オーストリア降伏 – 世界史用語集

「オーストリア降伏」という語は、文脈によって複数の出来事を指しうる表現です。もっとも一般的には、1945年5月に第二次世界大戦が終結する過程で、オーストリア領域(当時ドイツの一部として「オストマルク」と呼称)に展開していたドイツ軍部隊が連合国(主としてソ連赤軍と西側連合軍)に無条件降伏し、その後、連合軍の占領と管理が開始された一連の出来事を指します。これが現在の歴史叙述で「オーストリアの解放」「ドイツ軍の降伏」「連合国統治の開始」といった見出しで語られる中心線です。他方で、近代史ではナポレオン戦争や普墺戦争でオーストリアが敗北して講和・割譲を受け入れた局面を慣用的に「降伏」と表現することもあります。本稿では、第一に1945年の出来事を骨格から分かりやすく整理し、第二に占領体制と政治再建の具体、最後に近代の他の「降伏」に相当する局面との違いと関係をまとめます。

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1945年の基本像――ウィーン攻勢からドイツ軍の無条件降伏へ

第二次世界大戦末、オーストリアはすでに独立国ではなく、1938年のアンシュルス(ドイツによる併合)以来、ドイツ第三帝国の「オストマルク」として編入されていました。したがって「オーストリアが降伏した」というより、オーストリアの地で戦っていたドイツ軍集団が降伏した、というのが厳密な言い方になります。1945年3月から4月にかけて、ソ連軍(ジューコフ/コーネフ指揮の大戦略の一環)がドナウ流域へ突進し、4月上旬にウィーン攻勢が開始されました。市街戦の末、4月中旬にはウィーンが陥落し、赤軍が主要都市と交通要衝を押さえます。一方、西方からはアメリカ軍がアルプス北麓へ進出し、ドイツ本土南部とチロル・ザルツブルク方面で部隊の投降が連鎖しました。

この段階で、オーストリア域内のドイツ軍主力は再編された「オストマルク集団軍」や南軍集団の残余で、統制は崩壊に向かっていました。5月7日・8日に連合国とドイツ国防軍の間で無条件降伏文書が締結・発効すると、その効力はオーストリア全域にも及び、各地の指揮官が相次いで武装解除と投降に応じました。東部・南部では赤軍への降伏、西部・アルプス方面では米軍・仏軍への投降が主で、戦線の終末は地域ごとに時間差をもって進行します。戦闘の終息と並行して、連合軍は軍政の枠組みを据え、交通・通信・食糧・治安の最低限を回復させる作業に着手しました。

重要なのは、戦場の終息と政治の再起動がほぼ同時に走った点です。連合国は早くから1943年のモスクワ宣言で「オーストリアをナチ支配下にある最初の自由国」と位置づけ、その解放と独立回復の原則を確認していました。これを受ける形で、ウィーン奪還直後の1945年4月、カール・レンナーを首班とする暫定政府が樹立され、4月27日に独立回復とナチからの離脱を宣言します。すなわち軍事的にはドイツ軍が降伏し、政治的には「オーストリアとしての再出発」が同時に始まった、という二重の転回が1945年春の核心でした。

占領と再建――四か国分割、管理委員会、非ナチ化と国民生活

ドイツ本土と同じく、戦後のオーストリアは米・英・仏・ソの四か国によって占領管理され、ウィーン市もベルリン同様に四分割の区域管理下に置かれました。オーストリア全体を統括する機関として連合国管理委員会が設けられ、軍政と民政の境界を協議しながら、暫定政府の活動範囲と主権回復への工程が段階的に定められていきます。行政・司法・教育の運転再開、鉄道・発電・食糧配給の復旧、医療と住宅の緊急対策は、占領当局の指導・物資供給と、オーストリア側の技術者・公務員・自治体の努力がかみ合って進みました。

非ナチ化は、連合国と暫定政府が最優先で取り組んだ課題です。ナチ党員の公職追放、治安当局・司法・学校の浄化、メディアと文化団体の規制・更新が行われ、戦犯追及と被害者支援の制度が整えられました。同時に、彼らが生活の現場で果たしていた役割をどう置き換えるかという現実的問題が随伴し、一定の再雇用や資格回復をめぐる判断が地域ごと・部門ごとに揺れ動きます。賠償と資産の扱いも大きな論点で、とくにソ連占領区域では重工業・石油・運輸関連の資産が「USIA(ソ連管理企業)」のもとに置かれ、東西の経済秩序の違いが国内に刻まれることになりました。

政治再建では、社会民主党、人民党、共産党といった戦前からの勢力が合法化され、連立政権の枠組みが整えられます。労使・農業・経済団体と政府が合意形成の場を持つ「社会的パートナーシップ」の雛形が戦後初期に形づくられ、配給・賃金・税制・住宅といった生活直結のテーマが政争化しすぎない仕組みが工夫されました。こうした実務の蓄積は、やがて1955年の国家条約と永世中立宣言へと結実し、完全主権の回復を可能にします。したがって「オーストリア降伏」は、占領→管理→復旧→主権回復という長いプロセスの起点として理解すると、現在の共和国につながる意味が見えやすくなります。

用語の整理――「降伏」の主体と1938年・1943年・1955年の位置づけ

「オーストリア降伏」という語が紛らわしいのは、主体と法的身分が時点によって異なるからです。1938年のアンシュルスでオーストリアはドイツに併合され、主権国家としての国際法上の主体ではなくなりました。ゆえに、1945年に白旗を掲げたのは「オーストリア国家」ではなく、オーストリア領域で戦うドイツ軍・ドイツ当局です。これを踏まえ、連合国は1943年のモスクワ宣言で、オーストリアの併合が無効であるとの政治的立場を明示し、「解放後にオーストリアを独立国として再建する」方向性を掲げました。1945年4月の独立宣言は、まさにその政治線に沿った行為で、降伏と独立が同時期の別側面として現れます。最終的に1955年の国家条約で、四か国は占領を終了し、オーストリアは永世中立を宣言して完全な主権国家として国際社会に復帰しました。

以上をまとめると、歴史用語として「オーストリア降伏」を1945年の出来事に当てる場合、(1)軍事的主体=ドイツ軍の無条件降伏、(2)政治的主体=オーストリアの独立再建の開始、(3)制度的帰結=四か国占領と管理委員会の設置、という三層をきちんと切り分けて把握するのが肝要です。各層の時間軸は完全には一致せず、地域差・部隊差・行政過程の段差があることにも注意が必要です。

近代の「降伏」に相当する局面――ナポレオン戦争と普墺戦争との違い

最後に、近代におけるオーストリアの敗北と講和のうち、慣用的に「降伏」と呼ばれやすい局面を簡潔に整理します。1805年、アウステルリッツの敗北を受けたプレスブルク条約、1809年、ワグラムの敗北を受けたシェーンブルン条約は、いずれもオーストリアが広範な領土割譲と賠償を飲んだ大規模講和で、宮廷と首都が事実上の屈服状態に置かれました。もっとも、これらは独立国家たるオーストリア帝国が敵対国ナポレオンに対して結んだ講和であり、国家主体が何を差し出し何を維持したかが交渉の核心でした。これに対し、1945年の局面では、法的主体としての「オーストリア」は1945年4月まで国際的地位を喪失しており、降伏の当事者はドイツ国家・ドイツ軍でした。ゆえに、〈国家〉の講和と〈占領〉の開始という性質の違いを区別する必要があります。

1866年の普墺戦争後、プラハ条約でオーストリアはドイツ連邦の主導権を失い、イタリア統一にも不利な結果を受け入れましたが、これも「敗北に伴う講和」であって、無条件降伏ではありません。20世紀の二度の世界大戦では、第一次大戦末にオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、講和と国家再編が進み、第二次大戦末には上で述べたとおり「ドイツの敗北のなかでオーストリアが分離・再建される」という特異なパターンをたどりました。すなわち、同じ「降伏」という言葉でも、国家主権、占領、講和条約、国境設定という要素の組み合わせが時代ごとに異なるのです。

「オーストリア降伏」を学ぶ意義は、軍事の終幕をもって政治の始まりとする歴史の転回点を読み取ることにあります。1945年のウィーンの瓦礫の中で、公務員が窓口を開き、技師が送電網をつなぎ、駅員が列車の安全運行を再開させた――そうした細部の復旧の積み重ねが、1955年の完全主権回復へ続いていきました。戦場での白旗は一瞬の出来事ですが、その後ろには、占領管理の制度、非ナチ化と社会の和解、経済復興と国際的合意という長いプロセスが横たわっています。これらを重ねて理解すると、「オーストリア降伏」という短い言葉に、戦争の終わりと国家の再出発という二つの物語が同居していることが見えてきます。