な「攻防10か月」という数字の背後には、塹壕の泥と凍える夜、灯もれを恐れて小さく灯る蝋燭、遠くで鳴り続ける砲声、そして帰らなかった数十万の名前があります。ヴェルダンを学ぶことは、戦争の抽象を剥ぎ取り、人間と制度の限界を見つめる作業そのものなのです。

