「ガザン・ハン国」という呼称は、厳密な史学用語としては一般的ではありません。しばしば、アフガニスタンのガズナを都としたスンナ派王朝「ガズナ朝(ガズナ王国、Ghaznavids)」と混同・誤記されることがあります。本稿では混乱を避けるため、一般に高校世界史や大学教養で扱われる「ガズナ朝」を中心に解説します。ガズナ朝はテュルク系の軍人出身者が建て(10世紀後半)、イラン東部(ホラーサーン)とインダス上流域へ領域を広げ、イスラーム王朝として初めて恒常的にインド北西部へ進出・定着したことで知られます。マフムード(在位998–1030)の遠征によりパンジャーブを掌握し、ガズナからラホールにいたる回廊にイスラームの政治秩序と都城文化を根づかせました。他方で、1040年ダンダーナカーンの戦いでセルジューク朝にホラーサーンを奪われて以後は、アフガニスタン南東とパンジャーブの地域政権として生き延び、12世紀後半にグル朝(ゴール朝)に屈して幕を閉じます。中央ユーラシア(イラン)と南アジア(インド)の結節点における軍事・財政・文化の統合モデルを示した点が、ガズナ朝の歴史的意義です。
名称・成立と時代背景:テュルク軍人からスルタン権力へ
「ガズナ」は現アフガニスタン中東部の都市で、ヒンドゥークシュ山脈の南側、カーブル盆地の南方に位置します。9〜10世紀のサーマーン朝(イラン系)の東辺を守る軍事拠点として整備され、テュルク系の近衛奴隷軍人(グラーム)出身者が地方総督として配置されました。この仕組みから頭角を現したのが、セブクテギン(在位977–997)です。彼はガズナを基盤に自立化し、ザブルスターンやガルジスタンへ勢力を拡大、息子のマフムードが父の地盤を継承して、ホラーサーンとインドへの本格進出を開始しました。
マフムード・ガズナヴィー(マフムード・オブ・ガズニ)は、アッバース朝カリフから「スルタン」の称号を受け(カリフ権威の下にあるイスラーム世界の保護者としての正統性を演出)、998年に即位すると東西二面作戦を巧みに運用します。西ではホラーサーンの競合勢力を排し、ニシャープール・ヘラート・バルフ・メルブなど交易都市を押さえ、東ではインダス流域へ連年遠征を重ねました。これにより、ガズナ朝はイラン東部の交易利得とインド北西部の歳入を同時に取り込む、二重の収奪・統合経済を築きます。
領域拡大と軍事:ホラーサーンとパンジャーブ、山脈と回廊の戦略
ガズナ朝の軍事の強みは、テュルク系騎兵の機動力と、山岳—オアシス—平野をつなぐ補給線管理の巧妙さにありました。ヒンドゥークシュ南北の峠(ガルデーズ、ゴームルなど)を押さえ、冬営地と夏営地を使い分けながら、カーブル→ガズナ→ガンダーラ(ペシャーワル)→ラホールと伸びる回廊を確保することが、パンジャーブ制圧の鍵でした。マフムードはソムナート遠征(グジャラート方面)を含む十数回の攻撃で多額の財貨と捕虜を獲得し、都城建設・軍拡・学芸振興の原資にあてました。こうした掠奪遠征は、今日の倫理からは問題視される面もありますが、当時の王権財政では重要な資金調達手段でした。
西方では、カラクハン朝との係争を経てトランスオクシアナへの恒久進出は果たせず、やがてセルジューク系トゥグリル・チャグリ兄弟がホラーサーンへ進出します。決定打が1040年のダンダーナカーン(メルブ近郊)の会戦で、ガズナ朝は主力を失い、以後ホラーサーンをセルジューク朝に明け渡しました。以降のガズナ朝は、ガズナ—ラホール圏を実質的中核とし、インド方面の統治・防衛に重点を移します。
統治構造・財政と文化:二都体制、ペルシア語文化の宮廷
ガズナ朝は、ガズナを宗教・記念・王墓の中心、ラホールを東方統治と財政の要所とする「二都的運用」を展開しました。官僚制の中核はイラン系書記(カーティブ)で、財務・文書・税徴収の熟達が国家を支えました。財源は、地租・関税・鉱山収益・隊商課税と、遠征・朝貢による輸入で構成され、奴隷供給(軍務・家内)も経済の一部を占めます。灌漑と市壁の維持、キャラバンサライ・橋・道路の整備は、王命(ヤルグー)の体系に組み込まれ、国庫と都市共同体が分担しました。
宮廷文化の面では、ペルシア語が行政・文学の共通語となり、詩人ファッルフシーやウナスリ、そして何よりフェルドウスィー(『王書=シャー・ナーメ』の献呈)をめぐる逸話が知られます。学芸保護は、王権の威信演出と多民族統合の道具であり、イスラーム神学・法学・歴史叙述・地理学・医学の書籍が翻訳・編纂されました。イスラーム法学はハナフィー学派が優勢で、ウラマー(宗教学者)との連携により裁判・財産権の安定が図られます。
宗教政策では、スンナ派の正統性を強調し、シーア派勢力やインド在地の宗教(ヒンドゥー教寺院・仏教僧院)に対しては、政治・軍事状況に応じて弾圧と容認を使い分けました。寺院破壊と偶像破砕は戦利品獲得と象徴政治の側面を持ちましたが、恒常的な住民支配には徴税・治安・交易保護の現実的配慮が不可欠で、地方では有力地主(ザーミーン)やカースト・僧院ネットワークとの折衝が続きました。
社会と経済の現実:回廊国家の人の動きと市場
ガズナ—カーブル—ラホール回廊は、ヒンドゥークシュ越えの難所でありつつ、東西交易の重要ルートでした。ラクダと馬、ヤクを使い分ける混合輸送、冬季の峠閉鎖を見込んだ穀物・塩・乾果・織物の季節移動、奴隷・宝飾品・金銀・象牙・香料の再輸出が市場を潤しました。都市の職人ギルド、徴税請負人、両替商(サッラーフ)は、軍と官の需要に支えられて成長し、王都ガズナには浴場・ハンマー(市場)・モスク・マドラサが並ぶ都城景観が成立します。
人口移動の面では、テュルク系軍人とその家族、イラン系書記層、イスラーム法学者、カロール族・パシュトゥーン系部族など多様な集団が交錯しました。軍屯田(イクター)や俸給地の分配は、兵站と忠誠の維持に有効でしたが、同時に地方自治の強化や割拠の火種ともなり、王位継承時には将軍の離反が致命傷となることもありました。
衰退・崩壊と遺産:セルジュークの圧迫、グル朝の台頭、インドへの橋渡し
ホラーサーン喪失後、ガズナ朝は東方依存を強め、ラホールが事実上の政治・財政中枢となりました。しかし、ヒンドゥークシュの背後を固める力は徐々に衰え、ガール地方(ゴール)の山岳勢力が台頭します。グル朝の創業者アラーウッディーン・フスローやギヤースッディーン、そして軍事の天才ムイッズッディーン・ムハンマド(いわゆる「ゴール朝のムハンマド」)が勢力を拡張し、1151年にはガズナを焼き、最終的に1186年、ラホールも陥落してガズナ朝は滅亡しました。
ただし、ガズナ朝の遺産は大きく三点挙げられます。第一に、ペルシア語行政と都城文化のインド定着です。ラホール・デリーへと継承され、後の奴隷王朝・デリー・スルタン朝の行政言語・宮廷文化の基盤になりました。第二に、回廊の兵站・税制・市場保護のノウハウです。峠・関所・橋・キャラバンサライの管理や、城塞網の構築は、後継政権に引き継がれました。第三に、スルタン権力の理念です。カリフからの称号授与と現実の軍事・財政能力を組み合わせる「ペルシア化されたスルタン像」が、イスラーム王朝の標準モデルとして広まります。
用語と史料:呼称の整理、主要史料の手がかり
用語上、「ガザン・ハン」はイルハン国の君主(1295–1304)であり、本稿の「ガズナ朝」とは別物です。高校教科書・受験参考書では「ガズナ朝(ガズナ王国)」「ガズナ朝マフムード」と表記されるのが通例です。史料としては、イラン側の歴史叙述(バイハキー『ミシュカート』、ガルディーズィー、ウタービー『ヤミーニー史』など)、アラビア語の年代記、インド側の碑文史料・考古学(ガズナの宮城跡、ミナレット、ラホールの都市層)が有用です。文学面では、フェルドウスィーや比喩詩人たちの献詩・逸話が宮廷イメージの形成に大きく関わりましたが、王と詩人の関係はパトロネージと緊張の両面があり、一次史料の慎重な読み分けが必要です。
また、政治地理上の「パンジャーブ」は当時、五河地方(ジャラーム、チェナーブ、ラーヴィー、サトレジ、ベアス)を指す広い概念で、ラホール・ムルターン・シアールコートの都市連鎖を含みました。ガズナ朝の東方支配は、これら都市の税・兵の供出と道路網確保に依存しており、地方都市史の視点から再評価が進んでいます。
総括:イランとインドをつなぐ「回廊王権」としての位置づけ
ガズナ朝は、テュルク軍人に支えられた機動力と、ペルシア語官僚制の文治を結びつけ、イラン東部とインド北西部の回廊に〈スルタン国家〉の雛形を打ち立てました。ホラーサーン喪失後も、ラホールを軸に地域政権として持続し、その統治技術と文化は、デリー・スルタン朝ひいてはムガル帝国にまで流れ込みます。掠奪遠征という負の側面と、都市・交易・学芸の促進という積極面を併せ持つ複雑な歴史ですが、まさにその二面性に、ユーラシアと南アジアの境界を治める難しさと創造性が現れています。したがって、「ガザン・ハン国」という紛らわしい呼称ではなく、「ガズナ朝(Ghaznavids)」として理解し、イラン—インド回廊史の中に正しく位置づけることが重要です。

