「イラン人(ペルシア人)」とは、文脈によって射程が異なる用語です。日常会話ではイランという国家の国民を指すことが多い一方、歴史学や言語学では「イラン系諸民族(Iranian peoples)」という広い家族を意味し、その中の中心的な一群が「ペルシア人(Persian)」です。ペルシア人は古代ペルシス(現在のイラン南西部ファールス州)を起点に形成され、アケメネス朝以降、行政・文学・宗教・都市文化の担い手として西アジアから中央アジア、インド亜大陸まで大きな影響を及ぼしました。現代では、イラン国内の多数派のほか、アフガニスタンのダリー語話者やタジキスタンのタジク語話者など、言語・文化の連続性をもつ共同体が広域に存在します。本稿では、用語の整理、歴史的形成と言語、社会・文化の特徴、広がりと現代の分布の四点から、分かりやすく解説します。
用語の整理――「イラン人」と「ペルシア人」の違いと重なり
まず「イラン人」は二つの意味で用いられます。第一に、現代国家イランの国籍を持つ人々という〈国民〉の意味です。この意味では、ペルシア語話者に限らず、アゼルバイジャン系トルコ語話者、クルド人、ロル人、バフティヤーリー、バルーチー、アラブ系、トルクメン、アルメニア人、アッシリア人、ユダヤ人など多様な共同体が含まれます。第二に、学術的には、インド・ヨーロッパ語族の〈イラン語派〉(クルド語・パシュトー語・バルーチー語・オセチア語・ペルシア語など)を話す諸民族を総称して「イラン系」と呼び、そこから派生して「イラン人」という広い語が用いられることがあります。
「ペルシア人」はより狭い概念で、歴史的には古代ペルシス地方の部族連合を起点に、後世では〈新ペルシア語(ファールスィー)〉を母語とする都市・農村共同体を指します。イラン国内でペルシア語話者は多数派ですが、国全体の人口に占める割合は時代と推計により差があり、他の民族・言語と共存しています。さらに、アフガニスタンでは公用語の一つ〈ダリー語〉、タジキスタンでは〈タジク語〉がペルシア語の地域変種として広がり、文字体系(アフガニスタンはアラビア文字、タジキスタンはソ連期以降キリル文字)が異なるものの、基本語彙と文法の共通性は高いです。
国名の「イラン」は、中世ペルシア語・ササン期の語形〈エーラーン/イーラーン〉に由来し、「アーリア人(イーラーン)たちの地」という意味合いを持ちます。欧米で長く使われた国名「ペルシア(Persia)」は、古代ギリシア語でペルシス地方(パールサ)に由来する呼称で、1930年代以降、対外的な公称は「イラン」が主となりました。ただし、文化や言語に関しては今も「ペルシア語」「ペルシア絨毯」「ペルシア文学」といった表現が広く用いられています。日常では、国籍を強調するときは「イラン人」、言語・文化を指すときは「ペルシア人/ペルシア語」が便利です。
歴史的形成と言語――古代ペルシスからイスラーム時代、そして近現代へ
ペルシア人の歴史的形成は、古代イランの部族的世界に根を持ちます。前1千年紀、ペルシス(ファールス)とメディア(西部高原)にイラン語派の諸集団が定着し、前6世紀半ば、ペルシスのキュロス2世がアケメネス朝を建てました。アケメネス朝はサトラップ制と王の道に象徴される多民族統治の技法を確立し、古代ペルシア語(楔形文字)が王碑文などで用いられました。アレクサンドロスの征服とセレウコス朝期、続くパルティア(アルサケス朝)を経て、3世紀にササン朝が成立すると、中世ペルシア語(パフラヴィー)が行政・宗教で重用され、ゾロアスター教と王権が緊密に結びついた国家が再編されます。
7世紀のイスラームの拡大は、政治の支配者を交代させましたが、イランの行政・学知・都市文化は新秩序に吸収され、やがて〈新ペルシア語〉がアラビア文字を採り入れて文語として再生します。9〜10世紀、東部イラン(大ホラーサーン)でサーマーン朝がペルシア語文学を庇護し、『王書(シャー・ナーメ)』のフェルドウスィー、詩人ルーダキーらが活躍しました。以後、セルジューク朝、イルハン国、ティムール朝、サファヴィー朝へと政治の担い手が変わっても、ペルシア語は学術・行政・詩文の広域共通語(リンガ・フランカ)として機能し、中央アジア・南アジアに「ペルシア語文化圏(ペルシャネイト)」を形成します。ムガル帝国の宮廷や都市文化もその大きな受け手でした。
16世紀にサファヴィー朝が成立すると、イラン本土では十二イマーム派シーアが公認宗教となり、法学者(ウラマー)と王権の協調の下で都市・教育・儀礼が整えられました。イスファハーンの広場とモスク群、バザール、庭園は、ペルシア人的美意識を視覚化した代表例です。近世末から近代にかけて、ロシア・イギリスとの角逐、立憲革命(1905〜11年)、パフラヴィー朝の中央集権化と近代化、1979年の革命とイスラーム共和国の成立など政治的変動が続きますが、言語としてのペルシア語は国家の枠を超える文化的連続性を持ち続けました。現代のペルシア語は、イラン標準、アフガニスタン(ダリー)、タジキスタン(タジク)の3つを中心に、発音・語彙・表記に差異を持ちつつ相互理解性が高いです。
言語の内部では、詩と散文、宗教文献、歴史・地理書、書簡文が豊かに発達しました。詩人サアディー、ハーフェズ、ルーミー、オマル・ハイヤーム、ニザーミーは、倫理と恋、神秘と諧謔を凝縮した言葉で、イスラーム世界の共通遺産となりました。書記美術ではナスタアリーク体が確立し、書とミニアチュール、装飾写本の総合芸術が洗練を極めました。これらの文学・美術は、イランの都市社会における教育と教養の尺度であり続けています。
社会・宗教・生活文化――都市の公共性と家族、儀礼と歓待の作法
ペルシア人の社会像は、都市の公共性と家族の親密さが交差する場所に見いだせます。都市は金曜モスク(ジャーミ)、バザール(市場)、神学校(マドラサ)、浴場(ハンマーム)、隊商宿(キャラバンサライ)を核に構成され、バザールの評判と信用、宗教者の説教、ギルド(アスナーフ)の規範が、商いと連帯を支えました。ワクフ(寄進財産)は学校や橋、水路、病院、貧者救済の財源となり、宗教と公共善をつなぐ制度として機能します。
宗教は、イラン本土ではシーア派十二イマーム派が多数で、聖地マシュハドやコムの宗教教育都市が法学・倫理の人材を育てます。他方、スンナ派の地域やゾロアスター教徒、ユダヤ教徒、アルメニア教会・アッシリア教会などの歴史的共同体も各地に暮らし、儀礼・言語・職能の伝統を守ってきました。モハッラム月の哀悼儀礼(アーシューラー、アルバイーン)、ラマダーンの断食と夜の食卓、春分のノウルーズ、冬至のヤルダーなど、宗教的・季節的祝祭は、共同体の記憶と倫理を更新する時間です。宗教劇タージィエ、朗誦(ナレー)、詩の口誦は、歴史と道徳を身体化する実践として息づいています。
家族は相互扶助の単位であり、親族・近隣とのネットワークが育児・老親扶助・仕事紹介・冠婚葬祭を支えます。女性は教育と医療、文化・行政、商業で大きな役割を担い、服装規範や家族法をめぐる議論は時代とともに調整されてきました。食文化はハーブと穀類、果実とナッツの組合せが特徴的で、サフラン香る米料理(チェロー/ポロー)、煮込み(ホレシュ:ゴルメ・サブズィー、フェセンジャーン等)、串焼き(ケバーブ)、スープ(アーシュ)、ハーブ盛合せ(サブズィー・ホルダニ)、パン(サンガク、ラヴァーシュ、バルバリー)などが日常を彩ります。歓待の作法は丁重さと節度に重きが置かれ、言葉遣い、席次、茶の出し方までに美意識が宿ります。
工芸と芸術は生活から切り離されていません。絨毯(イスファハーン、タブリーズ、ケルマーン、カシャーン等)、金属工芸、象眼、エナメル(ミーナーカーリー)、木工、タイルは、家庭・モスク・公共建築を装い、幾何・唐草・メダリオンの文様に宇宙観と庭園観が重ねられます。音楽はダストガーという旋法体系で学ばれ、タール、セタール、サントゥール、ネイ、カマンチェ、ダフといった楽器が詩の朗誦と呼応し、即興(タハリール)が聴く者の心を揺さぶります。こうした諸要素は、ペルシア人に固有のものというより、長い交流の歴史の中で磨かれた「共有資産」であり、地域を越えて往還してきました。
広がりと現代――ペルシア語文化圏、周辺のイラン系諸民族、ディアスポラ
ペルシア人の文化的広がりは、国境を超えて展開します。中央アジア(サマルカンド、ブハラ、ヘラート)やインド亜大陸(デリー、ラホール、ハイデラーバード)の宮廷・学寮・都市では、近世にペルシア語が学術と行政の〈共通語〉として機能し、文学・美術・建築・礼法に深い影響を与えました。ムガル朝の庭園・建築、歴史記述、文人社会はその好例です。商人ネットワークはコーカサスやオスマン圏、インド洋世界とつながり、布・香料・金属・書物の流通に関与しました。
一方で、「イラン系諸民族」という広義の枠では、クルド人(クルド語)、パシュトゥーン(パシュトー語)、バルーチ(バルーチー語)、ロル・バフティヤーリー、オセチア(オセチア語)など、多様な言語共同体が含まれます。これらは歴史的に遊牧・半遊牧・農耕・都市生活の諸形態を組み合わせながら、国家と折衝してきました。ペルシア人はこの広い家族の中核であると同時に、その一部分であり、他のイラン系共同体と文化的接点を多く持ちます。アフガニスタンのハザーラのように、ダリー語(ペルシア語系)を話しつつ、系譜や歴史経験が異なる集団も存在し、イラン系世界の多層性を示しています。
現代の分布で見ると、ペルシア語話者はイランに多数、アフガニスタンとタジキスタンに大きく、さらにペルシア湾岸、コーカサス、中央アジアの一部に歴史的コミュニティが残ります。20世紀後半以降、北米・欧州・豪州・湾岸・東アジアへディアスポラが広がり、学術・医療・IT・芸術・飲食などで活躍しています。ディアスポラのネットワークは、詩と音楽の催し、宗教行事、映画祭、レストランや菓子店、書店を通じて文化の回路を維持しつつ、受入社会との間で新しい表現を生み出しています。
政治・法の文脈では、近現代の国家形成と統合政策の中で、言語教育、少数派の権利、地方自治、宗教と国家の関係が調整されてきました。ペルシア語の標準化・メディア・出版は国民統合の要でしたが、他言語の保存・教育とのバランスも課題です。名称の問題(「イラン」「ペルシア」)は、外部への自己紹介の仕方とも関わり、料理・絨毯・音楽・文学の世界では「ペルシア」のブランド力が今も親しまれています。
最後に、アイデンティティの重なり合いに触れます。ペルシア語話者でイラン国籍の市民、ペルシア語話者だが他国籍の市民(アフガニスタン・タジキスタン等)、イラン国籍だが非ペルシア語話者の市民――現代世界では、国民・言語・宗教・地域・階層・職業が交差し、人の自己像は一つのラベルに収まりません。歴史を学ぶうえでは、「イラン人」と「ペルシア人」を固定的に同一視せず、文脈に応じて射程を切り分けることが理解への近道です。文化は流動し、相互に学び合い、翻訳されることで続いてきました。その柔らかな持続こそが、ペルシア人の長い時間を貫く特徴だと言えるでしょう。

