サティヤーグラハ(Satyagraha)は、マハートマ・ガンディーが20世紀前半に提示し実践した、非暴力・不服従の運動思想と実践の総称です。直訳すれば「真理(サティヤ)をつかむ/把持する(グラハ)」であり、敵に勝つというより、真理に自他を従わせる倫理的な圧力を社会に働かせる方法論を意味します。単なる「抵抗のテクニック」ではなく、個人の自己修養(節制・誓約・自省)と共同体の建設的計画(糸車・互助・衛生・識字など)を不可分にした、政治・道徳・生活の三位一体の構想です。南アフリカでの差別法に対する抵抗から始まり、インドでは非協力運動・塩の行進・個人サティヤーグラハ・「退陣せよ」運動などで具体化しました。暴力的手段に訴えず、相手の良心に訴えること、違法行為に踏み込む場合も逮捕・罰の受忍を通じて公権の不正を可視化すること、そして不買・不納税・自治の実践で「代替の秩序」を先取りすることが中核です。以下では、思想の基礎、形成の歴史、具体的技法、成果と限界・波及の四つの観点から、サティヤーグラハをわかりやすく整理します。
思想の基礎:真理・非暴力・自己克己—「力」を逆転させる倫理
ガンディーがサティヤーグラハと名づけたのは、英語の「受動的抵抗(passive resistance)」では核心が伝わらないと考えたからです。彼にとって非暴力(アヒンサー)は臆病の同義ではなく、自己抑制と勇気を要する「積極的な力」でした。暴力で相手を屈服させるのではなく、自身が真理に忠実であろうと努め、その誠実さと自己犠牲(タパスヤ)が相手の良心と世論を動かすという発想です。ここでの「真理」は単なる事実の正しさではなく、内省と実践を通じて近づく倫理的真実で、しばしば宗教的な意味合い(神=真理)を帯びます。
サティヤーグラハは、(1)アヒンサー(非暴力)、(2)タパスヤ(自己苦行=自分が負担を引き受ける意志)、(3)スワデーシー(国産愛用)とスワラージ(自治)、(4)サティヤ(真理)とアステーヤ(不盗)という倫理原理に支えられます。敵の破壊ではなく関係の変容を目指し、目的と手段の一致(清い目的は清い手段でのみ達成できる)を厳格に要求します。ガンディーは、政治権力の問題を個人の生活習慣にまで引き下ろし、塩・布・食・衛生・酒・性・宗教間関係など日常の全域を改革の対象に据えました。これは「政治の道徳化」と同時に、「道徳の政治化」でもあり、支持と反発をともに呼びました。
形成の歴史:南アの出発からインド独立運動の中核へ
サティヤーグラハは南アフリカで生まれました。若き弁護士ガンディーは、ナタール・トランスヴァールでのインド系移民差別に直面し、1906年以降、指紋登録法や通行証制度に対する集団的違法・逮捕受忍を組織します。彼はここで、誓約(pledge)を交わし、暴力の挑発に乗らず、破壊行為を禁じ、相手官憲との交渉を継続しながら、長期の受忍によって法律そのものを政治問題化する技法を練り上げました。この段階で、サティヤーグラハは単なる抗議ではなく、共同体の規律訓練と再編の運動になっていきます。
インド帰国後、第一次世界大戦後の政治危機(ローラット法、アムリットサル虐殺)に直面して、ガンディーはサティヤーグラハの全土展開を決断します。非協力運動(1920–22)では、官製の学校・法廷・役職からの辞任、外国布の不買と焼却、酒類・嗜好品のボイコット、自治体の住民自治強化など「関わらないこと(non-cooperation)」で帝国の正当性を掘り崩しました。しかし、1922年チャウラチャウリで警察署焼討・警官殺害が発生すると、ガンディーは運動を即座に停止します。彼にとって暴力の発生は手段と目的の崩壊であり、運動を継続する正当性を失うものでした。
1930年には、塩の行進が象徴的クライマックスとなります。塩税は貧しい人々に重くのしかかる不公平な税であり、海岸で自製塩を作ることは違法でした。ガンディーはアーメダーバードから海岸のダーンディーまで約380kmを歩み、沿道の村々を巻き込みながら塩法違反を宣言。数万人規模の逮捕が続く中、非暴力・不抵抗の原則を貫き、インド問題を国際世論に鮮烈に可視化しました。続く個人サティヤーグラハ(1940–41)は、第二次大戦期の言論の自由をめぐる少人数による計画的逮捕であり、戦時下でも非暴力の規律を断続的に示しました。1942年の「退陣せよ(Quit India)」は大衆的な政治ストの色彩が強く、各地で暴力も発生しましたが、サティヤーグラハの理念自体は運動の道徳的支柱であり続けました。
こうした過程で、サティヤーグラハは二つの柱—抵抗(不服従・不協力)と建設(コンストラクティブ・プログラム)—をセットで進める様式を明確にしました。手紡ぎ(カーディー)・農村衛生・識字・不可触民(ダリット)差別の克服・宗教間和解・女性の参加など、社会内部の改革が、対外的抵抗の裏面を成すのです。ガンディーは、独立後の社会が暴力と権力を再生産しないよう、「いま、ここ」で自治の生活を先取りすることを重んじました。
具体的技法と運動の規律:不服従のデザインと「受忍」の政治
サティヤーグラハの技法は多層です。第一に、法的不服従(civil disobedience)です。これは特定の不正な法律・命令を選び、公開の場で違反し、逮捕と裁判を受け、法廷で理非を述べ、刑罰を受けることを通じて不正を可視化する行為です。秘密裏や匿名ではなく、責任の引き受けを通じて正当性を訴えます。第二に、非協力です。官製の制度(学校・法廷・役職・選挙)のボイコット、租税の遅延・拒否、経済的ボイコット(外国布・酒・塩)など、「関係を断つ」ことで相手の支配コストを上げ、依存の回路を断つ戦略です。第三に、ハルタール(一斉休業・同時停止)やサバハ(集会・祈り)など、非暴力の集団行動で、数的規模と規律の可視性を前面に出します。
サティヤーグラヒー(実践者)は、厳格な誓約に従います。嘘をつかない、挑発に乗って暴力に訴えない、財産破壊をしない、酩酊・淫行を避ける、貧者と分かち合う、敵対者も人として尊重する、といった規範です。行進やピケにおける挑発耐性は、練習と相互監視で維持され、乱暴が生じた場合は運動全体を停止することすらありました。ガンディーは幾度も大衆動員を「引き締め直し」、規律の緩みが目的と手段の一致を破壊すると警告しました。この徹底が、サティヤーグラハを単なる群衆運動から倫理的運動へと格上げした理由です。
さらに、サティヤーグラハは「受忍(suffering)の政治学」を中核に据えます。権力は通常、罰と恐怖で人を従わせますが、サティヤーグラヒーは罰を恐れず受け入れ、刑務所を「学校」と呼びました。自らの苦痛の受忍と、自発的な不便(外国布不買のための手紡ぎ、塩を買わずに歩く、遠回りの生活)こそが真理の力を可視化する装置であり、敵の心と第三者の世論を動かす、とされました。ここで、犠牲は他人への強制であってはならず、まず自分に向けられるべきだ、という線引きが厳格に保たれます。
成果・限界・波及:独立への寄与、その後の批判、世界的応答
サティヤーグラハは、帝国支配のコストを引き上げ、インド問題を国際化し、独立への道を開くうえで重要な役割を果たしました。とくに塩の行進は、貧者の日常の負担を「政治」に変換し、世界の新聞・ラジオに乗せた点で画期的でした。運動は、都市エリートと農村、ヒンドゥーとムスリム、上層とダリット、女性と男性を緩やかに結び、「正義の側にいる」という象徴資本を作りました。一方で、宗派間暴力や農村の暴発、テロ的手段に惹かれる潮流を完全に抑えることはできず、ガンディー自身も幾度も絶食を通じて火消しに奔走しました。
批判も多岐にわたります。急進派は、非暴力は支配層にとって安全な「無害の発散路」であり、構造的暴力(貧困・土地関係)の打破には不十分だと論じました。宗派間暴力の前では非暴力が無力だという現実も何度も突きつけられました。保守派は、法的不服従は社会秩序を破壊すると非難しました。ガンディーはこれらに対し、非暴力は弱さではなく勇気の最大の試練であり、暴力の循環を断ち切る唯一の方法だと応答しました。ただし、独立後のインド国家が暴力と汚職を免れなかった事実は、目的と手段の一致が統治において持続させにくいことを示唆します。
それでもサティヤーグラハの方法は、世界の市民運動に大きな影響を与えました。米国のキング牧師と公民権運動、南アのマンデラと反アパルトヘイト運動、ポーランドの連帯、東欧のビロード革命、フィリピンのピープル・パワー、韓国の民主化運動、ミャンマーや香港の非暴力街頭戦術など、多くの運動がボイコット・不服従・祈り・人間の鎖・サイレント・マーチといったレパートリーを共有しました。現代の運動はSNSや映像を用いて「受忍」の可視性を拡張し、瞬時に国際世論を喚起する力を得ています。他方で、デマ拡散や分断の加速、挑発への脆さという新しい課題も露わになりました。
サティヤーグラハの意義は、政治的勝利の可否に還元できません。暴力と恐怖で関係を変えるのではなく、相手の良心と世論に働きかけるという「力」の再定義は、学校・職場・地域・国際関係など、あらゆる場で応用可能です。異なる意見や利害が衝突する現場で、手段が目的を腐食しないように自分を律し、相手を侮辱せず、嘘に頼らず、負担はまず自分が引き受ける—この姿勢は時代を超える普遍性を持ちます。サティヤーグラハとは、弱さの最後の拠り所ではなく、人間の尊厳に賭ける最初の選択肢なのです。

