サティー(寡婦殉死) – 世界史用語集

サティー(寡婦殉死)は、夫が死んだ際に妻が夫の火葬の火に身を投じて殉死する行為、およびそれを称揚・容認する文化的観念を指します。古代インドのごく一部の文献的言及や英雄譚に端緒を持ちながら、中世以降とくにラージプート諸国など北西インドの武士的社会で象徴化され、近世から植民地期にかけて社会問題として国際的に知られるようになりました。サティーは全インド的に一般化した慣行ではなく、地域・時代・身分によって大きく頻度が異なる点が重要です。多くの共同体では行われず、行われた社会でも、常に葛藤と議論の対象でした。明文化されたヒンドゥー法が一律に命じたものでもなく、宗教儀礼・家産相続・名誉観・政治宣伝などの要素が結びついた複合現象として理解するのが実態に近いです。以下では、起源と観念、制度・社会の文脈、植民地期の規制と廃止、現代への余波という四つの観点で、偏見や単純化を避けつつ説明します。

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起源・語義・観念:神話と法文、英雄譚が交差する背景

「サティー(satī)」は本来、サンスクリット語で「真なる女・貞淑な妻」を意味する語で、人格的徳目の称号でした。そこから派生して、夫の火葬の火に身を投じる行為自体を指すようになります。古代叙事詩『マハーバーラタ』やプラーナ文献の一部には、戦死者に殉ずる婦人の逸話が散見されますが、規範として一般化しているわけではありません。初期の法文献(ダルマ・スートラ、マヌ法典など)でも、寡婦の生の過ごし方として禁欲・節度・家内での敬虔な生活を推奨する記述が中心で、殉死を強制する普遍的規定は確認しがたいです。

一方、ラージプートの英雄譚や地方年代記には、侵略や籠城の危機に際して多数の女性が火に入る「ジョーハル(jauhar)」の描写が現れます。これは集団的殉死で、通常のサティー(夫の個別火葬に随伴する殉死)とは区別されますが、名誉と純潔の保全、宗族の威信という観念と結びつき、後世の称揚的記憶と重なりました。この種の物語は、武徳の称揚・敵愾心の鼓舞・家産権力の維持に動員され、記念碑(サティー石、サティー柱)や歌謡の形で地域文化に刻まれます。

要するに、サティーは宗教的教義の単線的実践ではなく、各地の政治文化・名誉観・家父長制の中で「美徳」として意味づけられたり、逆に抑制・禁止の対象となったりする可変的な慣行でした。失われた夫婦関係の〈忠誠〉や〈清浄〉の象徴として語られた一方で、現実には相続や後見、再婚の可否、家産の流出防止といった生々しい利害が絡み、女性本人の意向が抑圧される事例も少なくなかったのです。

法・社会・地域差:ヒンドゥー法の位置づけ、寡婦の生活と家産秩序

ヒンドゥー法(ダルマシャーストラ)や注釈伝統には、寡婦の徳目を説く条項が豊富にありますが、殉死を義務づける統一規範は見当たりません。むしろ多くの伝統では、寡婦は婚姻装身具を外し、質素な衣で禁欲生活を送り、家庭の神々や夫家の祖霊に仕えることが徳とされました。寡婦再婚については時代・地域差が極めて大きく、上層カーストでは禁忌視が強まり、下層や部族社会では再婚が一般的という相違が見られます。

中世から近世にかけて北西インド、とくにラージャスターンやパンジャーブの一部では、戦乱・宮廷抗争・領主間の名誉競争の中でサティーが目立つようになります。そこでは、(1)家産の分割回避と相続資産の囲い込み、(2)寡婦の性的自律に対する懸念を抑え込む名誉規範、(3)王侯・武士身分の「武徳」の演出、が絡み合いました。サティー後に建立される石碑(サティー・ステューパ、サティー柱)や、一定の土地・祭祀権の付与は、宗族の記憶政治として機能し、後続世代が寄進と賽銭を通じて家の威信を再生産しました。

とはいえ、どの社会でもサティーが常態だったわけではありません。同時代史料には、地方領主やバラモンが寡婦に生を勧奨し、家の内職や宗教活動に役割を与えた例も多く見えます。都市部では商人コミュニティが寡婦扶助の規約(ダーナ、共同基金)を設け、再婚や養子縁組を通じて家産継承を柔軟化する工夫もありました。つまり、サティーは〈社会の一般則〉ではなく、〈特定の状況で現れる強い記号〉だったと言えます。

植民地期の論争・規制・廃止:改良主義と在地慣行のせめぎ合い

18〜19世紀、イギリス東インド会社の支配拡大とともに、サティーは植民地政府・宣教師・インド知識人の間で激しい論争の的となりました。ベンガルでは新聞・パンフレット・裁判記録が増え、都市知識人の間で慣行批判が強まります。ベンガルの改革者ラーム・モーハン・ロイは、寡婦の尊厳とヒンドゥー法の原意を掲げ、サティーの宗教的正当化を批判しました。彼は古典文献の解釈に基づき、殉死は必須の戒律ではなく、むしろ慈悲と節制こそが寡婦の徳だと論じ、社会的慣行としてのサティーに反対しました。

植民地政府は当初、宗教慣行への介入をためらいましたが、ベンガル総督バンティンクは1830年代に踏み込み、1830〜33年頃にかけてベンガル管区でサティーを違法化する規則を公布します(いわゆる1829年のベンガル規則第17号に端緒が置かれるのが通例の理解です)。以後、規制は北西部・マドラス・ボンベイへ拡張され、英領インド刑法の枠組みの中で、教唆・実行・助勢を刑罰対象に組み込みました。法の施行に際しては、宗教的自由への配慮や、儀礼の名を借りた殺人・強要の摘発、寡婦の保護手順など、細かな運用が伴いました。

サティー違法化は、植民地国家の「文明化ミッション」を正当化する象徴的政策としても利用され、帝国主義の自己賛美とインド社会のステレオタイプ化を助長する側面も持ちました。他方、インド側の改良主義者・女性運動は、植民地権力の言説を超えて、寡婦教育・再婚・相続権の拡充など具体的改革を追求し、19世紀後半には寡婦再婚法(1856)などの立法が進みます。サティーの抑止と並行して、寡婦の社会的選択肢を増やす取り組みが重要だったことは言うまでもありません。

現代への余波と記憶:稀少化した行為、語りの政治、女性の主体をめぐる論点

19世紀の違法化以降、サティーは著しく稀少化し、現代のインド社会において制度的に容認されることはありません。20世紀後半には、地方で単発的な事件が報道され、強要・教唆・美化の可否をめぐって国内外で議論を呼びました。政府は再発防止のため、サティーの教唆・称揚・記念碑の建設・資金提供などを禁止・処罰する特別法を制定し、地域行政・警察・NGOが連携して抑止に努めています。今日の法制度の下では、サティーは殺人・自殺教唆等として厳格に取り締まりの対象です。

一方で、サティーをめぐる議論は、単に「過去の野蛮」として片づけることが適切ではない繊細さをはらみます。第一に、歴史的現実として、サティーには女性本人の意志の表明が含意される場合もあり得ました。とはいえ、家族・共同体・宗教的権威・経済利害の圧力の中で形成される「意志」が、近代的な個人の自由意思と同等かどうかは、慎重な検討が必要です。第二に、外部の視線—とりわけ植民地主義的言説—が、サティーをインド文化全体の属性として固定化し、複雑な地域差と歴史の変化を捨象してきた問題です。第三に、記憶の政治です。地域の英雄譚や巡礼地におけるサティーの物語・記念碑は、女性の犠牲を通じて共同体の結束を語り直す機能を果たしうる一方で、女性の生の多様な可能性を見えなくする危険も孕みます。

現代のインド女性運動・研究は、サティーを特異点としてではなく、寡婦の相続権・再婚権・教育・職業機会、暴力からの保護、宗教儀礼のジェンダー差など、広い課題の中で位置づけ直しています。法の整備だけでなく、寡婦の生活支援、村レベルの相談窓口、学校教育でのジェンダー学習、メディア表象の見直しなど、足の長い取り組みが続きます。サティーの歴史を学ぶことは、文化相対主義と普遍的人権の難しい接点で対話を重ねる訓練でもあります。

総じて、サティー(寡婦殉死)は、ヒンドゥー社会に普遍的な義務ではなく、特定の時代・地域・身分・状況で象徴化・争点化した慣行でした。宗教・名誉・政治・家産という複数の回路が交差し、女性の生をめぐる選択肢が狭められる局面で強く現れた現象です。植民地期の違法化と近代の改革を経て、現在のインドでは法的に禁止され、社会的にも支持を失っていますが、その語りはなお、歴史・記憶・ジェンダー・人権をめぐる思考を刺戟し続けます。単純な断罪や賛美ではなく、複合的な文脈を丁寧にたどることが、過去の出来事を未来への学びに変えるいちばんの近道です。