ヴェルダン条約 – 世界史用語集

ヴェルダン条約(843年)は、カール大帝の後継体制が内戦で揺らいだ末に、その遺産であるカロリング帝国を三分した講和・分割条約です。三兄弟――ロタール1世・ルートヴィヒ(ドイツ人王)・シャルル(ハゲ公、のちの西フランク王)――が、互いの支配領域と権利を確定し、帝国の単一統治から地域王国の並立へ歴史の針を進めました。西フランク(のちのフランス)、東フランク(のちのドイツ)、そして北海からイタリア半島へ縦に連なる中部フランク(ロタリンギア=ブルグンド=イタリアを束ねる帯状国家)が生まれ、以後の西ヨーロッパの政治地図、言語・文化の境界、封建秩序の定着に長期の影響を与えました。以下では、条約に至る前史、分割の具体、構造的影響、その後の展開と史学的評価を、分かりやすい言葉で整理します。

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前史と内戦――「帝国の統一」から「兄弟の王権」へ

出発点は、カール大帝(シャルルマーニュ、在位768–814)の遺産にあります。カールは征服とキリスト教化、行政改革で西欧世界に広大な帝国を築き、800年にローマで皇帝冠を受けました。しかし、フランク王国では伝統的に父の領土を息子たちで分割相続する慣行が強く、統一と分割の緊張が常に潜んでいました。息子ルートヴィヒ敬虔王(在位814–840)は、帝国の一体性維持をめざして817年に「帝国規定(オルディナティオ・インペリイ)」を公布し、長子ロタールを共同皇帝として全体の上位に置きつつ、次子ピピンにアキテーヌ、三子ルートヴィヒ(のちの「ドイツ人王」)にバイエルンを与えました。

ところが末子シャルル(のちの「ハゲ公」)が生まれ、母ユディトの後押しで相続の再配分が企図されると、兄弟間と貴族層の利害は激しく対立します。敬虔王の統治は宮廷政治の混乱と反乱に翻弄され、833年にはいわゆる「嘆きの野」における屈辱的降伏を経験、のちに復位するも、王権の権威は傷つきました。840年の敬虔王の死後、長子ロタール1世が帝国全体に対する優越を主張すると、次子ルートヴィヒ(東)、三子シャルル(西)が連合してロタールに対抗し、841年フォントノワの会戦で決戦となります。戦いは凄惨でしたが決定的ではなく、翌842年には、西と東の兄弟が連帯を誓う「ストラスブールの誓約」を交わしました。ここでシャルルは俗ラテン語、ルートヴィヒは古高ドイツ語で互いの軍に誓詞を読み上げ、言語と政治の新しい境界線が公的な形で可視化されたのです。

こうして、長期の内戦を収めるために講和と分割が不可欠となり、843年夏、ロタール・ルートヴィヒ・シャルルの三者がヴェルダンに集まって合意に至りました。それが「ヴェルダン条約」です。ここで重要なのは、ロタールが皇帝位(インペラトル)の称号を保持し続けたことです。すなわち、帝国の象徴的首位は維持しつつ、実効的支配は三分され、兄弟王国の並立が正当化されました。

条約の内容――西・中・東の三分と境界線

ヴェルダン条約の骨子は、帝国の三分割と、それぞれの王権の承認にあります。西フランク王国はシャルルが継ぎ、ロワール以北のネウストリアを中心に、アキテーヌ(名目的支配)やブルターニュ辺境などを含む「西」の領域を得ました。ここは俗ラテン語が優勢で、のちに古フランス語(オイル語)圏の核となります。東フランク王国はルートヴィヒが継ぎ、ライン川以東のアレマニア、フランケン、バイエルン、テューリンゲン、ザクセンといった「東」の諸部族公国を統合しました。ここは古高ドイツ語を基盤にした言語圏で、のちのドイツ地域国家の母体を成します。

そして、最も特異なのがロタール1世の中部フランク王国(いわゆる「ロタリンギア(ロートリンゲン)」+「ブルグンド」+「(ロンバルディアを中心とする)イタリア」)です。北海沿岸からロウエ・ロタリンゲン(下ロタリンギア)、中・上ロタリンゲン(現ロレーヌを含む地域)、アルザス・フリウリ、ローヌ・ソーヌ流域のブルグンド諸地域、さらにアルプスを越えてイタリア北部とローマへ至る細長い帯状の領域を束ね、帝都アーヘンやローマの象徴性を握りました。ロタールは皇帝位を保持し、ローマと皇帝という普遍観念の継承者を自認しますが、政治的・軍事的には地理的に一体化しにくい領域を抱え込み、統治の難しさを宿命づけられました。

境界線の概略は、北ではエスコー(スケルド)川やマース川、東ではライン川、さらに南ではソーヌ・ローヌ沿いの線など、自然地形を多く利用しました。ただし、実際の支配は伯領・司教領・修道院領のモザイクであり、文書に引かれた線が直ちに行政線となったわけではありません。特にアキテーヌは地元王権の自立が強く、西フランク王の直轄化には長い時間を要しました。アルザスやロタリンギアも、のちに西東両フランクの間で帰属が揺れ動き、境界は硬直した国境ではなく、交渉と戦争で移ろう「帯」でした。

長期的影響――言語・文化の分岐、封建秩序の定着、ロタリンギア問題

ヴェルダン条約の最大の帰結は、西と東の王国が、それぞれ独自の政治文化と社会構造を強める契機となったことです。西フランクでは、俗ラテン語の文語化とロマンス系諸語の拡大、王権の弱体化と有力伯・守護の台頭、教会・修道院の文化的リーダーシップが重なり、領域の内部で封建的主従関係と分権的秩序が濃くなっていきます。東フランクでは、ザクセン・フランケン・バイエルンなどの部族公の自立性が高く、やがて10世紀にオットー朝が皇帝位を継承して「神聖ローマ帝国」へと展開しますが、そこでも「王権と諸侯権力の均衡」という課題が続きました。

言語・文化面の分岐は象徴的です。842年のストラスブールの誓約で可視化された二言語の政治的使用は、民衆語(ヴァーナキュラー)の公的地位を押し上げ、のちの民族アイデンティティの核を育てました。西ではオイル語(後のフランス語)とオック語(後のプロヴァンス語)を中心にロマンス文化が、東では古高ドイツ語系(のちのドイツ語群)が行政・法・文学に浸透し、それぞれが王権・法・文学・礼拝の様式を支えます。もっとも、当時の人々が「フランス人」「ドイツ人」という現代的国民意識を持っていたわけではなく、忠誠の単位は家門・主従・聖俗の共同体でした。ヴェルダンの線は、のちの国民国家の前史として、後世に遡って意味づけられる面もあります。

中部フランク(ロタール領)は、長期的に「中間地帯(ライヒズミッテ)」としての不安定を抱えました。855年、ロタール1世の死後にプルム条約で三分相続され、長子ルートヴィヒ2世はイタリア王国と皇帝位を、次子ロタール2世は北のロタリンギアを、三子シャルルはプロヴァンスを継ぎます。その後、869年にロタール2世が嗣子なく没すると、870年メルセン条約でロタリンギアは西東両フランクに分割され、以後アルザスからロレーヌに至る帯は西東の間で争奪・再編の対象となります。中世後期には神聖ローマ帝国の枠内でロレーヌ公国などの形をとり、近世以降も仏独の間で帰属が揺れる地域として残りました。この「ロタリンギア問題」は、ヴェルダン条約に根を持つ、ヨーロッパ政治地理の火種の一つでした。

制度面では、カロリング的な「巡察・勅令・伯管区統治」の体系が、分割王国のもとで地元有力者の手に吸収され、土地と保護を媒介にした主従関係の網が強まります。免税特権(イムニタス)を得た修道院・司教座は地域支配の要となり、文書文化(証書・特許状)が支配根拠の可視化に用いられました。これはヴェルダン条約が封建化の原因というより、内戦と分割という「中央の薄まり」を通じて地域秩序の自立を後押しした、と捉えるのが妥当です。

その後と評価――条約の可塑性、帝国観念の持続、史学上の位置づけ

ヴェルダン条約は固定的ではありませんでした。すでに触れたように、855年のプルム条約、870年のメルセン条約、880年のリブモント条約などが連続し、兄弟・従兄弟間の相続や没落に応じて境界は修正され続けました。西フランクではカロリング朝が弱体化し、987年にカペー朝が成立して以降、王権は長期の集権化へと緩やかに進みます。他方、東フランクでは10世紀にオットー朝がザクセンの基盤をもとに皇帝位を再編し、帝国と教会・諸侯・都市の多層的秩序(神聖ローマ帝国)が形成されました。これらの展開は、ヴェルダンを起点とする「分割の世紀」が、その後の地域国家と超領域的帝国観念の併存へ連なることを示しています。

史学的評価では、ヴェルダン条約が「フランスとドイツの起点」として強調される一方、過度な国民国家史観への警鐘も鳴らされます。9世紀の当事者にとって、重要だったのは「家門の権利」「王位と皇帝位の序列」「教会と帝国の協働」といった枠組みであり、近代的な国境線や国民意識は遠い将来の産物です。したがって、ヴェルダンを「国民国家の誕生」と断定するのではなく、「多中心的な王権とローカル秩序が並立する体制への転換点」として捉える理解が広がっています。また、ストラスブールの誓約の二言語使用は、民衆語の政治的可視化という点で画期的でしたが、ラテン語の教会・行政の支配が直ちに退いたわけではありません。三つの軸(ラテン語の普遍、民衆語の地域化、王権の家門性)が、しばらく併存し続けたのです。

ヴェルダン条約をめぐるもう一つの視点は、「象徴と現実」のずれです。ロタール1世が皇帝位を保持し、アーヘンやローマの象徴を手中にしつつも、軍事・財政・貴族連合の力の面で兄弟に優越できなかった事実は、帝国観念が直ちに実効支配へつながらないことを示しました。この緊張は、のちの神聖ローマ帝国でも繰り返し観察されます。すなわち、普遍帝国の理念と、地域主権と共同体の現実が、長い中世を通じて相互に調整され続けたのです。

総じて、ヴェルダン条約は、武力・相続・象徴をめぐる折衝の果てに生まれた「妥協としての地図」であり、西ヨーロッパが多元的な政治世界へ進む入口でした。西・中・東の三分は、のちの近世・近代における仏独関係やロレーヌ問題、イタリア・ブルグンドの位置づけ、言語文化の分岐に長い影を落としましたが、それは同時に、ローカルな多様性が力を得て、都市・修道院・司教座・諸侯がそれぞれの秩序を育てる契機でもありました。ヴェルダン条約を見ることは、単一の帝国から多中心のヨーロッパへと移行するダイナミクスを理解することにほかなりません。地図上の線の向こうには、伯や司教、修道院と農民、商人と吟遊詩人の世界が広がっていた――その事実を想像することが、この条約を立体的に学ぶ最良の方法なのです。