黒人奴隷解放宣言(国民公会) – 世界史用語集

「黒人奴隷解放宣言(国民公会)」とは、フランス革命期の1794年2月4日(共和暦2年プリュヴィオーズ16日)に、フランス第一共和政の議会である国民公会がフランス植民地における黒人奴隷制を全面的に廃止し、すべての解放奴隷と有色自由人にフランス市民の権利を付与すると決定した出来事を指します。サン=ドマング(現ハイチ)での奴隷反乱と共和派委員の先行的解放布告(1793年)を受けて、本国が初めて奴隷制そのものを原理的に否定した画期的宣言でした。ただし、この廃止はナポレオン政権下で1802年に一部植民地で復活させられ、最終的なフランス全植民地での恒久的廃止は1848年第二共和政のシェルシェール布告を待つことになります。それでも1794年の宣言は、普遍的人権の理念が帝国の制度へ切り込んだ最初の大きな法的断絶であり、のちのハイチ独立(1804)や大西洋世界の廃奴運動に深い影響を与えました。

本項では、宣言の成立背景、条文の要点と法的効果、植民地での実装と矛盾、反動とその後の再廃止、国際比較と歴史的意義を、分かりやすく整理して解説します。フランス革命が掲げた自由・平等の理念が、砂糖・コーヒー経済に支えられた植民地体制と衝突し、戦争・反乱・外交の渦中でどのように具体化/揺り戻しを経験したのかを、立体的に捉えることが鍵です。

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成立の背景:革命理念、植民地経済、そしてサン=ドマング蜂起

18世紀末のフランスは、カリブ海の砂糖・コーヒー諸島(とくにサン=ドマング)から莫大な収益を上げていました。そこでは「黒人法典(コード・ノワール、1685年)」に基づく奴隷制が制度化され、厳格な人身支配と暴力の上にプランテーション経営が成り立っていました。啓蒙思想と人権宣言(1789年)がもたらした普遍主義は、この植民地秩序と根源的に緊張関係にありました。

革命の初期、パリでは「黒人の友協会(アミ・デ・ノワール)」が奴隷貿易の廃止と有色自由人の権利拡大を訴えた一方、植民地の大プランターや商人を中心とする「マッシアック・クラブ」は現状維持を強硬に主張しました。1791年4月の法(いわゆる4月法)と1792年4月4日の法は段階的に有色自由人(自由黒人・ムラート)に市民権を認めましたが、奴隷制そのものには踏み込まれませんでした。

転機は1791年8月からのサン=ドマングでの大規模奴隷蜂起です。トゥーサン・ルヴェルチュールらの指導のもと、解放と自由を求める戦いはフランス革命の「自由・平等」の言葉を自らのものとして掲げました。フランスはイギリス・スペインとの戦争(第一次対仏大同盟)のさなかで、植民地の離反を防ぎ革命政府の正統性を保つために、現地派遣の委員ソントナクスとポルヴェレルが1793年に段階的な奴隷解放を布告します。これを受け、国民公会が本国法として全面的廃止を決断したのが1794年の宣言でした。

宣言の内容と法的効果:奴隷制の廃止と市民権の付与

1794年2月4日の決議は簡潔で明確でした。要点は(1)フランス植民地における「黒人の奴隷制」を即時に廃止すること、(2)すべての解放者と有色自由人をフランス市民として承認し、彼らに「すべての権利」を付与すること、の二点です。これにより、少なくとも法のレベルでは人種・肌の色に基づく身分的不平等が否定され、共和国の人民概念に植民地出自の人々が含まれることが確認されました。

象徴的出来事として、サン=ドマング出身の自由有色人であるジャン=バティスト・ベレ(Belley)が国民公会議員として登院し、議場での演説と投票によって自らの権利を体現しました。アントワーヌ=ジャン・グロやジロデ=トリオゾンの絵画に残るベレの肖像は、革命の普遍主義が肌の色の線を越えうることを可視化した図像でもあります。

法的には、革命政府は「自由の敵」である列強と戦う中で、解放奴隷を共和国の兵士として動員する根拠を手にしました。実際、サン=ドマングでは黒人部隊がフランス軍の一翼を担い、英西勢力と戦いました。これは、自由と兵役・市民権の結び付きという革命的テーゼを植民地にも拡張する試みでもありました。

植民地での実装と矛盾:戦時・占領・経済構造の壁

とはいえ、宣言の即時実装は容易ではありませんでした。第一に、カリブ海の諸島の多くは戦時下にあり、英海軍の制海権や占領によって、共和政の法が及ばない地域が生じました。グアドループなどでは革命派が奪回後に解放を実施しましたが、マルティニークはイギリスの占領下で旧制度が温存されました。

第二に、砂糖・コーヒー産業の生産体系は、奴隷制を前提に設計された大規模プランテーションでした。解放後の労働編成—賃金労働、分益、耕地配分—は混乱し、旧主と解放者の間の契約紛争が頻発しました。サン=ドマングでは、トゥーサン政権下で労働規律を保つための勤労令(労働証明制度)などが導入され、自由の実現と生産の維持の間で苦しい調整が続きました。

第三に、社会的・人種的序列の心性は一朝一夕に変わりません。法的平等にもかかわらず、現地行政や旧プランターの抵抗、白人・有色自由人・黒人解放者のあいだの緊張が錯綜し、政治的対立が激化しました。自由は得たが土地・教育・信用が不足する状況で、実質的な自立には長い時間が必要でした。

反動と揺り戻し:ナポレオンの再奴隷化とハイチ独立

1799年に総裁政府を倒して第一統領となったナポレオン・ボナパルトは、植民地復旧と砂糖経済の再建を狙い、1802年5月20日の法で(実務上は)カリブ海の一部植民地における奴隷制を復活させました(共和国の法域と例外の整理を装いながらの再奴隷化)。さらにサン=ドマングへの遠征軍を送り、トゥーサン体制の解体と旧秩序の回復を試みます。

しかし、この政策は激しい抵抗を招きました。熱帯病の犠牲と相まってフランス軍は消耗し、デサリーヌらの指導で独立戦争が勝利に至ります。1804年、サン=ドマングはハイチとして独立し、世界初の黒人共和国が誕生しました。皮肉なことに、ナポレオンの反動こそが、1794年宣言が切り開いた自由の原則を、最終的に領土国家として体現する道をハイチに与えたとも言えます。

フランス本国では、奴隷制の完全な終焉は1848年の第二共和政まで待たねばなりませんでした。1848年のシェルシェール布告は、すべてのフランス植民地における奴隷制を恒久的に廃止し、補償、移行措置、教育・市民権の実装を含む包括的な再編を定めました。

国際比較と波及効果:大西洋世界の廃奴の地平

1794年の宣言は、近世以降の大西洋世界における国家レベルの「奴隷制廃止」として最も早い例の一つでした(もっとも恒久化には失敗します)。イギリスではまず1807年に奴隷貿易が違法化され、1833年に帝国内で奴隷制が廃止されました。米国は1808年に奴隷輸入を禁止し、奴隷制そのものは南北戦争を経て1865年に第13条で廃止されています。ラテンアメリカではハイチ革命が強力なモデルと恐怖の対象の両義性を持ち、スペイン・ポルトガル系の植民地でも19世紀に段階的廃止が進みました。

思想面では、普遍的人権の理念を「帝国の周辺」に適用する際の矛盾が露出し、共和主義と植民地主義の両立可能性が問い直されました。自由・平等・国民という革命語彙は、植民地の被支配者にとっても強力な動員資源となり、逆に本国のエリートの二重基準を告発する武器となりました。ベレの議場での存在、黒人兵士の共和国への忠誠と反乱、植民地議会と本国議会のせめぎ合いは、その象徴的場面です。

史料・条文と議会の風景:誰が、何を、どう決めたのか

国民公会の決議は、山岳派(ジャコバン派)を中心に短い討議で採択されました。公安委員会と植民地委員会の報告、現地委員の布告、軍事情勢が即断を促し、「共和国は黒人の奴隷制を廃止する」との明快な文言が賛同を集めます。議場にはサン=ドマングから選出された代表も出席し、彼らの演説は人権宣言の論理を〈肌の色にかかわらない市民〉へ拡張するものでした。

一次史料としては、国民公会議事録、委員会報告、植民地行政の布告、現地新聞・パンフレット、個人書簡、軍隊の命令書、教会の記録などが利用できます。美術作品(ジロデ作「ジャン=バティスト・ベレの肖像」)や彫像、メダルも象徴の政治学を読む手がかりです。条文自体は長文ではありませんが、その含意は〈身分法の解体〉と〈植民地人民の国民化〉という二つの巨大な課題を孕んでいました。

評価と現在への射程:普遍主義の試金石として

1794年の黒人奴隷解放宣言は、普遍的人権の実験場としてのフランス革命を、ヨーロッパ内部に閉じない規模で試した事例でした。法のレベルでは「人間と市民の権利」を肌の色を問わず適用しましたが、経済・戦争・植民地権力の現実はその実装を阻み、ナポレオン期の反動を招きました。にもかかわらず、この宣言は〈理念を制度へ〉という方向付けを残し、ハイチ独立や1848年廃止、さらには19世紀の大西洋に広がる廃奴運動の正統性の根拠となりました。

今日の視点からは、宣言を「早すぎた勝利」と「不完全な実装」の両面で捉える必要があります。自由の言葉は、当事者—奴隷化された人々—の主体的行動によって押し広げられ、国家はしばしば後追いで合法化したにすぎません。1794年の宣言は、そのダイナミズムを可視化する節目でした。歴史の学習においては、理念・法・実装・反動・再編という循環を意識し、当事者の声と現地の利害、国際政治の構図を重ねて理解することが重要です。

要するに、国民公会の黒人奴隷解放宣言は、革命の中心理念が植民地世界に向けて投げかけられたラディカルな問いでした。〈自由は誰のものか〉〈共和国はどこまで広がるのか〉という問題に、時代の限界と可能性をもって応答したこの宣言は、ハイチの夜明けと1848年の昼へとつながる「長い朝焼け」の始まりだったのです。