雑徭(ぞうよう/雑役・徭役の一類型)は、国家や地方官が自由民に課した労役負担の総称で、とくに定められた本則の兵役・駅伝役・戸口調役などのほかに、土木・治水・運送・営繕・警固・官衙雑務といった「雑多な」公共労働を命じる制度を指します。貨幣や物品で納める租税とは異なり、時間と労働力を直接取り立てる仕組みで、古代から前近代にかけて東アジア各地で整備・運用されました。飢饉や水害の多い地域では、雑徭が堤防・堰・運河の維持に不可欠でしたが、運用次第では過重負担・私的流用・人口流出を招き、しばしば農民反発や地方疲弊の原因にもなりました。近世以降、貨幣経済の発達にともない、現物・現金での代納(徭役の金納化)が広がり、やがて制度そのものが税制へ吸収・置換されていくというのが大きな流れです。本稿では、(1)概念と基本構造、(2)中国史における展開、(3)日本の律令制と中世以降の変容、(4)社会経済的影響と近世の金納化、の四点から、雑徭の実像を整理します。
概念と基本構造:税(モノ・カネ)ではなく「時間」を徴収する仕組み
雑徭は、住民登録(戸籍・黄籍)や土地台帳(籍田・田簿・計帳)にもとづき、一定年齢の男子を中心に年ごとの労役日数を割り当てる仕組みです。徴発の単位は、戸・里・郷・坊・県などの基層組織で、動員は里正・郷長・保長などの在地リーダーが担いました。仕事内容は、道路・橋・堤防・水路の建設維持、城壁・官衙・倉庫の造営や修理、駅伝の補助、官物の運送、夜警・防火、科挙・祭祀の設営に至るまで多岐にわたります。多くの政権で「上限日数」や免役の規定(老弱・病者・官吏・学生など)が置かれましたが、災害時や戦時には臨時動員が加算され、実負担は増えがちでした。
制度の狙いは三つに集約できます。第一に、財政支出を抑えつつ公共事業を実施するための労働供給の確保です。第二に、在地社会を組み込むことで治水・街路などの維持管理を日常化することです。第三に、軍役や駅伝と連動させた動員訓練の機能です。他方、徴発の裁量が地方官や有力者に偏ると、私的使役化や不公平な割当てが生じ、逃亡・浮浪・名籍の偽装といった副作用を引き起こしました。
中国史における展開:徭役の骨格から金納化へ—秦漢・唐宋・明清
中国では、徭役(徭・役)が古代から租庸調制・両税法・一条鞭法・地丁銀へと変遷する税制の芯にありました。秦漢期には、成丁男子に対し年数十日規模の力役(道路・城壁・宮殿・陵墓)や兵役が課され、均輸・平準とともに国家土木の基盤を形成します。隋唐の租庸調制では、土地に応じる租(穀)・庸(布による役の代納)・調(布・絹)に加え、雑徭として年二十日内外の労役が規定され、里甲・里正が割付を担いました。庸は本来「労役の等価物」でしたが、実務では庸・雑徭の線引きが曖昧になり、特に災害・軍需期に負担が嵩みました。
唐末〜五代を経て、宋代には貨幣経済の進展とともに徭役の折納(銭納)が拡大します。地方の市舶・塩・茶・商税が伸び、国家・郷里は労役を銭で調達し、雇役人夫(雇工)を使う場面が増えました。一方で、在地の役差(差役)や保甲の割当は温存され、差役の均平をめぐる争いが続きます。元代は色目人・軍戸・民戸の身分区分と役務が結びつき、モンゴル帝国の道路網(駅伝=站赤)維持のための人馬供出が重くのしかかりました。
明代は、里甲制の下で諸役を「黄冊」(戸籍)・「魚鱗図冊」(土地台帳)に登録し、里長・甲首が持ち回りで差役を負担する仕組みを整えました。しかし差役の偏在と苛重は逃散を誘発し、万暦期の「一条鞭法」(張居正らの改革)により、徭役・雑役・諸色役銀を地税(田賦)と一括して銀納する方向へ大きく舵が切られます。これにより、国家は現金で役務を購入し、農民は労働日ではなく銀で負担を表現する社会へ移行しました。清代にはさらに「摊丁入亩」(人丁銀を田地に摊入=地税へ包含)などが進み、名目上の人頭負担を縮減しつつ、実質は地税へ吸収する形で徭役を税制化しました。
この長期的変化の要点は、(1)徭役の貨幣化(折納)、(2)負担単位の戸から田へ(土地課税中心)への転換、(3)公共事業の官請・請負化です。結果として、農民の時間拘束は軽減する一方、貨幣調達のための商品生産・副業・出稼ぎが広がり、地域経済は市場との結びつきを強めました。ただし、銀価変動や仲介の租税農(包銀)による取りはぐれ・過徴収が新たな問題を生み、雑徭が完全に消えたわけではありませんでした。
日本における雑徭:律令制の明文規定から中世・近世の慣行へ
日本の律令制(大宝・養老令)では、成年男子(庸調負担者)に対し、「雑徭は年六十日以内」とする上限規定が明記されました。雑徭は中央直轄の駅伝・軍役・都の造営などのほか、各国の国衙が行う堤防・道路・橋梁・倉庫・寺社の営繕、運脚(官物輸送)の補助などが典型業務でした。徴発は郡司や里長が担い、班田収受や計帳登録と連動して割り当てられます。身体的条件や身分により免役も規定され、僧尼・学生・病者・高齢者などは軽減・免除がありましたが、非常時には臨時雑徭(臨時雑役)が加わり、名目上の上限はしばしば超過しました。
律令はまた、私的使役の禁止を掲げ、国司・郡司・豪族が公権を利用して農民を私事に使うことを禁圧しました。しかし現実には、国司や受領が権限を背景に私的動員を行い、郡郷レベルでも社寺・荘園領主による夫役・雑役が拡大します。中世に入ると荘園公領制のもとで年貢・公事と並ぶ夫役負担が一般化し、田下・名子・作人など多様な身分が、用水・堤・道普請、年貢輸送(駄賃・舁夫)に動員されました。鎌倉・室町期の在地自治(惣村)では、村請のもとで村中普請が分担され、村掟で労働配分と免除(年寄り・寡婦・病者)を調整する慣行も育ちます。
近世(江戸時代)では、年貢のほかに夫役・普請役が村々へ課され、街道・橋・堤・用水・関所の維持を担いました。諸藩では「人足銀」などの名目で金納化が進み、実労役の代わりに現金で負担させ、藩や請負商人が人足を雇う体制が広がります。幕府直轄の大規模普請(河川付替・新田開発・城郭修築)には国役・郡役・村役が連鎖的に割り当てられ、村方三役(名主・組頭・百姓代)が動員調整にあたりました。過重な普請は百姓一揆・強訴の火種となり、免除嘆願や負担軽減策(割付替え・年季限りの夫役)が政治課題となります。
社会経済的影響と近世の金納化:公共事業・共同体・市場の三角関係
雑徭は、灌漑・治水・交通の整備を通じて地域の生産力を底上げしました。とりわけ水田稲作社会では、堤・用水・樋門の維持は共同体の生命線であり、雑徭動員は協働の訓練として機能しました。村落の寄合・講・若者組は、普請の割付・順番・道具の共同所有・賃労働者の雇入れをめぐって意思決定を行い、共同体規範(無断欠勤への罰、酒食のふるまい)を作り上げます。
一方で、雑徭の重圧は人口流出・逃散・地下籍化を招きました。労働の機会費用(農繁期の人手不足)は大きく、遠距離運脚や長期普請は家計の破綻リスクを高めます。このため、貨幣経済が浸透すると、徭役の金納化が社会の合理的選択となり、村や個人は現金収入(商品作物・副業・出稼ぎ)で負担を賄う方向へ傾きました。中国の一条鞭法・摊丁入亩、日本の人足銀・普請銀、朝鮮の均役法(18世紀に布帛・貨幣で徭役を平準化)などは、その制度化の表れです。
金納化は、公共事業の請負・市場化を進め、専門の人足・大工・石工・船頭・駄賃稼ぎが現れ、地域経済に職の分化を生みました。他方、貨幣での一括徴収は、仲介者(請負商人・郷豪)による取り立ての不透明化や中抜きの温床にもなり、在地社会の不信と紛争を引き起こしました。さらに、銀価格・米価の変動は実質負担を激しく上下させ、財政と生活に新たな不安定性を持ち込みます。ゆえに、雑徭の歴史は、労働の共同動員から市場的調達への移行、その過程で生じる統治の再設計の歴史でもありました。
雑徭をめぐる近代のエピソードとしては、近代国家が常備軍・官庁・公共事業省庁(工部・内務省・河川局)を整備し、税財源で雇用する公共労働へ切り替えたことが挙げられます。徴税・国債・地方財政が確立すると、無償・半強制の徭役は人権・労働の理念と整合しづらくなり、法制上も縮小・廃止されました。ただし、地域社会に残る講・普請・共同作業は、祭礼や道整備、消防団活動などの形で存続し、「自発的協働」と「行政委託」のはざまに新しい役割を得ています。
総括すると、雑徭は、古代から前近代にかけて国家と共同体が公共財を生み出すための主要な技術でした。そこでは、戸口の把握、割当のルール、免役と代納、在地エリートの役割、労働と祭礼の境界といった多くの要素が結びついています。貨幣化と市場化が進むとともに、雑徭は税制へ吸収され、請負・契約へ姿を変えましたが、地域社会の協働や公共性をめぐる感覚は、形を変えつつ今日にも受け継がれています。雑徭を理解することは、国家財政・公共事業・地域社会の関係史を読み解く鍵であり、労働と税の境目が可変であることを教えてくれるのです。

